⑧
(ど、ドキドキするわ)
マリアンヌは侍の部屋の前にいた。
今までここに来た時は何も感じなかったが、今では妙に意識してしまう。
ドクンドクン、と心臓の鼓動を体全体で感じていた。
「や、侍いる~?」
「んー」
部屋をのぞいてみると、侍の声らしき返事が戻ってきた。
大きな音を立てないように、ゆっくりと部屋に入っていく。
部屋の模様はマリアンヌが知っているものと似ていたが、やはり部分部分が違った。
靴を脱いで上がるところや、フローリングではなくて畳なのがその一例だ。
畳の上に引かれた布団に侍は横になっていた。マリアンヌに背を向けて。
「その、大変だったんでしょう。なにの、私手伝ってきてくれたのよね。Merci. そしてごめんなさい。そんなことに気付かずにいろいろ振り回して。Je suis désolée」
そう言葉を紡ぐマリアンヌだったが、侍からの返事はない。
そのことに焦りを覚える。
「そ、それからね、お菓子を焼いてきたの。お詫びと……あ、あと教えてもらってばかりだったから、その――私の料理も知ってもらいたくて。ま、マドレーヌを持ってきたの。口に合うといいんだけど」
だが、ここまで言っても侍からの返事は一向にない。
アホ毛がぺたんと垂れ、かたをぎゅっと閉め、身体がふるふると震え始める。
「……すん。そ、そうよね。何も考えずに振り回し続けたんだから、簡単に赦してくれるわけないわよね。ほんとに、ごめんね。でも、せめてお菓子だけは……ッ」
そのきれいな頬に涙が流れ始める。ぽとぽと、と少しずつ畳に落ちていく。
徐々に音が早くなっていく。
そして、とうとう言葉が紡げなくなるくらいに泣きじゃくってしまう。
「お願い。せめて顔だけでも見せてくれないかしら。これじゃ――私……」
畳に座り、侍に身体を近づける。
震えが止まらないその弱々しい手を侍に伸ばす。
ぐりゃりと空間が歪んでいるように見えるそこへ伸ばしていく。
そして――その手は肩に届いた。
時間的には十秒もかかってないかもしれない。
でも、マリアンヌにはそれが悠久の時を流れるかのように、伸ばしても伸ばしても届かないように感じた。
「ねえ、侍!」
それでも手は大和に届いたのだ。
「侍ってばっ‼」
ぐいっと肩を抱き寄せるかのようにがっちりと掴む。
グルンと侍の身体が、マリアンヌのほうを向いた。
「すぅ……。すぅ……」
そう、確かに手は届いたのだ。心地よさそうに寝息を立てる侍に。
「ッ!」
ザザァ、と思いっきり後ずさるマリアンヌ。
いったい何が起きているのか理解出来ていない混乱の中、どうにかして今の状況をかみ砕いていく。
(えっ、侍は寝ていたの。いつから? もしかしてはじめから。そうなると、ぇ――――)
自分が今さっきまで何をしていたのかようやく気付いた。
ただ一人で、伝えたい人は寝ていて、その中で勝手に勘違いして、ひとりでに泣いて、挙句の果てに大和に許しをもらおうとしてしまった。
ぷるぷるぷる、と先ほどとは全く違う種類の震えがマリアンヌを包み込む。
きゅぅぅぅ、となるような羞恥心とともに、わなわなといった感じの怒りが湧き上がってきた。
「さ」
立ち上がる。
「さ」
マドレーヌの入ったバスケットを振りかぶる。
「さ」
左足を踏み込む。そして、
「侍のバカァ――――――――――!」
めいいっぱいそれを侍に向けてたたきつけた。
「おふぅ」
それが直撃した瞬間、侍から間抜けそうな声が漏れる。
「アホ。マヌケ。マジメ。タラシ。バカ」
ドスドス、と激しい地団駄をマリアンヌは踏み鳴らす。
そんな光景をアホ毛たちは嘲笑うかのように見ていた。
フシュー、といったようにマリアンヌは大きく息を吐き出すと、プイっと顔を背けて侍の部屋を出ていく。
その身体は怒り心頭だったが、心は思うのほかすっきりしていた。ここを訪れたマリアンヌに後悔の色などどこにもなかった。
そんなことがあってから数日後。侍が目覚める前日。マリアンヌはイギリス共々食中毒になっていた。
何が原因か。そんなもの二つくらいしかない。
鮮度の落ちた生魚か、生で食べてしまった卵か、だ。
あまりの腹痛のあまり、動くことも、声を発すことも難しい状況にマリアンヌは陥ってしまった。
だが、彼女にはやるべきことがあった。侍に感謝の気持ちを伝える事である。
「うう」
ペンと紙を取り、自分の今の思いを書き綴ろうとする。
しかし、意識が朦朧としてくる。もう何も思考できていない。
ただ一つ残っているもの、いまの気持ちを素直に書くことだけで動いている感じだった。
書き終えた手紙をちゃんと包装し、様子を見に来たサミュエルに届けることを頼んだ。
そして、マリアンヌの意識は混濁し、ヤミの中に落ちていった。
――ごめんね。あの卵が私を蝕んで来て、あのとき暴走して。
マリアンヌの手紙にはしっかりと最後の意思が反映されていた。今のありのままの気持ちを素直に書くということが。
この何の脈絡のない手紙のことを、後に侍に訊かれて、赤面してしまうのはまた別の話。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
まさかの宣伝を趣味アカに呟いてしまうミス。
明日から学校や!
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