変化する
「びっくりだ」
「は?」
「私が金で動くと、そう考えたことに対して、びっくりしたと言ったんだよ」
ざわ、と場の雰囲気が変わった。
「冷戦時代に比べると、共産主義者の調査力も落ちたものだ。いや、拝金主義に染まっただけか? あなたたちの国は、貧しい者たちから搾取して――「だまれっ!」」
後ろに控えていた男の一人が、いきなり私の顔を殴ってきた。ごきり、と嫌な音がした。
「ミスター・サコタ。部下の失礼をお詫びします。が、あなたも言葉が過ぎる。あなたのことを調べて、あまりにも低い給料だと知ったからこその、提案なのですよ。……もしや、給与以外に何か収入があるのですか? すでに、別口からオファーがあったとか?」
「下衆な考えだな」
ワンはいつから立ち上がると、歩きながらしゃべり始めた。
「すると……あなたは、安い給料でこき使われているのに、金が欲しくない? 正当な評価を受けているとは言えないのに、そんな環境に甘んじている? 不満はないのですか? うぅむ、わからん――どうしたら、私たちのオファーを――」
「ボス!」
男たちのひとりが、ワンに声をかけた。耳に手を当てているところを見ると、何か通信が入ったようだ。
「黙れ! 考えを邪魔するな!」
「ですが、外の連中が――」
男の言葉を遮ったのは、ガラスが砕ける音だった。全員の視線がそちらに向けられる。飛び込んで来た黒い影を、何人が視認できたろう。
私の後ろに控えていた男たちは、優秀だったらしい。すぐに懐から銃を撮りだし周囲を警戒し出した。ワンに声を掛けた男も、やはり銃を持ちながらワンをかばっている。三人とも私を見ていないようだが、下手に動けば撃たれそうだな。
「うがっ!」
「げっ!」
「うわぁっ!」
倉庫のあちこちから、銃声と叫び声が聞こえてくる。やがて、銃声も叫び声も聞こえなくなると、木箱の陰からそれが現れた。人よりも大きな、灰色の狼だ。
ワンの側にいた二人の男は、同じように狼を銃で狙う。ゆっくりと近づいてくる狼の、グルルルルという低い唸り声が聞こえてくる距離になって、男たちは引き金を絞った。まるで時間の流れが変わったかのように、すべてがスローモーションで動く。拳銃の弾が空気を切り裂いて飛ぶ。だが、弾が届く前に狼は斜め前に飛んだ。男たちの重厚は、標的を追って横に動く。が、狼は再び跳躍し、手前にいた男に覆い被さっていく。顔をかばった男の腕を、狼の牙が捉えると、次の瞬間、拳銃を握ったままの腕が宙を舞った。
もう一人の男が、同僚の身体の陰から狼をポイントする。至近距離で、弾が狼の胴体を襲った。二発の弾が、狼の横っ腹に吸い込まれていき、狼は衝撃で飛ばされる。男は、仲間が腕を噛み千切られたにも関わらず、躊躇せず撃った。しかし、彼は気が付いていないのだろうか? あの狼が、ただの獣であるはずがないことに。そして、狼男が驚異的な回復力を持っていることに。
狼は空中で身をよじると、脇腹の傷口から鉛の弾が床に転げ落ちた。
「ヒッ!」
慌てて銃を構え直す男だったが、狼はもうそこにいない。気が付いた時には、男の腕は拳銃を握ったまま、狼の口にくわえられていた。
「があぁぁぁっ!」
男二人が、流れ出る血を止めようと、自分の腕を押さえつけながら叫び声を上げている。その様子を見て、狼が笑う。とどめを刺すつもりなのか、男たちにゆっくりと近づいて行く。
パン、パン。
乾いた銃声が二発、倉庫に響いた。その銃声は、ワンが握りしめた小型の拳銃が発したものだった。狼を狙ったのだろうか? だとしたら、的を大きく外したことになる。
狼が、私の方を振り向いて、目を見開いた。
何をそんなに驚いているんだい、ゲラン?
次第に、右胸と腹が熱くなってきた。まるで、焼けた鉄棒を突っ込まれているような、じわじわと熱が全身に広がっていくような。自分の身体を見下ろすと、シャツの右胸と腹に赤いシミが出来ていた。シミはどんどん広がっていく。思わず手で押さえると、生ぬるい感触が伝わってくる。
「あれ?」
私は、立っていることができず、膝から地面に崩れ落ちた。
「カズ!」
誰かが私の名を叫んでいる。あぁ、ルースランとクリスか。ゲランはどうした?
「すまねぇ! しくった!」
「ばかやろう! 人質の安全を優先させろと言っただろう!」
「カズ、カズ! 大丈夫! あなたは死なない! 死なせない!」
いや、クリス。それは無理だろう。喋ろうとすると、喉の奥から液体がせり上がってきて上手く喋れない。吐き出した液体は、真っ赤な色をしていた。赤い色がコンクリートの床に模様を描いている。まるでバラのようだ。綺麗だな。阿佐見さんにも見せたいな。あぁ、阿佐見さん……異界で待っているんだっけ。ごめん、何もできず終わりそうだ。段々と寒くなってきた。全身から力が抜けていく。呼吸もつらい。あたまもうまくはたらかないしぬのかわたしはこのままここでしぬ……のか……。
「お前を死なせたりはせん。恨まれるかもしれぬが、責めは後で受けよう。許せよ?」
おや? はくしゃく……なぜここに? あれ? ここは異界だったか?
首筋に牙の感触。
私は。迫田和将という人間は、そこで死んだ。
□□□
目覚めたのは、病室だった。遮光カーテンが閉め切られ、部屋の中は真っ暗だったが、漂う薬品の臭いで分かる。ベッドの横に並んだ機械が放つ光で、部屋の隅々までみえる。
「目覚めたか」
気が付けば、ルースランがベッドサイドに立っていた。さすが吸血鬼、気配を感じさせなかった。
「どうなった?」
「第一声がそれか。まったく。ワンと名乗っている男は捕まえたよ、生きてね。今背景を豪保安情報機構とCIAが探っているよ」
「ゲランは?」
「珍しく落ち込んでいるよ。助けに行ったはずなのに、って」
「ゲランに落ち度はないさ。そもそも、拉致された私が悪い。それに……何とか生きているみたいだからな」
暗闇の中で、両手を魔の前に持ってくる。血中酸素量や血圧、脈拍を計測するために、ケーブルやらチューブやらが指や手首にくっついている。うん、よく見える。そんな様子を見て、ルースランが呟く。「ようこそ、吸血鬼の世界へ」と。
ホール1世界の吸血鬼は、地球に伝わる伝承とは異なり血は吸わない。吸血鬼という名前が誤解を与えてしまっているのだが、当人たちはおもしろがっているので始末に負えない。血は吸わないが、相手の精神エネルギー(と彼らが呼ぶもの)を吸い取り、それを糧として生きている。吸い取る相手は家畜でも構わないのだが、知能が高い生命体ほど美味であるらしい。
給血ならぬ吸精? 吸エネルギー行為の究極が、吸血鬼化だ。吸血鬼曰く、相手の魂と精神エネルギーの交換を行うことで、相手も吸血鬼になるのだという。伝承のように、吸血鬼にした相手に従属するといったことはないのだが、精神的に強い繋がりを持つことになる。だから、私にも伯爵がこっちの世界にいないことがすぐにわかった。
「伯爵は、お帰りになったのか……」
「二日前にね。もう、あれから一週間だ。寝坊しすぎだ」
「すまんな。いろいろとあったのだろう?」
ルースは、私が眠っていた間に起きた出来事について、簡単に説明してくれた。
なぜか、DIMOでの講演内容が外部に漏れたこと。
それから、これは恐らく伯爵からの働きかけもあったのだろう、アメリカ政府が日本政府に対し、正式に竜討伐への参加を希望したこと。
「異界で何を使うつもりだって?」
「ドローンで上空から質量兵器を落とすって」
「それはまた……ずいぶん原始的だな」
「何か隠し球があったみたいだけどね」
その後、日本国内の世論が盛り上がり、また、アメリカの介入を快く思わない一部の野党が賛成に回ったことから、自衛隊の竜討伐にゴーサインがでたこと。
「名目は、害獣駆除らしいぞ」
「……まぁ、そうだろうな」
日本では、竜討伐に関わる諸問題を解決するため、異界法の改正案がもうすぐ衆参両院を通過する見通しだということ。駐豪日本大使と外務大臣が怒っていること。
「私の吸血鬼化については?」
「君の現状を知っているのは、私たちとDIMO上層部、日本でも首相を初め首脳部のごく一部だけだ」
寝ている間に、懸念事項の多くは解決したようだ。自分自身の問題を除けば、ほぼ思惑通りに進んでいる。後は、竜に対抗する兵器を調達して、異界に帰るだけだな。
「出発する前に、クレアとゲランには声を掛けて行けよ」
ふむ。同じ吸血鬼になったから、ルースは私の考えが読めるようになったのか?
「バカ。長いつき合いだろ。君の行動なんて読みやすいほうさ」
「そうか、だとすると、もうそろそろ二人がここに飛び込んでくるなぁ」
「「カズッ!」」
ゲランとクレアが、並んで病室に飛び込んで来た。ルースと私は、声を上げて笑った。
迫田さんが吸血鬼になった経緯を書いた外伝はこれでおわりです。
次からは本編に戻ります。




