新世界より(1)
異界調整官の朝は早い。
陽が昇る前から起きて、寝ぼけ眼で身支度をする。いつまで経っても、朝は苦手だ。異界に来ても、朝の低血圧は変わらないわ。
異界にも四季がある。雪深い冬がようやく終わって、今は早春。けれど、外に出ると、息が白い。まだ、払暁。空はうっすらと明るくなりかけたところ。春は曙って言うけど、綿入り半纏を羽織った姿は情緒もあったもんじゃない。でも情緒より、優先すべきは実用である! なんちって。
広場の真ん中にある井戸から手こぎポンプで水を汲み上げ、共有の金盥に水を貯める。顔を洗おうと前に屈んだら、胸元からペンダントがこぼれ落ちた。おっと、いけない。母方の祖父、巌じぃちゃんから贈られた、たったひとつの形見だ。水に濡れる前にキャッチできて良かった。ペンダントを慎重にパジャマの内側にしまって、ボタンをしっかり留めた。びっくりしたけど、お陰で少し目が覚めた。改めて、盥の水で顔を洗い、歯を磨く。昭和初期の暮らしはこんな感じだったのだろうか?あぁ、早く水道設備を導入しないと。せめて、ポンプは電動にしたい。
ここ蓬莱村は、異界における日本の領地。”穴”で繋がっている日本の“飛び地”だ。”穴”が福島県にあるので、便宜上の住所は福島県蓬莱村になる。現在の人口は、私を含めて五十六人しかいない。住民は皆、ここを「村」としか呼ばない。ちなみに、固定資産税や住民税は発生しないし消費税もかからない。あ、これ異界ジョークね。
いったん屋内に戻り、日本から持ち込んだコーヒーを飲む。異界に来てからコーヒーの飲む量が増えた気がする。でも、胃が痛いのは、コーヒーのせいじゃない。たぶん。
朝日が昇りきった頃、コートを着て家を出る。私の住居は震災時にも使われた仮設住宅だが、エアコンも付いているので文句は言えない。「ほっ!」と気合いを入れて、愛用の電動スクーターに乗る。スクーターは官給品なので、大切に使わないとね。
ヘルメットとゴーグルを手に取ると、ヘルメットの内側に張られた管理シールが見える。“文科-異 21の229B”。全部、全角で書かれたところが、ダサい。もう気にしないけど。ヘルメットを被り、ゴーグルを装着する。異界であっても蓬莱村は日本の管轄下だから、日本の法律が適用されるのだ。準備を整え、バッテリーの残量を確認し走り出す。ちゃんと制限速度は守るぞ! 警察官はいないけど。
まず最初に向かったのは、村の南東にある発電施設、メガソーラー施設だ。そこには三十枚ほどの太陽光発電パネルと、巨大な蓄電設備が並んでいる。同僚が埃避けの結界を張ってくれているので、パネルの表面はきれいなものだ。おまけに異界ではなぜか、太陽光パネルの発電効率が高くなるし、バッテリーの効率も良くなるので、今のところ村では電気に困らない。電気には。
設備に問題がないことをざっと確認してから、私は東側にある畑に向かった。村はそんなに広くない。すぐに畑と、畑で働く人たちが見えて来た。
「やぁ、桜ちゃん、おはよう!」
畑にいたのは、御崎先生を初めとする数名。もう作業に入っているようだ。
「先生、お身体の調子はいかがですか?」
尾崎先生は、某農大の教授を務めていた人で、もうご高齢である。比較的若い人でも、異界の環境に慣れずに調子を崩す人がいるので、お年寄りとなれば体調の変化も気になるところだ。
「体調はばっちりだよ、日本にいたときより調子がいいくらいだ」
「それは良かった! 畑の方はどうですか?」
「そろそろ暖かくなってきたから、来週あたり、本格的な土作りに取り掛かるつもりだよ。今年は、日本の野菜が中心になるかな」
「じゃぁ、夏野菜は食べられるようになるかもですね! 期待していますよ~」
異界での農業を開始したのは、私が赴任する前、今から3年前くらいからだ。最初は地元、つまり異界の土を使って、異界の植物を試験的に作付けするところから始めたと聞いている。異界の農法は、近くにあるベルガラム村の人たちに教えを受けたらしいが、基本的に魔法をベースとした農作技術なので、まだ村の設備が不十分だった当初は、日本人だけで作業することは難しかったらしい。なにせ、魔法を使えば畑の開墾も詠唱一発だし、天候もある程度操作できるらしい。高位の魔導士、つまり大規模な魔法が使える真穂使いがいれば、だけど。ベルガラム村では、土魔法による開墾と水魔法による散水、風魔法による温度調節が行われているそうだ。
蓬莱村の農業用用水は、村の外を流れる川から水路を引いて使っている。我々は魔法が使えないので。用水路も土属性の魔法じゃなくて、電動の小型重機を使って作り上げたものだ。
今、畑では異界の野菜を、日本の土や異界の土を組み合わせて、実験しながら育てている。魔法は使っていないが、農機具も揃ってきたし、今のところ順調のようだ。すでに動物実験や遺伝子検査などを経て、異界の農作物で日本人に影響を与えるものはないことが判明している。念のため、収穫した農作物は、定常的に毒性検査を行っている。地球でも、植物が急に内部で毒を作り出す、なんてことは珍しいことじゃないからね。
これぞ地産地消の精神よね、自給自足にはほど遠いとは言え、食料調達面からも異界の作物を育てて消費することが望ましい。望ましいのだけれど、別の視点から見れば、これってある種の人体実験と見えなくもない。モルモットは私たち。異界に来た時点で、皆覚悟はしている……はず。それもあって、この村の平均年齢は高いのだ。警備の自衛隊員を除けば、平均年齢はさらに高くなる。
尾崎先生との挨拶を終え、私は畑を後に北へ向かうことにした。村の北には、酪農用の施設や放牧用の牧草地が広がっている。まだ、雪が残っている場所もあるし、牧草もあまり育っていないので、羊や牛たちは畜舎の中で生活している。ごめんね、もうすぐ広いところに出してあるからね。
広いといっても畜舎と比較しての話で、目の前に鬱蒼とした森が迫っているため、牧草地はそれほど広くはない。対魔物用フェンスが設置されるまでは、放牧していた羊が襲われることもあったらしい。現在は、赤外線センサーと音響センサーなどのセンサー群と魔石による結界があるので安心していられる。魔石とは、魔力を閉じ込めた鉱石……これも不思議なものだ。色やサイズはさまざまで、主に山などから採掘できる。魔石を媒介すれば、私たちのような魔力を使えない人間でも魔法を使うことができるし、魔石に魔力を注ぎ込んで術式を刻み込めば、さまざまな機能を持たせることができる。たとえば、魔石に結界を張るための術式を刻み込めば、悪意ある存在から村を守る結界を作ることができる。
その一方で、魔石は魔物を生むとも言われている。魔物の死骸から魔石が取れることは確かだが、魔石からどのようにして魔物が生まれるのかは判っていない。というか、異界の人間は、そんなことに興味はないらしい。それでも、作物を作る際には、まず土地から魔石を取り除くことから始めるらしい。欠片でも魔石が残っていると、育てた植物が魔物化していまうそうだ。
ここにある魔石の結界は、ヴァレリーズさんに作って貰った。結構大変だったようだけど仕方ない。何しろ、地球人は魔法が使えないのだから――。