「第二章〜7」
恭仁京に遷都しても、紫香楽宮にいても、天皇の気分は晴れなかった。どこへ行っても穏やかな気分は長く続かない。常に悪い予感が背後にあった。風の音に怯え、突然の雨に驚いた。その度に天皇は経を読んで心を落ち着かせようとした。
天皇は紫香楽宮に引きこもることが多くなった。見たくない物は見ず、聞きたくない事は聞かず、会いたくない者には会わず、そうして暮らすうちに、天皇の心は次第に落ち着いてきた。
そんなある日、紫香楽宮に報告に来た橘諸兄に天皇は言った。
「我は良いことを考えたのじゃ。我の考えを聞いてくれ」
天皇はいつになく機嫌が良かった。
「我は以前、智識寺で盧遮那仏を拝した。その時、我の心を洗い流すような圧倒的な光が降り注ぎ、心にあった不安が消えていったのだ。この光の下では、人は何も悪事ができぬ、苦悩から解き放たれ、生まれ変わることができる、そう感じたのだ。我は全ての人民に仏の加護を与えたい。それが帝としての使命なのだと悟ったのだ」
天皇は、目を輝かせて言った。
「教典を一般の民が理解するのは困難である。だが、仏像なら、見るだけで誰もが仏を感じることができる。我はこの地に、未だかつて誰も見たことのない大きな盧遮那仏を作ろうと思う。それによって人民は救われ、我は仏に生まれ変われるのだ」
諸兄は唖然とした。
恭仁京に加え、紫香楽宮造営だけでも財政を圧迫しているのに、大仏を造る資金などない。
「帝のお考え、崇高でたいへん素晴らしいことだと存じます。しかし」
「今、そのような大きな仏像や寺を造る資金はありません。恭仁京の宮城もまだ完成しておらず、紫香楽宮造営だけでギリギリです。工人も不足しており、これ以上は無理かと思われます」
「行基僧正はできると言っておった」
諸兄の眉がぴくりと動いた。
「行基僧正にお会いになったのですか」
「うむ。僧正は我に協力を惜しまないと。彼らを使うが良い」
「しかし、資金が」
「ならば、恭仁京の宮城は中止にしてもよい。その資金を仏像造営に回すのだ。どうせ我は紫香楽宮にいるのだし、かまわないだろう」
諸兄は言葉を失った。
宮城が完成していないから公式行事にも官庁の仕事にも差し障りがある状況なのに、それよりも仏像造営のほうが大事だと言う。
諸兄は感情を押し殺し、低い声で言った。
「……今この時期に仏像を造ることが必要なのでしょうか。もう少し世が落ち着いてからでもよろしいのではないのでしょうか」
「今だからやるのじゃ。その昔、上宮太子は民を救うために仏教を広めた。我も同じじゃ。今、民は困窮している。民を救うために、盧遮那仏を造るのだ」
諸兄は、言葉を返さなかった。
人は、不幸な出来事が続くと、宗教に救いを求めたり神秘的なものに心引かれることがある。
聖武天皇の場合も正にそれであった。
天皇が仏教の教えを学び、自分の哲学に生かすことは良いことである。ただ、仏教に傾倒するあまり、他のことが見えなくなるのであれば、果たしてそれが一国の王として良いことなのか、疑問であった。




