10 脱出を試みるも
通路側の窓を封鎖していた本棚を静かに移動させる。
すると、一瞬にして夜が明けたのかと思うほどに、部屋の中が一気に明るくなった。
「今、何時なの?」
外の明るさを知った氷華が小声で尋ねてくる。
それに答えることなく、腕の時計をそのまま彼女に見せる。
その行動は別に怒っている訳ではなく、なるべく音を立てないように気を使っているのだ。
もちろん、彼女もそれを理解しているので、不満を露わにすることもない。
ただ、時間を確認した彼女は嘆息する。
「もう七時なんだ……」
力無くポツリと零す彼女に頷き、こっそりと窓を開ける。
通路側の窓ガラスは、外部から中を覗かれないようにすりガラスになっている。
オマケに防犯用にアルミの格子が備え付けられている。
まあ、これは一般的なマンションの仕様だと思うのだけど、いまや魔物の侵入を防ぐという新たな役目を与えられている。
実際、このアルミの格子で飛竜の攻撃を防げるかと尋ねようものなら、販売会社が想定外だと憤慨することだろう。
だって、これまでの日本において、耐竜性なんて項目は存在しないからだ。
「ん~、こっちに尻尾を向けてるから分からないけど、どうやら寝てるみたいだね」
尻尾を除いても体長が四メートルくらいありそうな竜が、狭い渡り廊下に所狭しと横たわり、呼吸の所為なのか、身体を微妙に伸縮させていた。
「どうやら、氷華の言った通りみたいだ」
彼女と和解したあと、色々と聞かせてもらったのだけど、竜は食溜めができるようで、食事の時はガッツリと貪り食い、寝始めると簡単に起きないみたいなのだ。
まあ、玄関の扉をぶつけられても起きなかったのだ。彼女の情報に間違いはないだろう。
「じゃ、予定通りに進めようか」
「そうね」
窓をこっそりと締めて頷き合うと、そそくさとその場を後にしてリビングへと戻る。
そして、静かに窓を封鎖している家具の排除を始めた。
粛々とリビングの片づけを始めた僕等だけど、それが何のためかというと、誰でも分かるほどに簡単な答えだ。
そう、玄関側から外に出ることを諦め、ベランダ側から逃げることにしたのだ。
もちろん、ベランダと言っても、飛び降りるつもりもなければ、飛竜と戦う気もない。避難用梯子を使って下の階に降り、そこから逃げるつもりなのだ。
実際、隣の部屋からでも良かったのだけど、飛竜と同じ階では狙われる危険性があると考え、色々と悩んだ末に下階から逃げることにした。
きっと、この状況になれば、誰でも同じ結論に至ると思う。そう、逃げるが勝ちという結論に行き着くはずだ。
というのも、氷華の話では何をやっても通用しなかったらしい。だから、彼女は大量の水で飛竜の眼をくらまし、ベソを掻きながら一目散に逃げ出したとのことだった。
まあ、事実は武勇伝と全く反対の結果だったという訳だ。
そんな訳で、不戦勝! 不戦勝! と呟きながら、腰を屈めたまま静かにベランダに出ると、そこからこっそり外を確認する。
だって、確かに玄関先に飛竜がいる訳だけど、飛竜がその一匹とは限らないのだ。
「他に飛竜は居ないよね?」
「そうね。取り敢えず飛んでいる飛竜は居なさそうね」
首をベランダからひょっこりと出して周囲に視線を巡らせ、自信なさげに隣にいる氷華へと声を掛ける。
すると、彼女も同じように周囲を見渡していたのだけど、コクりと頷きながら同意してきた。
「じゃ、梯子を出すよ」
「ちょ、ちょっとまって」
周囲の安全を確認したところで、ベランダに設置された避難用梯子の蓋を開けると、彼女は透かさず制止してきた。
「えっ!? どうしたの?」
「確か、これって点検するのを見たことあるけど、凄い音が出るのよ。ガリガリって」
「えっ!? そうなの?」
彼女はすかさず梯子の仕様を教えてくれた。
知らなかった……このまま梯子を出してたら拙いことになってたかもね……ただ、そうなると、どうやって降りるのかな?
目の前にある畳まれた梯子を眺めつつ、どうしたものかと悩んでしまう。
すると、彼女が自分の考えを口にした。
「私に任せて」
彼女はそう言って前に出ると、梯子の操作を始める。
「これが、ここで……よし、これでいいわ」
ブツブツと呟きながら彼女が操作すると、畳まれていた梯子がガタンと下向きに倒れた。
それによって、人が一人通れる程度の空間ができあがる。
「この先を続けると、梯子が下に降りていくんだけど、その時の音が結構大きいのよ。だから、ここから飛び降りるわよ」
「なるほどね。じゃ、先に僕が降りようか……」
彼女の説明を聞いて納得したところで、先に降りて問題ないことを確かめようとしたのだけど、その途端に彼女は渋い顔をした。いや、ハッキリと冷たい眼差しで貫いてきた。
「えっ!? えっ!? えっ!? ど、どうしたの? 急に怖い顔して……」
何がなんやら解らなくて、焦ってその理由を尋ねるのだけど、彼女はゆっくりと視線を下におろした。
それに釣られるように視線を降ろす。
ああ、スカートだからか……てか、なんで……
彼女の恰好が短めのスカートであることに気付き、直ぐに蔑むような冷たい視線の理由を察した。
「べ、別に覗くつもりで言った訳じゃ……というか、なんでスカートなの? 戦闘もあるのに危ないじゃないか」
弁解しつつも、抑々が間違っていると告げたのだけど、彼女は少し顔を赤らめると首を横に振った。
「ズボンはトイレが面倒なのよ。用を足している時に直ぐに動けないでしょ?」
確かにそうだけど……きっと、これまでにそんな経験をしたんだね……
「そうかもしれないけど、せめてスパッツくらいは穿いたら?」
「そ、そうだけど……」
「だって、これからも戦闘がある度にスカートを気にしてたら命取りになるよ? 僕なんて完全防備なんだけどね……」
「分かったわ……穿いてくる。というかさ、黒鵜君、その恰好って似合ってないわよ……」
ガーーーーーン!
自分でも似合ってるとは思っていなかったけど、面と向かって女の子に指摘されると、さすがにショックを隠せない。
彼女の心無い一言で、真っ白な灰となるのだけど、それを横目に見ていた彼女は笑みを零しながら部屋の中へと消えていく。
恐らくは、スパッツを探しに行ったのだろう。
結局、いつまでも生きる屍となってたのだけど、彼女が戻ってくる頃には、これは自分を守るために必要な装備なんだと己に言い聞かせることで、なんとか現実に復帰することができた。
そんなすったもんだがあったのだけど、無事に下階へと飛び降りる。
「大丈夫?」
「う、うん。なんとか……」
大した高さではないのだけど、ついつい彼女を心配してしまう。
というのも、勝手な感想なのだけど、彼女はあまり運動神経が良さそうに見えなかったからだ。
まあ、あまり他人のことは言えないのだけど、ここは男として当然の気遣いだろう。
だけど、彼女はそれをあまり気にしていなかった。というか、別のことに意識が向いているようだ。不思議そうな顔で己が疑問を口にした。
「ね、ねえ、なんで、窓が開いてるの?」
その言葉で初めてその事実に気付き、開け放たれた窓でカーテンがヒラヒラとはためいていることに首を傾げる。
「なんでだろうね?」
疑問を感じつつも、その理由を深く考えることなく呑気に足を進め、徐にカーテンを開いた。
「ひっ!」
その途端、直ぐ後ろについてきた氷華が、ひきつけを起こしたような声を発したかと思うと、その場に尻餅を突いてしまった。
とても残念なことに、今度はスパッツを穿いている所為で、パンツ様を拝むことができなかった。
ただ、今回に限っては、彼女がスパッツを穿いていなくても、もしくはパンツすら穿いていなくても、ガン見することはなかっただろう。
なぜなら、カーテンを開け放った部屋の中では、見るからに硬そうな鱗を持った飛竜が猫のように丸くなり、気持ちよさそうに寝息を立てていたからだ。
そう、僕等が脱出経路にチョイスした下階は、既に飛竜の巣と化していたのだった。
見るからに硬そうな鱗を持ち、刺々しいイメージを抱かせる飛竜が背中の羽を畳んで猫のように丸くなっている。
周囲には人と思しき骨が無数に転がり、恰も人間の捕食者としての存在を象徴するかのようだ。
ぐうすかと寝息を立てる飛竜を目の当たりにして、息が止まるほどに完全に凍り付く。
そう、築地で並べられるクロマグロの如く完全に固まっているのだ。
だけど、そんなタイミングで服をツンツンと引っ張られる。
もちろん、服を抓んでいるのは、腰を抜かしていた氷華だ。
どうやら、彼女の方が先に現実へ立ち戻ったみたいだ。
あ、ああ……そうだね……逃げなきゃ……
無言で逃亡をアピールする彼女の顔も、他人に見せられないくらいに思いっきり引き攣っている
というか、まるで青い果実の如く血の気が失せた顔色をしている。
そんな彼女の様子を唖然としたまま見やるのだけど、直ぐに危機感が湧き起こってきた。
彼女に頷きで返すと、飛竜を起こさないようにゆっくりと右手に握ったカーテンを閉める。
さて、どうやって逃げる?
臭い物に蓋をするかのようにカーテンを閉め、一歩後退って逃走経路について考える。
逃走というと、まるで自分が犯罪者のような気がしてくるのだけど、現状をイメージするとそれがぴったりに思えた。
逃走経路に頭を捻っていると、再び氷華が服をツンツンと引っ張る。
その行動に視線だけを向けると、彼女は無言のまま指を斜め下に向けた。
ああ、そうか……降りればいいのか……
彼女の指が示す方向に、下階へ降りる避難用梯子のハッチがあるのを見て、直ぐに彼女の言いたいことを理解する。
そう、彼女は下の階へ逃げようと言っているのだ。
それが名案だと感じて直ぐに頷くと、覚束ない足取りで行動に移る。
恥ずかしながら、未だに飛竜を目の前にしたことで、底知れぬ恐怖に侵されたままなのだ。
それでも、震える両手でハッチを開けると、前に出てきた氷華も完全にビビっているのだろう、震える手で梯子の操作を始めた。
そして、先程と同様に飛び降りられる状態となると、音を立てないように細心の注意を払いながら下階に降りた。
しかし、そこで再び凍り付くことになる。
「ま、窓ガラスが……」
背後から、氷華の擦れた声が聞こえてきた。
彼女が恐怖するのも仕方ない。
今度は、上の階と違ってきっちりと窓が閉まっていたのだけど、その窓のガラスの殆どは物の見事に砕け、その破片がベランダに散らばっていた。
おまけに、あちこちに黒いシミが付着し、これでもかと言わんばかりに顔を顰めたくなるほどの悪臭を放っている。
あれって……きっと、血痕なんだよね……
そう考えただけで、その部屋のカーテンを開ける気にはなれなかった。
まあ、そのカーテンもズタズタであることから察するに、中を見ずとも、どういう状況か解ろうというものだ。
間違いなく部屋の中に飛竜が居ると感じて、無言で指だけを避難用梯子のハッチに向ける。
氷華も同じ結論に至ったのか、直ぐにカクカクと頷く。
そして、そそくさと降りる準備を済ませると、有無も言わさず飛び降りた。
降りた先は至って普通のベランダだったのだけど、二度あることは三度あると考え、僕等はお互いに合図を送ることなく梯子のハッチに向かう。
これまでのことを踏まえ、物言わずして脱出ルートを避難用梯子のみだと定めたのだ。
こうして僕等は無事にマンションから脱出した。なんてオチになればいいのだけど、さすがはマーフィーさん、そう簡単には問屋が卸してくれなかった。
「うひゃ……どうするの?」
ハッチをそっと閉めながら、氷華が今にも泣きそうな声を漏らしている。
何だかんだありつつも、避難用梯子の邂逅口を使ってマンションの四階まで降りてきた。
そこまではすこぶる順調で、神や仏の存在を信じてしまったほどだった。
ところが、四階の避難用梯子のハッチを開けたところで、またまた見事に凍り付いた。
というのも、ハッチを開けて下を覗き込むと、そこには立派な飛竜が日向ぼっこをしていたからだ。
「どうしようか……取り敢えず、隣にいってみようか」
「そうね。それしかなさそうね」
ガラスが砕かれ、カーテンがヒラヒラしている窓を見やりながら、即座に隣のベランダとの境界になっている仕切り板を破ることを決断する。
「割れないよ?」
予想とは違って直ぐに割れない仕切り板に、氷華が顔を顰めている。
なるべく音を立てないようにと、蹴りつけるのではなく、脚で踏みつけている所為で上手く割れなのだろう。
「じゃ、僕がやってみるよ」
割れないという彼女の発言もあり、思いっきり踏みつけてしまう。
おらーーー! ファイナルメガトンキーーーク!
なとど、心中で叫びながら渾身の力を注いだ。すると、その途端にけたたましい破砕音が響き渡った。
あまりの音に思わず首を窄め、まさに壊れたロボットの如くゆっくりと後ろを振り返った。
しかし、運が良かったのか、はたまた、飛竜が二ブちんなのか、視線の先にある割れた窓からは、何も出てくることはなかった。
「ふぅ~~~~」
「はぁ~~~~」
安堵の息を漏らすと、引き攣った顔の氷華もそれに続く。
そして、お互いの顔を見合わせると、思わず吹き出してしまう。
「ププッ! 黒鵜君、ビビり過ぎよ」
「クククッ。氷華も人のこと言えないと思うけど?」
二人で相手の様子を見て笑い合う。絶体絶命の状況だけに笑いのピントがズレているのかもしれない。
それでも、お互いが相手のビビっている姿を見て笑わずにはいられなかった。
僕等は現在の状況を忘れて、いつまでクスクスと笑い合っているのだけど、次の瞬間、爆発音かと思うような破砕音が響き渡ると、反対側の仕切り板が砕け、そこから飛竜の顔が飛び出してきた。
「グギャーーーーーーーーーーォ!」
「うわっ!」
「ひうっ!」
突如として隣のベランダから顔を突き出してきた飛竜は、猫のような縦長の瞳孔でギロリとこちらに視線を向けてくる。
そして、僕等を見つけるや否や、その大きな顎を開いて咆哮を上げた。
よくファンタジー小説なんかでは、竜の咆哮は相手の精神を蝕み、委縮させる力があるなんて仕様になっているのだけど、まさにその通りだと感じてしまう。
僕等はひきつけを起こしたかのように硬直し、思わず立ち竦んでしまった。
そんな二人を他所に、その咆哮が呼び水となったのか、他からも竜の鳴声が轟く。
ただ、皮肉にも周囲から放たれる竜の咆哮で、恐慌の世界から現実に引き戻された。
ヤバイよ……このままじゃ、奴等の餌だよね……とにかく逃げなきゃ。
左側で固まったままの氷華の腕を掴んで引き寄せると、隣のベランダから今まさに襲い掛かってきそうな竜に右手を向け、渾身の魔法をぶち込む。
「爆裂!」
その途端、自分でも予想すらしていなかった尋常ならぬ爆発が起こる。
「うはっ! けほっ、けほっ!」
背に隠した氷華が巻き起こる粉塵の所為で咳込んでいるのだけど、今の攻撃くらいで竜を倒せると思えず、構うことなくもう一発喰らわす。
「爆裂!」
「ひうっ!」
あまりの爆発音に氷華は両手で耳を塞ぐ。
もちろん、僕はヘルメットを装着しているから何ともないのだけど、そこで彼女のことが心配になる。
こりゃ、氷華の耳が壊れるかも……
拙いと考えて即座に顎紐を解くと、すぐさま脱いだヘルメットを氷華に被せる。
彼女は驚いたみたいだったけど、その行動の意図を理解したのか、素直にヘルメットを装着した。
その様子からすると、彼女自身も、竜からではなく、魔法による危険性を感じていたようだ。
そうこうしている内に粉塵が収まるのだけど、そこで驚愕に目を見開く。
えっ!? 今ので死んだの?
そう、そこには仕切り板を支える鉄枠で、首の骨が折れたらしい飛竜の姿があったのだ。
まあ、実際のところ、骨が折れた所為なのかは定かではないのだけど、死んでいることは確実だった。
なぜなら、竜の前に野球のボール大の魔黒石が落ちていたからだ。
どうやら、硬いと言っても鉄の方が強度的には上みたいだ……いや、それよりも……少しでもパワーアップしなきゃ。
飛竜の死因について考えていたのだけど、急いで魔黒石を拾い上げる。
すると、いつものように力が漲ってくる。ただ、その度合いがキツ過ぎて立ち眩みが起きる。
くはーーーーーー! きくーーーーーーーーっ!
血管が破裂するかのように脈打ち、身体が燃え上がるかのように熱くなり、頭は割れそうなほどに痛む。
あまりの苦痛に耐えられずに、思わず膝を突いてしまう。
その時だった。それを心配して近付こうとした氷華が声を上げた。
「黒鵜君! 危ない! 氷撃!」
「ハギャーーー!」
「ギャゥーーー!」
痛む頭を右手で押さえたまま、視線をベランダの外側に向けると、こちらに向かってくる二匹の飛竜に氷の矢が降り注いでいた。
その攻撃は物の見事に飛竜を捉えるのだけど、奴等を退かせることはできても、倒すことはできなかったようだ。
しかし、彼女が作ってくれた時間を無駄にすることなく、右手で痛む頭を抑えながら彼女のところに戻ろうとする。
「グギャーーー!」
そう、油断だった。愚かだったのだ。
目の前にある部屋には、既にガラスが無かったことを知っていた筈なのに、その部屋に飛竜が居るであろうことを理解していた筈なのに、全身の痛みで意識が朦朧としていて、愚かにも無防備にその前を通ってしまったのだ。
次の瞬間、油断は戒めだと言わんばかりに、窓から突き出された飛竜の短い前足は、僕の身体を軽々とベランダの壁に叩きつけたのだった。