「第一章〜25」
その後の宿奈麻呂は感傷に浸っている暇はなかった。
広継が、最も重罪の一つ「謀反」の罪で斬首刑となったのだから、その弟である宿奈麻呂は「縁坐」の罰を受ける。
「縁坐」とは、重罪人の親族も罰を受ける法律だ。広継の子、綱手の子、また幼い弟たちは、まだ成人していないため縁坐を免れるかもしれない。しかし宿奈麻呂と田麻呂はおそらく流罪となろう。
また、宿奈麻呂は、式家の長としてこれからの式家のことを考えねばならぬ。
広継がいなくなった今、式家の長は宿奈麻呂である。自分と自分の妻子の生活だけを考えているわけにはいかない。自分のことだけでも精一杯なのに、その上、弟妹や兄弟の妻子の生活まで面倒を見なければならないのだ。
宿奈麻呂は何をどうしていいかわからなかった。
第一報を聞いた時は、何かの間違いだと思っていたし、それほど重大なことと思っていなかった。広継が死ぬなど考えていなかった。そのうち全てうまく収まると甘く考えていた。
今、最悪の事態を受け入れることが困難だった。
誰かに相談したい。
だが、相談できる相手はいなかった。田麻呂はあのような状態だし、頼りになる叔父は京にいない。家持ら友人たちは帝の行幸の供をして留守だ。たとえ都にいたとしても彼らに相談できる話ではない。
従兄弟たちを頼ることはできない。仲麻呂に言わせれば「広継は一族の面汚し」だし、これ以上迷惑はかけるなと暗に言われている。
しかし結局、宿奈麻呂は従兄弟の豊成を頼った。
案の定、豊成は言った。
「これからは式家のことはそなたが責任を持ってやらねばならぬ」
そうは言っても、そこは一族の最年長者、いろいろ面倒を見てくれた。
「帝に謀反という大逆をしでかしたのだ。律法によると、広継の財産は全て没収される。叔父上から相続した分も全てだ」
その現実は厳しかった。
嫡男である広継は、式家の財産の半分以上を相続していた。式家の本宅だった邸はもちろん、大きな収入源だった田畑も、使用人も奴婢も、式家全体の財産の多くがなくなるということである。今まで広継がその財産で養っていた弟妹の生活も考えねばならぬ。
「少しは俺たちのことも考えてくれればよかったのに……」
宿奈麻呂は心の中でぼやいた。
「そなたと田麻呂はおそらく流刑となるだろう。どのくらいの期間になるかわからぬが、留守の間のこと、ぬかりのないよう手配しておくのだぞ」
豊成に言われるまでもなかった。
成人していない弟たちだが、雄田麻呂については、京家で預かり養育してくれることとなった。蔵下麻呂は今、母親の元で暮らしているからそのままで問題ない。広継と綱手の子供たちは、彼らの妻の家に引き取られる。没収される式家の本宅に住んでいる妹たちに関しては、一番上の妹は宮仕えでほとんど家に帰って来ないから考えなくてもいいが、下の幼い妹二人は宿奈麻呂の狭い邸に住まわせるしかあるまい。
あとは、それらの家に定期的に生活費、物資を届けなければならないし、藤原家の男子としての教育も必要となるのだが、今までそういったことも含め弟妹の世話は全て広継がやってきた。これからは宿奈麻呂がやらなければならない。
宿奈麻呂は突然背負わされた重荷に押しつぶされそうだった。
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一方で広継と綱手の妻も大変だった。
広継も綱手も財産を没収されたから、彼らの妻妾は身一つで放り出された形となる。彼女らは、突然夫を亡くし、重罪人の妻という身になったのだ。藤原家から生活支援が受けられなくなった今、幼い子供を抱え、実家に戻るほかなかった。実家の父母も、将来有望な藤原家の息子に娘を嫁がせた目論見が、全く破れてしまった。
しかし宿奈麻呂は自分のことで精一杯、そんな彼女らの気持ちをを考える余裕などなかった。
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その後、宿奈麻呂はいつ流刑になっても対応できる状態で待機していたのだが、一向に処分が決まらなかった。
というのも、帝が行幸から帰京しなかったからである。
広継の事件が治まっていない時期に平城京を出発した天皇は、伊勢神宮に参拝すると、そのままぐるりと関東を回り、ふた月近くかけて、瓶原宮に到着した。そして天皇は、結局平城京に戻ることなく、その地に京を造ると決めた。
新しい京の造営のため、広継の事後処理が遅くなり、宿奈麻呂や田麻呂の処分が言い渡されたのは、年が明けてからのことだった。
予想通り、二人とも縁坐により流罪を言い渡された。他の弟妹は未成年なので咎めはなかった。宿奈麻呂は伊豆へ、田麻呂は隠岐への流刑が決まった。
宿奈麻呂が留守の間、式家の財産のこと、幼い弟や甥姪の家へ物資を送る手配などは、豊成の指示で南家の家令が管理してくれることになった。親切心からではない。式家の、藤原家の財産が他人に不当に奪われないようにするためだった。
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そうして宿奈麻呂は、天平十三年(西暦七百四十一年)一月、寒風の中、妻と幼い娘と妹たち、家人らに見送られ、流刑地の伊豆へ旅立った。(第一部・終)




