「第三章〜3」
然う斯うしているうちに秋も深まり、飛鳥の山中で隠居生活をしていた田麻呂が、久しぶりに宿奈麻呂を訪ねてきた。
便りは時折あったが、田麻呂が隠居生活をはじめてから一度も二人は会っていなかった。
田麻呂が僧衣姿で現れるかと宿奈麻呂は気をもんでいたが、剃髪もせず深緑の貴族風の上着を着ていたので内心ほっとした。
「頭を剃っているかと思ったが」
「私はまだ僧侶ではありません。寺で修行僧と共に学ばせてもらっているだけの未熟者ですから」
穏やかに微笑む田麻呂は、どこか逞しくなったように見えた。
「寂れた平城の京を見るのが辛くて帰って来られませんでしたが、元の通りになったと聞いて」
宿奈麻呂も同じ気持ちだった。閑散とした平城で式家の邸跡を見る度、陰鬱な気分になった。あの時期に恭仁京に遷都したのは逆によかったのかもしれないと、今では思うのだった。
田麻呂が京を出てから、式家の状況も少しずつ変わっていった。
まず、宿奈麻呂が官職につくことができ、将来の不安が薄らいだ。
それから、妹たちの嫁ぎ先が決まった。南家の豊成が妹たちの結婚を世話してくれたのだ。
上の妹は既に南家の巨勢麻呂の妻となっている。中の妹は橘奈良麻呂、一番下の妹は北家に嫁ぐことが決まった。奈良麻呂は橘諸兄の嫡男である。
「皇后が取りはからってくださったのだ」と豊成は言った。
宿奈麻呂は諸兄に恨みもないし、異存はなかった。たとえ嫌いな相手でも、娘を嫁がせ、表面上は親しくする、一族の繁栄のためにできるだけ多くの有力貴族と姻戚関係になる時代である。左大臣の嫡男の妻に妹を、と言われて断る人間はいない。
下の妹二人はまだ結婚できる年齢になっていなかったので、適齢になったら、と言うことだったが、それだけでも宿奈麻呂はありがたかった。
弟たちも成長した。京家で養育されている緒田麻呂は、来年元服を迎える。それを機に、緒田麻呂が父から相続した土地に邸宅を建ててやり独立させようと考えている。一番下の弟、蔵下麻呂もあと三年もすれば元服する。
式家の邸跡は、平城に京が戻ったのを機に更地となり、今は昔の面影もない。いずれは土地が分割され、誰かの邸が建つことになるだろう。
宿奈麻呂は少し寂しい気もしたが、荒廃したままの邸より、このほうが良いのだ、と思うようにした。
少しずつ、未来に向かって時は動いているのだ。
二人が酒を飲みながら近況の話などしているところ、庭から大伴家持の声がした。
宿奈麻呂が障子を開けると、家持は田麻呂を見て言った。
「お客人か、ならば出直そう」
「いや、構わぬよ。これは弟の田麻呂だから。こちらは大伴家持殿」
「おお、田麻呂殿か。ご立派になられて」
家持はそのまま部屋に上がってきた。
「実は玄昉のことで新しい話を耳に入れたのだが」
家持は火鉢に手をかざしながら、ちらと田麻呂を見た。
「席をはずしましょうか」
田麻呂が腰を浮かすと、家持がそれを制した。
「いや、隠すほどの話ではない」
「どうせ田麻呂は隠居の身だ」
「実はな、先ほど宮中で聞いたのだが、玄昉が内道場の職を解かれ筑紫に左遷されたのだそうだ」
「なんと。何かあったのか」
「大后との密通がいよいよ帝に知られることとなって、帝は、それはもう大層お怒りになって」
「当然だろう。だからあの時、除いておけばよかったのだ」
「その玄昉僧正ですが、私が通っている飛鳥の岡寺所縁だったようで……」
田麻呂が口を挟んだ。
「そなた、詳しいのか」
「我らの氏寺、興福寺にも一時いたことがあるそうですよ。兄上」
田麻呂の話のよると、玄昉は、以前聖武天皇に仕えていた高僧、義淵僧正の弟子だったという。飛鳥には、田麻呂が通っている岡寺をはじめ、義淵僧正が建立した五龍寺がある。当時の弟子の中でも玄昉は特に勉強熱心で、その故に遣唐使に選ばれたのだという。
「今の玄昉僧正の悪い噂は、まるで別人の話のようだ、と寺の皆は言っております」
「そんなに評判が良かったのか」
田麻呂の話に、家持は意外な顔をした。
宿奈麻呂が冷めた顔で言った。
「人は変わるものだ。況して権力を手に入れれば尚更」
「人は変わる……確かにそうだな」
その時、田麻呂がふと宿奈麻呂の机の上の拝み観音像を認めた。
「おや、あの観音像は。まことに人は変わるものですね。兄上も信心深くなるとは」
思わず家持が笑い出した。
宿奈麻呂はふてくされたように言った。
「知り合いの仏師から貰ったのだ」
「上宮様の供養堂に納める仏像を造ったすごい仏師なのだ」
「上宮様の供養堂というと、斑鳩宮の跡地に建てられたという、おお、それはすばらしい」
「ひょんなことで知り合ってな、俺が流刑になった時に心配して彫ってくれたのだ。よかったら、そなた持っていくがよい」
「供養堂の話は飛鳥にも届きました。あの地では今でも上宮様を慕う人々が多うございます。村の長老たちは幼い頃から祖父母から上宮様の話を聞いて育ち、また子孫らに伝えています。村人たちも斑鳩宮跡に供養堂が建つのはよいことだと言っています。でも」
「でも」
「中にはよく思わない人もいるようです。なぜ、上宮様に何の所縁のない行信僧都が供養堂を建てるのか、と」
「ほお。田麻呂殿は行信僧都をご存知か」
「いえ、お名前だけしか」
「俺たちも、なぜ行信が供養堂を建てたか、不思議に思っていたのだ」
「ええ。私の所によく野菜を持ってきてくれる村人も、供養堂はこれから先誰のものになるのか心配していました。行信僧都のものになるのか、それとも上宮様の兄弟王の子孫か」
「ちょっと待て、兄弟王の子孫がいるのか」
「俺も、てっきり上宮様の一族は皆滅ぼされたと思っておった」
「私も詳しくないので、どなたかは……。何せ古い時代のこと、今は皇籍を離脱しているかと思われますが」
「ならばなぜ、その方たちが供養堂を建てなかったのだ」
宿奈麻呂の疑問には、家持が答えた。
「正直な話、先立つものがない、といったところではないか。我らが今まで知らないほどだ。それほど高い地位ではないかもしれない」
「まあ、そうかもしれぬな。それで行信がというのも得心が行かぬが」
宿奈麻呂はあご髭に手をやった。
田麻呂は翌日、宿奈麻呂が宮城に出仕している間に帰った。長居をして京の知り合いに会うのを嫌ったようだ。
「もし斑鳩へ行く時があれば私も誘ってください」
家人にそう言付けをして田麻呂は飛鳥に帰っていった。




