人の信仰に、神は宿る。
偽薬効果、というものがある。ざっくり言うと、それに効果があると疑いなく信じる時、ただのラムネ玉でも病を癒す薬になる、ということである。まあ、限度はあるが。
私は、宗教にもそのようなところがあると思う。疑いなく信仰することが、脳に作用し、己の肉体に良い効果をもたらすということは、ありえないことではないと思う。逆に、悪い効果がある時だってあるだろうが。
例えば、呪いとは、己が呪われているのだと、思いこませてからが本番である。悪い思い込みが相手の心を蝕み、現実を悪く認識させ、悪手を無意識に選ばせる。偶然の不幸に悪意を見出し、疑心暗鬼に陥らせる。疑いに曇った眼は、現実を悪意で歪めて捉える。そうして、呪いは人を転落させる。
言ってみれば、コップに半分水が入っている状態を「半分しかない」と取るか「半分もある」と取るかの違いみたいなものである。意味は人の主観に宿るものであり、それ単独ではただの事実であり、意味は有しない。意味を見出すものがなければそれはただの現象、現実である。
だから、そう疑いなく信仰している人間にとって、神は力あるものであり、現実に作用し顕れるものである。信仰によって病が治るとか、そういう現世の功徳があることも、まあ、あるのだろう。ただ、それはその人が疑いなく信仰できて、その信仰心による脳作用でどうにかなる程度のものだったからそうなったのであって、全ての人間が同じように救われるとは限らない。人間は万能ではないのだから、信仰の脳作用では力が及ばぬ領域というものはある。それは、信心が足りぬのではなく、人の身だけでは足りぬ業であったということである。
信じるものは救われる、という言葉がある。一面においてはそうであろう。だが、信じぬものが救われぬ、とも限らない。ただ、救いを求めることをせぬものは救われぬ。救いはある程度、その者の主観に依存する。己は救われぬ、と思い込んでいるものを救うことは、少なくとも人にはできない。
プラセボは本人にのみ効果のあるものだから、同じ薬を飲ませずして他者に何らかの効果をもたらすことはない。だから、親が信仰することで子がどうにかなることはないと思う。ただ、信仰した親の行動を受けて、子供に何らかの影響が生じることは当然あるだろう。それは宗教の効果ではなく、ただ、行動の結果である。子供にも信仰させることは本人に同じ薬を飲ませることであるので、何等かの効果の生じることではあろうが、他者に強制された信仰は濁るから、碌なものではない。
疑いなく信じるということは、なかなかに難しい。実行の難度もそうだが、その是非もだ。無批判に受け入れることはただの思考停止だが、ならば、散々疑って納得したならそれでいいのかといえば、それもどうなのだろう。そちらの方がより性質が悪い気もする。それが己の信を預けるに足るものか、という批判の目は常に持つべきであろう。人は間違うものだ。己が間違わぬと言い切れるやつは、ただの阿呆である。
そもそも、病は気から、という言葉もある。人間の精神は、良くも悪くも己の肉体に作用するものだ。気の持ちようで悪くなったり良くなったりすることもある。気の持ちようだけではどうにもならないものも勿論ある。人間は己自身ですら全てを思い通りに支配することはできないからである。
思うに、神に縋るしかない状況では、かえって神に縋るべきではない。信仰で救えるのは、自力で救われることのできる範囲の人間だけなのではないだろうか。この自力を、外から引き出してくれるのが信仰である、という意味合いでだ。病はきちんとした医師にかかるべきだし、人付き合いは当人たちで話し合うか、それで無理なら第三者に介入してもらうしかない。己の幸福は己で決めるべきだし、他者の幸福を求めるのはただのお節介で、他者の不幸を望むのは邪悪である。勿論、それで本人に悔いがないなら、宗教に縋るのも本人の自由だ。
この国には信教の自由がある。だから、何を信仰するのも個人の自由である。ただ、信仰の結果選ぶ行動が他者に害をもたらす場合、それは個人の自由で片付けて良いものではなくなる。それだけの話である。
この世界には、宗教の形をしていない宗教や、逆に宗教の形をした宗教でないものもある。ただ一つのものを盲信するのは、それが何であれ危険なことなので、色々なものを信じる方が良いと、私は個人的にそう思う。
まあ、これは個人の宗教観なので




