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「第一章〜4」

「で、皇太子にいつ奈良麻呂を紹介したら良いだろうな」

 橘諸兄が真備に訊いた。


 皇太子は、聖武天皇と光明子皇后との娘、二十二歳の阿倍内親王である。

 貴族たちは皆、阿倍内親王が即位したときのために、自分の息子らを内親王に近づけ、例えば女帝に気に入られて権力を握った藤原不比等のように、内親王の側近にしたいと思っていた。


「皇太子のご様子はどうですか」

 真備は玄昉に向き直って言った。

 玄昉は、二十歳のとき学問僧として真備とともに遣唐使に選ばれ唐に渡り、帰国後は、持ち帰った貴重な経文などの成果を認められ高い地位を得た僧である。

 玄昉は僧にしておくにはもっていないほどの美貌と巧みな話術で皇后に取り入り、今では宮中内道場の僧正となり、一般の男性が立ち入れない皇后宮にも入れる立場となっていたのである。

「いやあ、なかなか。常に女官たちが見張っていて私のような愚僧は言葉を交わすどころか、近くにも寄れませんよ」

「ほお、そなたでも近づけぬのか」

 諸兄が軽い皮肉をこめて言った。

 玄昉が大后、さらに皇后の寵愛を受けていることは、女官たちの間では公然の秘密である。もちろん諸兄にも他の貴族たちの耳にも入らないわけが無い。藤原広継はそのことを許せず、帝に上奏して逆に帝と皇后の怒りを買ったわけである。

 玄昉は、素知らぬ顔で言った。

「何しろ妙齢の娘のこと、皇族や他の者たちの手前、誤解を招かぬよう慎重にせねばならぬ、とおっしゃって」

「他の者たちなど」

 横で聞いていた真備がふっと笑った。

「大方、藤原の息子のことを考えているのでしょう。皇后は、藤原広継がお気に入りですから、広継が都へ戻ってくるまで待っておられるのかもしれませぬ」

「ちっ。また広継か。どいつもこいつも広継と。あんな青二才」

「太宰府に飛ばしておいて正解でした。都から遠く離れた所からでは、何もできませぬ」

「しかし、いつまでも太宰府に置いておくわけにはいかんだろう」

「構わないでしょう。藤原北家も南家も反対はしないでしょう。むしろ、自分たちの出世の機会が増えることを歓迎している」

 二人の会話を聞きながら、玄昉は、口を閉ざしていた。この二人には隠していることがあるのだ。


 玄昉は、諸兄の息子を皇太子に引き合わせるよう皇后に願うとともに、ひと言、自分のことも付け加えておいたのだ。

「早い時期に、是非私めもお引き合わせくださいませ」

 皇后は玄昉の魂胆を見抜いていた。自分や大后宮子を籠絡したように、皇太子にも取り入って自分の出世に使おうという魂胆だ。

「さあ、帝に願い出てみたらどうかしら」

 皇后はしらっとした顔で言った。

「私より皇后から言っていただいたほうが」

「さあねえ、それは私の関することではないわ」

 皇后は、玄昉を寵愛していたけれど、それ以前に皇后である自分の地位を大事にしていた。

 聖武天皇が退位した後、自分が皇太后として権力を保持していくためには、娘には自分側の人物、自分と利害が一致する藤原家の子弟をつけておくことが好ましい。娘がおかしな入れ知恵をされて、母をないがしろにするようなことがあってはならないのだ。

 だいたい玄昉は身の程知らずである。今でも充分すぎるほど厚遇されているのに、愛人は愛人の立場をわきまえていればいいものを、それ以上のことを望むのは身の破滅につながるということをわかっていない。


 真備の推測通り、皇后は、同じ甥でありながらも、諸兄の息子の奈良麻呂より藤原家の広継を、娘に引き合わせたかった。


 諸兄が皇后の父違いの兄であるのに関わらず、皇后からあまりよく思われていないのは、藤原家の教育によるものだろう。

 藤原家で生まれ育った皇后は、異父兄とは言っても諸兄とほとんど会ったことがなく、兄として意識したことはなかった。

 物心ついた頃から偉大な父を見て育ち、藤原氏こそが帝を一番近くで支えるのにふさわしい存在なのだという教育を受けてきた。

 その優秀な父や兄たちが、諸兄をよく思っていないことは何となく感じていたし、兄たちの言葉の端々に諸兄の凡庸さに対する軽侮を感じていた。それらが皇后の中にも潜在的に刷り込まれたのである。


 実際に右大臣となった諸兄とこうして話してみても、諸兄は偉大だった自分の父とは比べ物にならないくらい凡人だった。

 それに比べ、藤原家の、中でも仲麻呂と広継は才気あふれていた。

 広継の、他の藤原家の男子たちと比べても秀でた才気、正義感が強く皆から慕われるその性格、そして何よりも、見目麗しい容姿が気に入っていた。やはり自分の周囲に置くには美形でなければ、と皇后は密かに思っていた。


 ところが、広継は、皇后が玄昉に籠絡されていると、天皇に進言したではないか。今まで目をかけてやっていた恩を忘れ、そのようなことをするなどもってのほか。可愛さ余って憎さ百倍といったところか。このまま広継を都においていてはならない、と天皇に言って太宰府に左遷させたのだ。

 ただ、いずれ広継が心を入れ替えれば都に戻し、娘とも会わせようと思っていた。


 皇后が広継を見限るのを知ると、橘諸兄は好機と見た。

 広継は自分の息子と同世代、藤原家の男子の中でもひと際目立っており、やがては藤原家を代表する政治家となると推測されていた。自分や息子、橘家が政権を取り続けるには、広継がじゃまだとかねてより思っていた。

 諸兄は、自分の娘が嫁いだ藤原北家だけが残ればいい、他の藤原家は滅んでも構わないと思っていた。


 広継が太宰府に左遷させられると、広継の叔父、石上乙麻呂を陥れ、流罪とした。古くからの名門石上家の乙麻呂は広継の母の弟であり、広継の父が死んだ後は、乙麻呂が式家の後見人のようなものだったのだ。


 都の貴族は皆、それが陰謀である事、藤原氏を排除するには一つ一つ、まず式家から潰していこうという諸兄の考えを見抜いていた。

 しかし、藤原氏が政権を担っていた時代と同様、権力を表立って批判する者はいなかった。


「よいですか、皇太子に近付くのは諸刃の剣です。過去の女帝の時代、確かに藤原不比等殿や蘇我入鹿のように女帝の寵愛を受け世を思うままに動かせるようになった人物はいます。しかし、恨みを買い悪い結果となることもあります。くれぐれも、ほどよい距離を取ってくださいませ」

 真備は慎重だった。

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