田舎に集まりし、面倒臭い僕ら(オタクども)2
第二色 『田舎者と転居者と旅行者のオタク道』
走ることは好きだった。少なくとも、他のスポーツに比べたらルールが簡単だったから。いや、ルールすら必要なかったと感じていたからだ。
スタートがあってゴールがある。シンプルザベスト。たったそれだけのことなのだ。
深く意識したのは小学生の頃だったか。運動会のリレーの練習でビリ欠になったことを覚えていた。悔しくて悔しく、泣いてしまったことを深く記憶に刻み込まれていた。
家に帰った後、練習だといってひたすら走った。無我夢中で走った。ペースや距離なんて考えずに、というか考える頭なんて持ってなくて、ただ悔しいという気持ちだけ先走って、走って走って、走った。
胸が苦しくなって、足が痛くなって、何度も止まりかけそうになったが動かすことはやめなかった。
運動会当日まで練習をひたすら繰り返した。当然のように足が速くなったが、結果のことは覚えていない。一位だったのか、二位だったのか、三位だったのか、それともまたドベだったのか。
ただその時のことがあったから走るのが好きになったのを覚えている。努力すればちゃんと力になること知ったことが面白くて、嬉しかった。自分にはそれだけの力があるんだと自信になり、それが自分の武器だと思うようになった。
それ以来俺は走ることが好きになったし、気が向けば走るようにしている。
それに走るのが好きなのはそれだけではない。走っている最中は血の巡りが上手く回るおかげか普段よりも思考が回り、妄想が捗り、自分の作品についてあれやこれら色々と考えられるのだ。
そしてそれは今現在でも……。
今現在も夏休み真っ只中の日差しが本格的に照りつき出したクソ暑い午前中に学校のグラウンドを走るのも、俺の中では快いものだった! ……畜生が!!
「夕弌! あと二週だ!! わる、まだ走れどっが!!」
「……うっせ、ウチ殺してくれよかい!」
飛んできた喝に自分にしか聞こえない程の小声で毒づきながら、ペースを少しだけ上げた。加速して風が切る感覚が強くなるのを肌で感じる。真夏の炎天下じゃあ涼しさなどとは言えない。むしろ身体が動かしている分余計に熱を感じるまでである。
肺が求める酸素量が増えて、呼吸が乱れ出す。地面を蹴り出す力も変化して疾走感が増すがそれも瞬間的なもの。一周回る間に訪れた最速は二人抜きを果たしてみせたが、ラストの周回で四人に抜かれてしまった。
ゴールすると、すぐにコース外に―――正確にはコースの内側だが―――出て、ハァハァと乱れた息を整えるのに務めていると、先ほど喝を放ってきた長距離担当、眼鏡と無精ヒゲが特徴の中年教師の吉田が言う。
「わる、やっぱ走れるじゃあなかや。できるなら最後までちゃんとやれ! ほら、もう一周行ってこい!」
(っざけんな、死ねよ、カス)
内心で毒づきながら、声を荒げた大人は素直に怖かったのでまだ息が整っていない状態で元気なく、吉田を睨みつけて「……あい!」とイラついた反抗的な声で答え、もう一週走りに行く。
都会だったらたぶん体罰やら訴えられるんだろうな。訴える勇気ないけど。
ま、例え、都会でもそれは難しかったかもしれない。実際に手を上げられている訳でもないし、部活で顧問が厳しく当たるのは当然だろう。正確には部活でもないが。
ひとっ走り終えると、ようやく納得したのか吉田から許しを得て、小休止を貰う。俺は水場へと足を運び、ゴクゴクと蛇口から出てくる夏の日差しのせいでぬるい水で喉を潤す。俺と同じ吉田のシゴキから解放された者達がゾクゾクとやってきて、後が控えているのですぐに飲み終えて場所を譲った。
その後、木陰のある場所へとふらふらへと行き、フェンスへもたれ掛かるようにして地面に座り込む。
はぁー、ふぅー、と大きく吸い込んでから大きく息を吐く。まるで疲労の溜まった中年のような息の吐き方だった。
だいぶ疲れが溜まっている。夏休みに入ったというのに全然休みなどはなく、午前中は陸上と受験勉強をし、午後からも少しの間だけ勉強し、帰ったら店の手伝い、そして、執筆活動をやったりやらなかったり……。
ふぅーともう一度息を吐いた。今度はため息を吐くかのようにし、空を仰いだ。雲一つない澄んだ青空、本日も晴天なり、と当たり障りもなく適当に詠みつつ、頭を悩ませる。
小説に関してだ。
折角の夏休みだ、次こそは書き起こしたい、書き切りたい、完成させたいと思う気持ちが募らせるものの、その結果は皆無。とりあえず筆を動かして文章を書き越してみるが、二、三行で止まってしまうのが常だ。頭を悩ませて考えてみるも次の言葉が出てこない。
展開が、流れが、一説が、意味が、出てこない。
どう書けばいいのか分からない。書きたいと、続きを綴りたいと、思っているのに、どうしていいのか分からない。
書き手は俺で、正解は俺の手でしか生まれないのに。勉強やクイズやルールといったものとは違って、答えは何一つ決まっていないのに、答えが分からないと思えてしまうのは何故だ?
こんな簡単なことに迷っている俺は、小説を書く資格は、物語を生み出す人間にはなれないのか?
強烈な不安感に襲われる。走った疲労感なんてどうでもよくなるくらいに。もしかしたら疲労感がそう頭に考えさせているのかもしれない。
これはまるで……好きなものから拒絶された気分だった。
こんなに思っているのに、こんなに欲しているのに、こんなに好きなのに、……相手はまるで俺のこと相手にしていないような寂しくて、怖くて、どうしていいのか分からない不安な気持ちが溢れ出てきて胸が張り裂けそうだった。
友達に、幼馴染に、クラスメートに、「ダサい」「子供っぽい」と言われて離れていった時のことを思い出した。あの時も似たような思いがあったけど、ここまでじゃあなかった。
心の中では、……いつか決別する日が来るのだと思っていた。
コイツらはいつか好きだったものが、好きで無くなる日がくるのだろう。大人と子供としての区切りがくる日が。
覚悟していたことだったけど、だけどやはり傷つくものは傷ついた。
昨日まで好きなもの共有していた友達がある日そうでなくなるのが、もう好きじゃあない、興味ない、と一言で切り捨てられるのは怖い。
そしてそれはコイツらではなく、俺にも訪れる日が。
………たぶん、俺が本当に怖いのは……。自分が、自分自身が、……そう―――、
「よう、朝から頑張ってな」
「!?」
暗くシリアスな空気に引き込まれていたら、後ろから突然声をかけられたことに驚き、反射的に振り返る。フェンス越しにようと、人懐っこそうな笑みを浮かべたイケメンが。
「……仲村、来てたんか」
「おう、まあな。お前結構足速えんだな」
「まあ、……普通ばってん」
最近知り合った仲村恭和がそこに立っていた。俺は仲村の語りかけに適当に応答して視線をグランドの方へと戻す。後輩達が先ほどの俺と同じように吉田から追い込みかけられていた。
「陸上部だったんだな」
「違う。特設陸上ってヤツ。俺はサッカー部……、いってももう引退したばってん」
「三年だからな。ん? じゃあなんでお前走ってんだ?」
「秋に大会があるから、それに一応出るんだよ」
「ああ、選手に選ばれているのか」
「控え。やる気もない」
適当に返すと、納得したのかそれとも元から興味がないのか、あ~、と曖昧に言葉で返してくる。
二人して面白くもなく、後輩たちの追い込みを眺め、仲村は「速えな」とぼやき、いやむしろスピード下がっている、と俺は思った。明らかに練習の疲れが出ているし、陽の熱さでバテている後輩たちの走り。大会のラストスパートでもあるまいに、吉田のシゴキでテンションが下がってやる気ゼロの練習に対してそこまでスピードは出てないように感じられた。
俺がそうだったんだ、アイツらも同じ気持ちだろう。
観ていても面白くなかったので、話題を変えて仲村に訊ねる。
「で、そっちは? 学校見学かなんかか?」
「ん? まあそんなとこ。というか、お前に会いに来た」
「俺に? なん?」
俺に用があると言われて、対して面白くもない後輩の追い込みから目を逸らして、仲村の方へと向けて聞き返す。
「ああ、お前ん家で飯奢ってくれよ。今日、父さん達帰り遅くてな」
「マジでタダ飯ば食いに来んなゃよ」
先日、というか一、ニ週間前。つまりは俺達が出会った日の事だ。
あの後俺達は別れてそれぞれ帰宅したが、すぐに再開することになった。家、というかウチの店に仲村達が飯を食いにきたのだ。
俺の家は飯屋―――昼間は食堂、夜は居酒屋兼―――をやっている。その上、ウチの親父と仲村の親父さんが実は先輩後輩の仲らしく―――まあ、この島育ちの人なら大抵知り合いだが―――仲村親子がこっちにやってくることや仕事を探しているやら、あと他にもなんやら色々とごたごたしているそうで、困っている後輩を見かねたおとんが「子供の面倒くらいはこっちでみてやる。なに、今更一人くらい増えたって構わない」と豪快で無計画なことを言ってくれた。
いや、子供側からしたらこれ以上兄弟いらないんだけど……。ただでさえ、人ん家より兄弟が多いのに、兄貴達の結婚で義理の兄妹や甥と姪も増えて名前覚えられなくなってきたんだけど。
本当にウチの子になるわけではないが、とりあえず困った時にタダ飯くらいは奢ってやるくらいの話に落ち着いたのだ。
「おじさん達が良いって言ったじゃねえか」
「社交辞令って言葉覚えろ」
「言葉は覚えているよ。意味は知らねえけど。タダ飯は貰えるもん、ってか?」
アハハ、と楽しそうに笑って誤魔化そうとする仲村。それに俺は呆れながら後輩達の方へと視線を戻す。……終わったようだ。
後輩達が終わると、吉田はグラウンドから見える校舎の時計を確認していた。腕時計を嵌めているがそっちはタイムとか計るのに使っているため時間を確認する時は校舎の時計で確認するのが常だ。
ここからでは時計は見えないが、こっちに来る前に時間自体は確認したのでだいたい分かっている。もうすぐ十時だ。
そして、吉田が集合を掛けてくる。陸上はこれにて終了。仲村の方を見らずに言う。
「終わった。……あと二時間くらい適当に時間潰しといてくれ。今から勉強会だから、その後飯を奢ったるけん」
「ん? お、おう。分かった」
簡潔に必要なことだけ告げると、仲村が頷いて返答する。それを確かに耳にしながら俺は他の者たちと合わせて吉田の元へと走って行った。
× × ×
「さて、どう時間潰すかな」
俺はこの後予定をどうするか、首を捻っていた。
学校のグラウンドは先ほどよりも人間が減り、練習も陸上からサッカーへと移り変わっていた。
最初は単純に部活の使用時間の交代かと思ったがそれは少し違った。杉田など含めた何名かは校舎内へと行き、女子は体育館、で、残った男子がボールやゴールの準備をしてサッカーを始め出したのだ。
練習内容、というか陸上からサッカーへと競技の変更の一連の流れだった。
人間自体の変動もあるが、杉田は勉強会だといっていたことから、おそらくは三年は受験勉強かなにかだろう。杉田達の校舎グループは三年生。体育館に行った女子組はたぶん体育館系の何かの部活、バスケやバレーだろう。で、残った男子がサッカー部ということか。
父さんや杉田とかに聞いた話によるとこの学校はスポーツの部活しかない上、部活動の入部は強制らしい。人間のいない田舎らしさを感じられる。
ま、三年の二学期からの転校生である俺にはもはや関係ない話ではあるが。いくら強制でもこの時期じゃあ部活動なんてできっこないからな。
そんな風に高を括っていると、別の方からガヤガヤと声が聞こえてきて、「ん?」と気になってそちらへと視線を向ける。
ガヤガヤ、と騒いでいたのは運動をしやすそうな私服のたぶん中、高生ほどの数名だった。そいつらは「あちぃ~」の「夏休みなのにやることねえ(笑)」「相変わらず、吉田うるせえ」と笑いながら愚痴を零しつつ、学校の敷地内に入ってきた。
吉田、と生徒や今侵入していった高校生達から呼ばれていた、眼鏡をかけた無精髭の中年親父の元へと挨拶のような二、三を交わすと部活の和へと入っては一緒にボールを蹴り出し始めた。
……あ、いわゆるOBか何か。
会話の内容小耳に挟んで遅まきになってその可能性が思い至った。てっきり遅刻してきた奴らとか陸上をやらない連中か、と最初はそっちの方だと思っていたが、聞こえてきた声からは「練習参加します」と「頼んだ。後で紅白戦とかしたいけん」「了っす」とそんなやり取りだったので、OBだと理解した。
思えば、サッカー部の中学生はパッと見で十名いるかいないかくらいか(あれ? サッカーって十人だっけ? 確か十三人だった気がする)、そこに今入ってきた六、七人くらいの人間合わせても……全体で二十名いるかいないかの人数だ。
離島の田舎で人数が少ないと聞いていたが……なんで人間少ないのに、人数が多く必要とするサッカー部がメインなのか少し不思議だ。
それならさっきまでやっていた、基本個人競技である陸上とかでいいのに。
「おい!」
あ、やべっ。見つかった。
一人でボケーっとそんなことを考えてながら眺めていると、指導者の髭眼鏡のおっさんと目が合ってしまい、呼び掛けられた。
目を逸らして逃げようかとしていると、先手を打たれるように髭眼鏡のおっさんがすぐに接近して柵越しに声をかけられた。
「お前、誰や? あ? 見たことなかばってん」
「あ、はあ……えーと」
何だか関西でチンピラに絡まれる図のような展開だった。このまま「兄ちゃん、なんぼ持ってんねん、ほらジャンプせんかい!」みたいな事を言われたらどうしようかと内心ビクビクしていると、吉田は何か気づいたようにして訊ねてくる。
「あ。お前、……もしかして二学期からくる……えーと、名前なんけえ?」
「あ、……えーと………仲村……恭和、です……」
名前を言うかどうか正直本気で迷ったけど、おっさんの圧が怖かったから思わず答えてしまった。俺の名前を聞くと、「ああ、そがんやったな」と納得したように頷いていた。
「……二学期からお世話になります」
緊張しつつ、愛想笑いを浮かべながら挨拶しておく。そうすると、気を許したような笑みを浮かべる眼鏡のおっさん。
「どがん? 挨拶か?」
「えーと、……まあ、そんなところです。近くに寄ったから見に来ただけです」
正確には杉田にたかりにきたのだが、転校前から教師に印象を悪くする訳にはいかないために無難に答えておく。さっきまでの陸上のシゴキとか見る限りキレたら面倒そう類だろう。見た目からしても昭和寄りタイプっぽいし。もうすぐ平成も終わると言うのに。
「なら、お前もやってくか? 見てても面白くなかろ?」
親指をグイ、とグランドの方に向けてサッカーをやらないかと誘われる。そのことにえーと、と言葉に詰まってしまう。
………なんとなく見つかったら誘われるんじゃあないのかとは思っていたが、案の定の展開だった。
「いや、いいです」
「よかぞ、遠慮せんで。お前ボール捌き上手そうだし」
「いえ、そんなことないです」
俺の細身の身体をみて、技巧派だとか軽装選手だとでも思ったのか、遠慮するなと誘ってくる眼鏡のおっさんにやんわりと断る。
実は俺は……運動は苦手だ。運動音痴って程ではないが、少なくとも先ほど見ていた杉田のようには走れないし、今サッカー部がやっているウォーミングアップの一種なんだろうけど、ボールタッチのボール捌きは上手くない。
あと泳げない。折角の離島の……それこそドラマとかである海の島って場所なんだが、泳げないから近づこうとは思わない。ついでに言うとじいちゃんが小便したり、ゴミ燃やしたり、そんなことした海に入ろうとは思えない。
誘いを断る俺に、もう一度は「別によかぞ、入って。知らん奴らしかおらんばってん、仲良くなるにためにも、なゃ!」と言ってくるがそれも断ると「そがんか、……ならわかった」と少し残念そうだがあっさりと諦めてくれた。
気が向いたらいつでん入ってきていいぞ、と一言告げるとサッカー部の方へと去っていく。
意外だな。
見た目からしてもう少し強引に誘ってくると思ったが、案外あっさり引いてくれたことに驚く。
そのまま眼鏡のおっさんは練習の指示を部員たちにして、次に先ほど介入してきたOB達にも指示を出し練習は始まった。
パス回し、シュート練、1on1、連携、ミニゲーム……といったくらいに。
俺が言うのも何だか、お世辞にも上手いと呼べる連中ではなかった。アイツらにとっては真面目な練習なんだろうけど、ミスが多く、笑いも多い、顧問の髭眼鏡のおっさんだけが真剣に指導……というか激昂しているが、あまりいいアドバイスとは思えない、感情論的なもの声を荒げていた。「諦めるな!」「もう少し粘れ!」と言ったようなもの。
見る限りでは少なくとも俺がいた中学のサッカー部の方がまだ上手いと思える光景だ。
そんな練習風景を苦笑いしつつ、俺は見学を続ける。
夏の日差しは強く、日陰にいても暑さは防げない。本当は外に出て、呑気にサッカー観戦するタイプの俺ではない。どちらかというと家で漫画やアニメにゲームといったインドア派で、外出するのも何かしらのその手の買い物やイベント事に参加することくらいだけだ。
それに今年の夏だって、本当は………。
「……っ!!」
脳裏に焼き付くように一か月ほど前の光景が奔った。
そしてもうそこには居場所は無くて、あっけなく消えてなくなってしまって。二度と戻らない。
額から顎へと流れるように汗が零れる。じっとりと身体に服が湿って纏わりついた嫌な感触、常夏の島の暑さに嫌気が差す。
汗を拭いながら自分の心に抱いた気持ち悪い感情も一緒に拭い去る。
…………。
全く、こんなクソ暑い炎天下でサッカーなんてものをやるなんてとても考えられない神経だ。コイツら全員修行僧かドмなのかもしれない。
真剣さはあるものの、時々出る楽しそうな笑い声は蝉の鳴き声よりも俺の耳に響き渡る。
「いつか簡単に壊れる関係性。……それなのに、仲間とか笑えるわ」
自分にしか聞こえない言葉でサッカーやっている連中の笑い声を消して、蝉の鳴き声だけを耳にする。
俺は……。
「こんにちは!」
「オワット!!??」
シリアスに構えていたら、突然後ろから声をかけられてしまい思わず奇声を上げてしまった。
慌てて振り返ってみると、そこにはサングラスをかけた同い年くらいの少女が立っていた。
青黒いキャスケットに白のブラウス、スカートの下はレギンスを履いており、背中に小型バックを背負った、観光客らしき見た目からして同い年くらいの少女。
先ほどの独り言を聞かれたんじゃないのかとドキドキとしまくっている俺に対して、ソイツは屈託のない笑みで話しかけてくる。
「この学校の人ですか?」
「え、あ、いや。違う」
サングラスは俺と学校の方を交互に指を差してそう訊ねてきた。俺はそれを否定した。正確にはまだだが。
九月から……つまり二学期から編入するのでまだこの学校の生徒ではない。
けれど、そこまでの説明する義理はないから否定だけですませておく。
「あ、じゃあ私と同じ旅行者だ。よろしくでぇーす」
同じ旅行者だと思い、それが嬉しさを感じたのか、サングラスは笑う。
「え、何? 逆ナン? 悪いけどそういうのは………勘弁で」
「え? ギャク……ナン? 新しい……インドの、カレー? 」
「………」
何故かボケられた。意味をちゃんと分からない天然のようだ。逆に勘違いした俺が恥ずかしいし、何だったら、軽く笑って『ハハハ、何ソレ、君面白い(笑)。というかキモイ、ウケる』くらいの馬鹿にされる返しを期待していたくらいなのに。
二人の間に少しだけ冷めた、いたたまれない空気が流れる。
すると真剣な顔でサングラスの少女は口を開く。
「……流行っているの? その『ギャクナン』と言うカレーは? 最近の流行なの?」
「………………」
あ、コイツ、馬鹿だ。
いたたまれない空気と感じていたのは俺だけで、サングラスの中で逆ナンを『ギャクナン』という新たなインドカレーか何かだと真剣に考えていたらしい。というかナンはパンであって、カレーじゃあねえよ。
「あ、もしかしてこの島の名物?」
「……そうだ」
閃いた! というような顔で聞いてくるサングラスの少女の言葉に俺は頷いた。
う~ん、この手の相手は少しからかい半分の返しの方が何かにかけていいだろう。
バカ……ではなく、天然な人間とは色々と苦労する人種だ。社会がいかに厳しいのか、自分がどれだけ世間知らずか、他人の言葉をそう簡単に信じてならないということを分からせるためにも、ここは心を鬼にして一度痛い目をみた方がいいのだ。
そう、全てはサングラスの少女のためにも!
決してからかい半分、面白半分の気持ちではない。決して!
そんな邪な……ではなく、サングラスの少女の事を慮れる優しき俺は、特に「冗談だ」などとの訂正などはなしない。
するとサングラスの少女の方は「へえーそうなんだ」と興味深そうにしている。
「それってどこで行けば食べられますか?」
「飯屋で『海の幸』って店に行けばある」
ちなみに杉田の店だ。もちろんそんなメニューは存在しない。
「裏メニューだから、注文する時は『今日の海は凪いでますね』って言ってから注文で『本場の辛いヤツ』って言えばいいぞ」
「おぉー、合言葉。カッコいい。なんか、こう、『ツウ』ってやつだね!」
ノリで適当に言っただけだが、サングラスの少女にとってはツボだったようで前のめりになってサングラス越しでも分かるほどに目を輝かせる。
……なんて単純なヤツなんだ! 今時の小学生すらこの手は通用しないぞ。俺の妹がそうだったもの。
つまり、サングラスは小学生以下となる。
他には? 他には!? と子供が催促してくるような雰囲気を醸し出してくるサングラスに一体どこまで騙せるところまで行けるのかと試してみたい、と俺の悪魔が囁く。
「真理愛!」
なんて言って騙そうか考えていると、知らない声がかかる。サングラスの少女と二人してそちらの方を向くと見知らぬ美人さんが現れ、「あ、お母さん」……お母さん?
少女の母親なのか、美人さんは怒った顔でこちらへと近づいてきた。
「勝手に行かないの! あれほど言ったのに、迷子になったらどうする気なの。そうじゃなくてもあなたは……」
「あ~、ごめんごめん。だってお母さんの電話長いんだもん」
「言い訳しない! 目を離した隙に逃げ出すって、あなたは」
「だから、ごめんって! 折角だから色々と聞いてみたいと思ったの!」
「全くもう。……あら、あなたは?」
俺の存在に気づいたのか、少女のお母さんが呟いて、俺も反射的に「あ、どうも」と頭を下げた。
「この島の人?」
「ううん、私たちと同じで旅行者みたい」
俺が答える前に母親の質問に答えられる。
いや、流石にこの島の人間ではある……はず。まだこの学校の生徒ではないだけで。
ちゃんとした事実を伝えようと口を開こうとするが、サングラス母が先に口を開く。
「この島にはご親戚かどちらかが?」
「あ、じいちゃんが……。父親の実家で」
「そう、里帰りなのね」
俺の返答にそう解釈されて、ますます誤解が深まってしまった。そして厄介なことに俺自身が意図して嘘を吐いた訳ではなく、あちらが勝手に思い込んでいるのだ。先ほどまでサングラスに嘘ついた時はよく騙されるものだからつい楽しいと思ったが、特に何もしていないのに誤解を与えているとなると少し良心が痛むものを感じる。
一応、誤解を解いておこうと口を開きかけたが、その前にサングラスの少女が「そんなことよりも早くいこうよお母さん」と母親の手を引っ張って駄々をこねる。
どうでもいいがさっきから俺が何か言う前に口を出されるな。……狙ってんのか?
サングラスの少女の母は困ったような、しかしどこか嬉しそうな顔をして「本当にあなたは……」と呟いては「少し待ちなさい」と諫めてから俺に「ごめんなさいね」と頭を下げてくる。
俺は「あ、いえ」と適当に返した。
なんで、嬉しそうな顔をしたんだろう? ただの呆れ笑いか。
少女の方へと視線を移すとすると俺の視線に気づき、ニッと笑ってきたので、それでただの呆れ笑いだったのだと確証した。なんだ、この、ムカつくアホ丸出しの笑顔。
少女は俺に近づいてくる。
「今からね、烏頭ヶ岳に行くの!」
「うずがだけ?」
いきなり知らない場所の名所を出されて、首を傾げながらサングラスの言葉を復唱する。
「あれぇ~、知らないの」
某少年探偵のセリフを頭に過らせるように、俺が知らないことに対してサングラスはニヤニヤと嘲笑うような顔する。やっぱり、ムカつくなコイツ、一発殴ってやろうか。
何気ない仕草に苛つきを覚えていると俺の心を代弁するかように、母親が「調子に乗らないの」と少女にチョップする。「あ、痛て」と打たれたところを撫でながら悪戯っ子のようにして舌を出して、テヘ、と笑う。
お母さん、ソイツ反省してないんでもう一発お願いします。
内心でそう願ったがしかし、残念なことにもう一発食らうことはなかった。代わりに母親は娘の言葉を補足をしてくれる。
「烏頭ヶ岳はここの島の観光地の一つでね。山頂はこの島を一望できるのよ」
「と~っても、キレイな景色なんだよ!!」
「へえ~」
語調を強めて告げてくる少女に対して特に興味を抱かずに頷いた。景色を一望できるといわれても、別にこの島を隅々まで知りたいとか思っていないからな。
それにこんな田舎島なんてそういうのしか名所になってないのだろう。景色が絶景とかなんとか。
「あ、疑っているな。本当なんだよ!」
俺の反応の鈍さが気にいらなかったのか、サングラスは憤怒しくれるがハイハイ、と適当にあしらうけど、少女はナニその態度、とふくれっ面だ。その顔を見て、少女の母親の手前で悪いと思って仕方なく俺は答える。
「……まあ、海は綺麗だと思ったよ」
嘘ではなかった。都会育ちの俺は何気に海を見ることは初めてだった。
海は青い、とよく言うが、実際に海を見た時の感想は青というよりも、蒼や碧といった言葉の方がしっくりくる色合いだ。
淀んで濁ったかのようにも、同時に澄んだような色合いに見える。
その海の蒼碧色は俺の目には幻想的な美しさに映ったのだ。ああ、海ってこんなにも奇麗なものなのか、と感動を覚えた。
………まあ、その数時間後に、じいちゃんへと挨拶するため会いに行って、じいちゃんが港で小便していたのを見かけたからその感動を薄れたが。海だけに感動が波に流れたのだ。
「ああ、いいよね、海! うん、サイコーに綺麗だよね!」
感動とショックの気まずい回想する俺だが、話した言葉自体には深く同意したのかサングラスの少女の表情は、うんうん、何度も頷いていた。
……続きの、じいちゃんの話をすればどう反応するかな、と悪戯心が湧くが、少女の母親の手前だったために口にするのは避けた。
コイツ単体だと別に構わないが、保護者の前だと悪い印象を与えたくない。
ごめんなさい、そろそろ、と母親の方が申し訳なさそうに会話を止めてくれる。「あ、そうだね」と彼女も頷く。
どうやらそろそろ出発する予定らしい。
これから山に登るのか、これからまた暑くなるそうなのに。登山経験はないが、こういうのって結構日の出前にとかに登るもんじゃあないのか?
そんなことを考えているとサングラスの少女は片手を合わせてくる。
「そんなことだからごめんね。君の教えてくれたお店でのメニューは今夜にするね。今から登ってくるね」
「……あ、うん、そうか」
つまり、昼間から杉田ん家の店でタダ飯食いに行く時、コイツのドヤ顔で注文して、そんな注文はない、とおじさんとかに言われて赤っ恥を晒す瞬間を拝めないのか。実に残念だ。
じゃあバイバイ、と手を振る二人と俺は別れた。