「第二章〜3」
翌日、長旅の疲れを感じていた宿奈麻呂だったが、やらねばならないことがたくさんあった。
まず叔父の石上乙麻呂、従兄の豊成、妻の実家に帰京の報告の遣いを出した。それぞれ後日挨拶に行く予定ではあるのだが、取り急ぎ知らせた。
それから、弟たちのいる家に文を書き、宿奈麻呂の生活が落ち着くまでしばらくこのままの状態でいるよう頼んだ。
そうして、留守にしていた間の家のことなどを、家人頭から聞いていると、遣いが戻った。
豊成は今、恭仁京の邸に住んでいて留守なので、留守居の家令に言付けたそうだ。留守の間の式家の財産管理をその家令にやってもらっているので、落ち着いたら引き継ぎをしたいという話だった。
豊成には一番世話になったのだから、年内には恭仁京の邸へも挨拶に行かねばなるまい。
叔父の乙麻呂も、大赦でつい最近平城の邸に戻ってきたばかりだという。年末には職に復帰し、恭仁京へ移り住むそうだ。明日の昼、乙麻呂邸を訪ねる約束をした。
妻の実家では、やはり妻の父親も恭仁京の邸に住んで留守だったが、宿奈麻呂の妻子はそのまま平城京の邸に住んでいた。恭仁京は土地が狭く急ごしらえで造ったので、満足な邸が建設できず、多くの官人が単身か夫婦のみで移住の状態が多いようだ。
妻子と一緒に暮らしたいのはやまやまだが、叶えられそうもなかった。狭い邸に、宿奈麻呂と数人の家人たち、妹たちとその下女やらが暮らし、それだけでも窮屈だったのだ。
その旨を伝えると、奥ゆかしい妻のこと、快く承知してくれたそうだ。
宿奈麻呂は、無性に娘の顔を見たくなった。
・ ・ ・ ・ ・
翌日の昼頃、母方の叔父、石上乙麻呂を訪ねた。
向かう途中の平城の街は以前のような活気はなく、大路が更に広く感じられた。宿奈麻呂は、寒々しい旧都の中で、荒廃した式家の邸跡を見た。
子供の頃、この邸ができた時、なんと広く立派な邸だ、このような邸に住めるのだ、と嬉しく思った。通りに構える大きな門をくぐる度、父を、式家の一員である自分を誇りに思った。
それが、土地も邸も国に接収された今、門は閉ざされ、庭は枯れ草に覆われた荒れ放題の廃墟と化した。
宿奈麻呂は、涙が込み上げる前に立ち去った。
久しぶりに会う乙麻呂は変わらなかった。
「おお、宿奈麻呂殿、よくぞ京に戻られた。ご無事で何よりだ」
「叔父上もお変わりなさそうで」
宿奈麻呂の無事を喜んだ言葉の後、乙麻呂は目を落とした。
「……広継殿は、残念だった」
それだけ言うと、目を潤ませ宿奈麻呂の肩をぎゅうと握った。
広継が生まれた時にはまだ結婚していなかった乙麻呂。広継は彼にとって初めての甥っ子だったのだ。可愛くないわけが無い。
宿奈麻呂は、初めて広継の死を悲しんでくれる人間を見て、それまで張りつめていた心が緩んだ気がした。
宿奈麻呂の袖に、ぽとりと涙が落ちた。
・ ・ ・ ・ ・
「流刑地の食事は粗末であったろう」
宿奈麻呂の前に、干し肉や焼魚、野菜の煮物など、祝い膳のようにたくさんの皿が並んだ。
「私もあまり詳しくないのだが」
乙麻呂は、帰って来てからあれこれ情報を集めたらしかった。
「何しろ急な遷都だったらしく、家を建てる木材や工人が足らず、宮城もまだ完成していないらしい。皆に与えられた土地も、平城とは比べ物にならないほど狭い。あれでは家族や家人を全員連れて移住は到底できないな。私も、とりあえずの家は造ったが、徐々に部屋を建て増していくしかあるまい」
「この平城京はどうなってしまうのでしょうか」
「わからぬ。ただ、寺は新京に移るつもりはないらしい。土地がないというのもあるけれど、まだこちらに大学や幾つかの官庁も残っているし、帝が平城を全くの廃都にするつもりはないと考えているようだ」
「寺はまだこちらに、ですか。帝は仏教に熱心なのでは」
「うむ、それはあいかわらずのご様子だ。全国に国分寺を造ることを詔したくらいだからな。石上としては、古来からの神も丁寧に祀っていただきたいものだが」
「それにしても、どうして急に遷都など」
「橘殿の勧めでもあったらしい。このところの天災で帝の御心が弱っていたところにつけ込んだのだ。橘殿は政権を自分の味方で固め、京を自分の領土付近にし、藤原氏から橘氏への政権交代をしたいのだ。そのために広継殿も……」
「叔父上のことも、謀略だと皆言っていました」
「うむ、わかっていた。他にも藤原氏寄りの人物は要職からはずされたようだからな。あからさまなことをする」
「あの……」
宿奈麻呂は、一瞬ためらいを見せてからから訊いた。
「下道殿と玄昉殿はまだいるのでしょうか」
「玄昉殿は知らぬが、下道殿は橘殿の下を離れ、今は皇太子の教育に専念されているらしい」
乙麻呂は宿奈麻呂の気持ちを察して言った。
「彼らのことは気にかけるな。そなたまでおかしなことに巻き込まれたら亡きご両親が悲しむぞ。そなたは自分の仕事にだけ集中しろ」
乙麻呂の言葉の通りだと、宿奈麻呂は頷いた。
別れ際に乙麻呂はしんみりと言った。
「俺も……俺が京にいれば、広継殿もこのようなことにならなかったかもしれないと、口惜しくて眠れない夜があるよ」
乙麻呂は、宿奈麻呂の肩を叩いた。
「そなたは兄の分まで生きるのだ。それが何よりの供養だ」
・ ・ ・ ・ ・
その夜、宿奈麻呂は久しぶりに妻の家へ泊まった。
昨年京を出立した時にはよちよち歩きだった娘が、今は片言ながら言葉も話す。
「父上にご挨拶をなさい」と妻が促すと
「ちーちーうえー。おかえりなしゃいましぇ」と宿奈麻呂に小さな両手を差し出す。
「おお、なんと愛らしいことか」
娘を抱き上げ頬ずりする宿奈麻呂を見る妻の目にもまた、涙が浮かんでいた。




