幕間 人知れず夜に消える歴史のひと欠片。
視察団が戻ってきた、日本でのお話です
――東京、神楽坂。
繁華街の喧噪を離れた、路地裏にひっそりと門を構えるその料亭は、あまり人に知られていないが一部の政治家に隠れ家的な場所として利用されていた。その店のさらに奥、周囲から隔絶した静寂に支配された場所で、二人の男が差し向かいで料理を楽しんでいた。
「それで、文科省の方は大丈夫だったの?」
「はい」
質問した男は、この国のトップ、現総理大臣を務める古株の政治家。それに答えたのは、先般、外務省から内閣府へと組織変更された異界局の局長、江田茂であった。
野党議員によって編成された視察団が、異界から戻って二週間。政局は、表面上静寂を保っていた。しかし、それはあくまでも目に見える範囲のことであり、国民の目が届かない水面下では揺れに揺れていた。
「異界で騒動が上手く収まったので、こちらもスムーズに進めることができました」
「しかし、馬鹿な職員だねぇ。野党の空約束にまんまと乗っちゃうなんてさ」
そもそもの始まりは、異界からもたらされた数々の品々――魔石や魔鉄鋼だけでなく、装飾品や芸術品、民芸品など――によって、政府の財政が潤い、外交でも有利な立場になったことだ。本来、日本の国益に適っているのだから、喜ばしいことのはずなのだが、政権を狙う野党にとってはうれしくない出来事だった。
当初、野党連合は異界の扱いは慎重にすべきとして、政府の関与を最低限に押さえつけようとしたのだが、魔石の恩恵が明らかになると、野党の中でも意見が割れ、結局は意見がまとまらないまま政府の思惑通りに事態は進んでいた。
そんな状況の中で、野党側が起死回生の一手として持ち出したのが、今回の異界視察であった。視察としているものの、その中身は異界運営の粗を探し、追求しようとした監査と呼ぶべきものだった。
それと同時に、裏で画策していたのが「調整官交代」であった。阿佐見桜を調整官から引きずり下ろし、野党側の息がかかった官僚を異界に送り込む――手はずであった。だが、結果としては、どちらも不発に終わった。いや、野党にとっては大失策、敵を追い詰めるつもりが、逆に追い詰められることになった。今、与党が解散総選挙に打って出れば、野党は大きく議席を減らすだろう。もしかしたら、党としての要件を失い、消滅してしまう党が出てくるかも知れない。江田局長の言葉は、この現状を指してのものだ。そして、首相の言葉は調整官を交代させる陰謀についてのものだ。
首相が“馬鹿な職員”と言った相手は、文科省で課長クラスにいた男だった。彼は、ある党から“阿佐見桜の公開されていない経歴”に関する情報と引き換えに、次期調整官として異界に派遣される約束をしていた。しかし、野党が考えているような隠された記録など、はじめから存在していない。ところが、「あるはず」と確信している人間にとって、「存在しない」ということは「簡単には見つけられない場所に隠されているはず」ということだ。こうした誤謬を認知バイアスという。
認知バイアスによって歪んでしまった考えにより、職員は自分の権限以上の領域にアクセスし情報を得ようとしてしまった。不正アクセスを行ったことで、彼の悪事は露見したが、野党は「そんな依頼はしていない」と職員を切り捨てた。最終的に、不正アクセス行為により懲戒免職、天下りも仕事の斡旋も受けられず、故郷へ帰ることになった。
「そもそも調整官の仕事が、美化されすぎなのが問題です。実体を知れば、代わりたいなどとは思いもしないでしょう」
江田局長は、意外にも桜の仕事を正しく評価していたようだ。
「あぁ、阿佐見の嬢ちゃんには悪いけどな。マ、マ、なんだっけ? ほら、辺境伯とか言う地位くらいのもんだろ、褒美としてはよぅ」
「辺境伯ですね。あれはヴェルセン王国からの贈呈で、日本国政府は関係ありませんよ」
「いやいや、いろいろと支援してるじゃねぇか、政府としてよ」
「見返りも十分ありますから。魔鉄鋼、先月だけで二十トン以上輸入しているでしょう?」
「ははは。まぁ、Win-Winの関係ってこった」
そう、少なくとも異界と日本は上手く行っている、と江田は思った。ホール2を持つアメリカも、生化学の分野で躍進しており、また、貧困層をホール2内の労働力として活用することで、国内の治安も改善している。オーストラリアのホール3は、まだ調査が始まったばかりで、アフリカのホール4は、今だ主権争いが終結しない。
しかし、問題は“穴”を持たない国々との格差が広がっていることではないだろうか? 実際、野党の後ろには日本、アメリカ、オーストラリア以外の国がいるのではないかと取り沙汰されている。そして、阿佐見調整官たちがもたらした、異界の神話。アレに真実が含まれているとすれば、この世界にはまだ見つかっていない“穴”が存在することになる。中国やロシアあたりは、血眼になって探しているという情報があった。
首相がパンパンと手を叩くと、しばらくして追加の料理と酒が運ばれてきた。仲居が部屋を出ると、首相は徳利を掲げて、江田局長に杯を出すよう促した。
「恐れ入ります」
杯に注がれた酒を零さぬよう、江田はゆっくりと口元へと運び一気にあおった。
「では、返杯を、先輩」
「おぅ、すまねぇな」
首相も杯を一気に空にした。二人とも、酒はいける口ではあるが、互いに政治家、官僚となった時から、深酒はしないと決めている。適度に飲む分には百薬の長だとしても、飲みすぎは災いの元でしかない。
「それにしても」と、首相は杯を置きながら、神妙な面持ちで口を開く。
「あの男の、言った通りになっちまってるなぁ」
「そう……ですね。十五年前は、信じては居ませんでしたがね、“S文書”なんてものは」
S文書。十五年前のあの日、あの老人が書き残していった、未来予測と日本が、いや世界が取るべき道筋を示した覚え書き。
「阿佐見の嬢ちゃんがルートって名付けたアレなぁ。やっぱりホール3の住人なんだろ?」
「えぇ」
「だとしたらよぅ、世界がこう、ぐちゃっとひとつになる可能性だってあるわけだろう?」
「我々が、我々と阿佐見調整官が何もしなければ、そうなる可能性はありますね。S文書を信じるならば」
「もし、そうなったらよぅ、日本は生き残っていけると思うかい?」
江田局長がにやりと笑い、手酌で注いだ酒に口を付ける。
「万が一、そうなったとしても日本が、日本人が生き延びていけるよう、我々は最大限努力しているじゃありませんか」
「そうだな。うん、その通りだ」
その日のふたりは、少々、飲みすぎてしまったようだった。




