星を汲む井戸
その沙漠には、星を汲む井戸がありました。
深いふかいその井戸は、白いしろい沙漠のなかにありました。
深いふかい星の井戸は、遠いとおい沙漠のなかにありました。
青いあおい空の下。白いしろい砂の上。
幾つもいくつも丘を越え、幾つもいくつもオアシスを巡り、燃える熱砂のその彼方。
誰もしらないその場所に、深いふかい井戸があるのです。
深いふかいその井戸が、どれだけ深いのか誰も知りません。
落とした小石が底に着いた音を、誰も聞いたことがありません。下ろした桶が水に触れたこともありません。
広いひろい沙漠のなか、深いふかいその井戸を訪ねるものはありません。時折、道に迷ったベドウィン(遊牧民)や、群れをはぐれたラクダの親子が、井戸を覗き込んでは、乾いたため息を吹き込むばかりです。
深いふかい夜の底。白いしろい砂の上。
幾つもいくつも昼を越え、幾つもいくつも夜を渡り、凍える星夜のその奥に。
誰も訪ねぬその場所に、深いふかい井戸があるのです。
深いふかいその井戸が、どれだけ深いのか誰も知りません。
とてもとても深いので、昼は黄金の太陽が、夜は白銀の月が、どんなに眩しく照らしても、輝かしい光はちっとも井戸の奥底まで届くことはないのでした。
ただ、綺羅の星から降りしきる雲母のような光の粒だけが、白砂のようにさらさらと、井戸の底まで流れ込むことができるのです。
そして。
静かにしずかに沙漠が眠りについた夜。
幾夜も幾夜も星の光を注ぎ込んだ深いふかい井戸は、とうとう星で満たされて、ついにはその輝きが沙漠の夜に溢れるのです。
井戸から流れる清水のように、零れた光が沙漠を潤し、一面の砂は星と輝くのです。
雨季が来たかのように砂漠は瑞々しい光に浸されて、色とりどりに煌く星砂は、まるで一面花畑のようでありました。その輝きは、汲めども尽きぬ水のよう、枯れることを忘れた花のようでありました。
両手に汲んだ光は、澄んだ泉のように天の綺羅を映し、地の雲母を映します。
綺羅の輝きは一晩中砂漠を照らし、やがて吹き始める朝風に解け、真白に輝く熱砂に掻き消されてしまいます。
その有様はまるで、一夜の夢のようでした。
一握の砂のようでした。
そうして、井戸はまた永い眠りにつくのです。
長い永い時間をかけて、星の光を汲むのです。
昔、昔。わたしがまだほんの子供の時分。
わたしは本当に見たのですよ。
幕屋の中で、老人は繰り返しました。
沙漠に溢れる星の光は、この身をこの目を太陽のように焼くこともなく、月のように凍えさせることもなく、やさしさに満ちておりました。愛しさに溢れておりました。
それはまだ、ベドウィンたちがラクダを駆り、羊を追って、恵み豊かなオアシスを渡っていたころの話です。街が今よりも小さく、沙漠が今よりも白く、風砂が今よりも優しいころの話です。
もう一度。
この目が見えるうちに、あの井戸を訪れたいと思っているのです。
星の光を湛えたあの夜を、もう一度過ごしたいと願うのです。
けれど我らの神は、人間の目からその井戸を隠してしまわれた。人間の手の届かぬようにしてしまわれた。
ため息をついた老人は、薄蒼い眸を幕屋の外に向けました。
そこには真昼の太陽が、苛烈なまでに白くしろく輝いているだけでした。黒い砂塵が舞っているだけでした。砂色の小さな幕屋が、乾ききった大地に延々と広がり、囁くような祈りの言葉が、呻くような願いの吐息が、途切れ途切れに聞こえるだけでした
ベドウィンの老人は、灰色の髭の奥で、寂しそうに呟きました。
全ては我らの愚かさ故に。
そして、もう一杯熱いお茶を勧めてくれました。
その井戸は、沙漠に降る星を汲みながら、今でも沙漠に眠っているのでしょう。
深いふかいその井戸は、白いしろい沙漠のなかにあるのです。
深いふかい星の井戸は、遠いとおい沙漠のなかにあるのです。
どこまでも広がる、真っ黒に焦げた地雷原のはるか彼方に。
<Fin.>
遠い沙漠から届いたメッセージ。
愚かだったのは、かの地の者だけではないのです。
ここにいる私たちも、きっと。




