プロローグ〜1
「また人が死んだあ」
「ひぃぃ〜、もうこの世はおしまいだ〜」
天平九年(西暦七百三十七年)八月、奈良の都は混乱していた。
春から雨が全くと言っていいほど降らず、干ばつで苦しむ人々を疫病が襲った。
時の帝、聖武天皇は、蔓延する疫病のために朝参を取りやめるなどしたが、病と干ばつを止める手だての無いまま、ただ、怯えて暮らしていた。
疫病は国中をなめ回すように、人々を次々と餌食にしていった。政府高官も例外ではない。
当時、政治の中枢にいたのは、右大臣である藤原武智麻呂を筆頭に、民部卿の藤原房前、式部卿の藤原宇合、兵部卿の藤原麻呂ら、亡き藤原不比等の息子たち、藤原四兄弟であった。
藤原不比等は、娘を文武天皇に、その息子である聖武天皇にはもう一人の娘を嫁がせ天皇との外戚関係を築き、また、聖武天皇の乳母であり皇室に影響力を持つ橘三千代を後妻に迎えるなどして権力の座につき、死んだ後には太政大臣の位を追贈されるなど、人臣としての最高位に昇りつめ、藤原一族の礎石を築いた人物である。
不比等が死んだ後も、息子たち四人全員が参議(現代の内閣のようなもの)になり、一族は前代未聞の出世を遂げた。それまでは、参議になれるのは一族につき一人という暗黙の掟があったのだから、藤原家の力がどのようなものかわかるだろう。
世では、不比等の息子たちのことを、長男の武智麻呂一家をその邸が宮殿の南にあったことから「藤原南家」、次男の房前の家はそのすぐ北にあったから「藤原北家」、三男宇合は式部卿だったから「藤原式家」、四男の麻呂は京職大夫だったことから「藤原京家」と呼んでいた。
藤原四家の兄弟は反対勢力を排除していき、揃って政権の重要な地位に就き、聖武天皇の妃となった妹の安宿媛を支えていた。皇族でない安宿媛が皇后となれたのも、兄たちの画策のおかげである。
聖武天皇の妃となった安宿媛はやがて男子を産んだ。やがてその子が天皇となれば藤原一族の地位は安泰であるはずだった。
しかし、安宿媛の生んだ男子はわずか二歳で早逝してしまった。気落ちする間もなく、もう一人の妃、県犬養広刀自が男子を産んだ。
この先、安宿媛が男子を産んでも、年齢の順で、皇太子にすることができない。もし県犬養広刀自の子が皇太子となり天皇となれば、県犬養氏が今の藤原氏に替わることになるのだ。
そうした危機感を持った兄たちが、安宿媛を皇后として立てるよう天皇に働きかけた。他の妃との間に男子がいようとも、皇后が産んだ子が優先されるからである。
その時、反対したのが、皇族の最有力者、長屋王だった。
長屋王の父は、天武天皇の長男にして太政大臣だった高市皇子であり、天皇に次いで、皇族の頂点に近い地位にいた。
天武天皇のめざした皇親政治を理想とする長屋王は、天皇の外戚となって権力をつけ独裁政治を行おうとしている藤原氏に対し、日頃から反発していた。長屋王は、皇族だけでなく、反藤原氏の貴族たちにも影響を及ぼしていたことから、藤原氏にとって目の上のたんこぶだった。
安宿媛の立皇后の件でも、皇族でない妃を皇后としたことは過去において一度も無いし、この先もそうであるべきだと反対した。
そしてとうとう八年前の七百二十九年、藤原四兄弟は、その長屋王を無実の罪に陥れ、自害に追いやった。
その事件は、貴族だけでなく皇族にも衝撃を与えた。
もはや皇族さえも藤原氏に逆らえない、逆らえば長屋王と同じ轍を踏むことになる、そういった空気になったのだ。
藤原四兄弟は、他の皇族たちが表立って反対しなくなったことをいいことに、安宿媛を皇后としたのである。
藤原氏の世は揺るぎない、永久に続くと思われていた。
しかし、長屋王事件から八年たった今、藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四人が、相次いで病に倒れたのである。
藤原氏だけでない。長屋王の件に関わった重臣が大勢死んでいったのだ。
そのことは、都の人々に長屋王のことを思い起こさせた。皆、口々に「長屋親王の祟りだ」と言い始めた。
「次は自分の番かもしれない」
相次ぐ政府高官の死に、帝は怯えていた。
長屋王の件に、帝も無関係ではない。
天皇の後継問題が起こる度に名前が挙がってきた長屋王は、常に自分の地位を脅かす存在だったのだ。長屋王を排斥する事に、なんの異論があろう。むしろ積極的に命令を下したのである。
帝は、藤原四兄弟の最後の一人、宇合の訃報を受けると、自室のこもって出てこなくなってしまった。
帝は、自室で神棚に向かい、延々と祈りを捧げていたのである。釆女が食事を運んでいくと、ようやく顔をわずかに上げて、うつろな目で釆女を見るのであった。
「もう、我が世は終わりじゃ」
帝は怯えていた。
聖武天皇は早くに父を亡くし、母とは生まれてすぐに引き離され会ったことがなく、祖母や伯母らに大切に育てられたせいか、どこか精神的に不安定な部分があった。
皇位についてからというもの、度重なる天災や飢饉に悩まされ、心の平安を感じたことは無かった。自分は天皇になるべき人間ではなかったのかもしれないと思うこともあった。
そんな聖武天皇にとって、心の支えとなったのが安宿媛であり、藤原氏であった。
両親の、藤原不比等と橘三千代の才気を受け継いだ安宿媛は、その機智とお嬢様ゆえの大胆な性質で聖武天皇の支えとなり、導きとなった。
聖武天皇は、政に関して常に安宿媛の助言を求めた。長年庇護してくれていた祖母が死んでからはなおさらである。安宿媛と、藤原氏が自分を守ってくれるのだと、聖武天皇は信じていた。
それが今また、飢饉につぎ流行病で人々が大勢死に、後援者である藤原四兄弟が一気に死んだことは、聖武天皇を絶望のどん底に突き落としたのである。
いっそ、退位して、他の者に皇位を譲ろうか。このままなら、民衆の不満が高まり謀反が起こるかもしれないし、退位を求める輩が現れないとも限らない。いや、その前に自分の命とて、明日はどうなるかわからない。
帝がそう考えていると、部屋の外から声がした。
「帝、そこにおられるのですか、話がございます。お出になられませ」
安宿媛皇后の声であった。
いや、本物の皇后かどうかわからぬ。物の怪が自分を引きずり出そうとしているのかもしれぬ。
「いやじゃ」
妄想に取り付かれた天皇は、再び経を唱え始めた。
すると、背後で戸が勢いよく開かれた。
「このような部屋で祈っていても、何ら事態は変わりませぬ。貴方は帝なのですよ。ここを出て、人民のため、国のために、やらねばならないことがあるはずです」
皇后が半ば叫ぶように言いながら、部屋へ入ってきた。
「だから祈っておる」
「違います。よろしいですか、このところの続く天災や流行病は、言わずと知れた怨霊による祟りによるもの。ならば、帝一人祈っても、力が及びませぬ。ここは全国の名僧を大勢集め、皆に祈らせましょう。さすれば怨霊とて退散しましょう」
そう断言する皇后の、力強く張りのある声を聞いているうちに、天皇の心にも元気が出てきた。
「そうか、大勢の僧に祈らせればいいのか」
「さよう。百人、それで足りなければ二百人、三百人、たくさんの仏の力を持ってすれば、何も恐ろしいものなどありませぬ」
「そう、そうだな。よしすぐ遣いを出せ」
帝は立ち上がった。
そうして、八月、帝は、宮中に僧七百人を招き、経を上げさせたのだった。その効果なのか、秋の訪れとともに、疫病はゆるゆると静まっていった。