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2016年/短編まとめ

水のお城

作者: 文崎 美生

ひんやりとした風が体を舐めていく。

薄暗い部屋で一人、目を開けて、ゆっくりと鉛のように重くなった体を起こす。

寒い、二の腕に触れ、自分自身の体を抱え込んだ。


此処は、何処だ。


ゆらり、ゆらり、視線をさ迷わせる。

見覚えのない和室のようで、私以外の人の気配を感じない。

更には、和室と呼ぶにも襖で四方を囲まれ、畳があるだけの部屋なので、酷く殺風景だ。


しっかりと閉められた襖だと言うのに、何故こんなに肌寒いのだろうか。

吐く息すらも白くなりそうだ。

二の腕を擦りながら、起こした体を引きずるようにして動かす。

記憶が酷く曖昧で、何故こんな見覚えのない場所にいるのか、何故眠っていたのか、分からない。

それに、眠る前の記憶もない。


体を起こした先、自分から見て前にある襖に手を掛け、息を吐いた。

何となく、心を落ち着かせなくてはと思う。

吐いた息をピタリと止め、勢い良く左右に押しやった襖は四隅に辺り、パァンッ、と破裂音にも似た音を響かせる。


それから、静寂。

自分の息を吸い込む音以外、特別大きな音は聞こえない。

人の気配も感じられない。

視線を上げ、真っ直ぐに前を見やれば、同じような四方を襖で囲まれた部屋。

床は真新しい畳だ。


薄暗い部屋には明かりが灯っておらず、天井を見上げた所で、蛍光灯らしき存在は見当たらない。

新築にも似たような匂いのする部屋だと言うのに、こんなにも寂しさを感じるのは何故だろうか。

疑問は絶えず浮き上がり、根付くよりも先に弾けて消えてしまう。


どうするべきかは分からないが、とにかく人を探し、いないならばいないで、出口を探そう。

よし、と一つ頷きながら、また襖に手を掛けた。




***




どれくらい襖を開けて進んだだろうか。

永遠に同じ景色を見なくてはいけないのか、そんな絶望感すら浮かび上がった時、開けた襖の先に一つの違和感を見付ける。

まるで迷路みたいだ、そんな感想しか抱かなかった、まるで何も変わらない景色だったのに、一つ、たった一つだが、明らかに違うもの。


「……水?」


そう、水、多分、きっと、恐らく、水、だろう。

眉を潜めて、襖に手を掛けた状態で一歩引く。

畳に四方の襖は同じだが、その部屋に薄らと、しかし確かに水の膜が張ってある。

足首にも満たないそれは、真新しい畳を薄く多い、ゆらりゆらり、揺れていた。


しかし、どういうことだろうか。

部屋に水が溢れていることも、だが、襖を開けたというのに、その水は一歩下がった部屋まで流れて来ないのだ。

まるで見えない力でも働いているように。


揺れる水面を見ながら、どうするべきか、緩やかにしか働かない頭で考えた。

どの部屋も四方を襖で囲まれているが、目覚めた時に向いていた方向を一直線に進んで来たのだ。

ここで進路を変えるべきか、はたまた、諦めずに一直線に進み続けるのか。


数秒、指先に力を込めて襖を握り締めた後、ゆっくりと水へと足を滑らせる。

冷たい、ひんやりとしたそれに、足元から鳥肌が立っていく。

靴下が濡れて不快感に包まれるが、仕方なく目の前の襖に手を掛け、開いた。

またしても、水が張っている。


ほんの少し水嵩が増しているような気がして、そっと息を吐き出す。

これは、駄目だ。

開いたままの襖に片手を添え、逆側の足を上げて、びしょ濡れになった靴下を抜き取る。

妙に肌に張り付く布の感触が気持ち悪い。


両足の靴下を抜き取り、その場で絞り上げる。

雑巾を絞るのと同じ要領で、ぎゅうぅっ、と力を込めて捻り上げ、パンッと乾いた音を立てて皺を伸ばす。

一通り水気を落とした所で、綺麗に揃えて、二つ折りにした靴下を、少し迷ってから上着のポケットに押し込んだ。


そうして素足で水を蹴るようにして歩き出す。

繰り返し、繰り返し、襖を開けて進んで行く。

誰にも合わず、同じ景色ばかり見る。

足元の水は、進めば進むほどに増えている気がしたが、それは気のせいではないらしい。

それから十を超える襖を開けたが、足裏を包み込み足の甲に軽く被るほどだった水は、既に足首ほどまで増えている。


水が増えれば増えるほど歩きにくくなり、深い溜息が漏れた。

次、次、開く襖の先の想像なんて容易い。

ただ水嵩が増しているだけなのだ。

出口はあるのか、そもそも此処は何処なのか、何故私はこんな所にいるのか。

じわりじわりと胸の奥で生まれていく不安は、静かに胸の内に沈んで影を生む。


泣き叫びたい衝動を、必死に押し殺し、飲み込み、胃の奥底に収めて、襖を開き続ける。

そうして開いた襖の先に進み、また、襖を開く。

奥歯を噛み締め、八つ当たり気味に開いた襖の奥には、水が増えただけの部屋がなくなっていた。

キョトン、襖を開いた状態で、目を瞬く。


足元は相変わらず水だが、床そのものは畳ではなく、木製の床だ。

左右に伸びた木製の床は、和造りの家の廊下そのもので、真っ直ぐに視線を投げれば、立派、だったのであろう庭がある。

それは残念ながら、水に飲まれているが。


庭に植えられた木は、どれだけ水に浸かっていようとも、青々とした葉をしている。

庭の水がゴポゴポ音を立て、時折水泡を立てた。

地下から水でも溢れているのだろうか。

良く良く目を凝らして見るが、石に囲まれた小さな池から水が溢れているようにも見える。


これは異常事態だ。

いや、そもそも目を覚ました時点で異常事態だったのだが。

唇を真横に引き結んで、ゆっくりと視線をズラそうとしたところで、ドン、背中を突き飛ばされる音と確かな感触で、襖をに掛けていた手が滑る。

押された上半身が、前のめりに倒れ、釣られるようにして足が前へ出た。


一度崩したバランスは持ち直すことなく、重い水に足を取られ、バシャンッ、と音を立て、水の中、木製の床の上に倒れ込む。

いくら水の抵抗があると言っても、床は木製で硬い。

強かに打ち付けた膝は、その奥の骨にジィィンとした鈍い痛みを伝え、外側も内部もズキズキ痛む。


「……そんな所で、立ち止まるからですわ」


溜息混じりに投げられた言葉は、私が生まれ育った場所とは違うイントネーションだった。

訛り、と言うべきか、何処のものかは分からないが、京都や大阪と言った、もっと大雑把に言うなら関西、だろうか、そういう分かり易い訛り。


膝を付いたまま、声の主の方へ顔を向ける。

廊下――庭に面した廊下なので縁側と呼ぶべきか――そこに、腰を下ろした男がいた。

気怠げな様子で、水浸しの縁側で胡座をかき、ノンフレーム眼鏡の奥で庭を眺めている。


「随分と時間が掛かったみたいで、待ち草臥れましたわ」


あふ、と小さな欠伸が男から漏れる。

足も腰辺りも濡れているのに、そんなことは全くどうでも良いと言いたげに、私を見た。

時間が、掛かった、言葉を咀嚼するように繰り返し、水面と男の顔を見比べる。

その言い方は、まるで、私が此処に来るのを待っていたかのようで。


冷たい水の上を、ぼんやりとした光が滑るように飛んでいく。

視界の端でゆるりと動き回る光を尻目に、男は「こっちに来たらどうです」と手招きをした。

膝も腕も濡れてしまった私は、自分が開けて来た襖を見上げる。


一体誰が、私の背を押したのだろうか。

閉め切られた襖に手を掛けたが、動く気配がない。

一部屋に溜まった水が、隣室に流れ込むことがないような、見えない力が働いているようだ。

空間に固定されてしまったかのように、びくともしない。


「あの、これは、何ですか」


目が覚めてから、どれくらい時間が経ったのか――体感では三十分以上は経っているが――久々に自分以外の人間を見て、話すのだ、妙に喉が貼り付いて上手く言葉が落ちて来ない。

途切れ途切れに落とされた言葉に、男は私の顔を見て片眉を上げる。


これ、という言葉の意味が理解出来なかったのか、ゆるりと首を傾げた男。

もう一度、これ、と言いながら水面を手の平で叩く。

パシャパシャ、控えめな音が響いた。


「……塩気があるだけの水ですわ」


よっこいしょ、なんて間抜けな声と共に、重たげに腰を上げた男は、水を掻き分けて私の前までやって来る。

そうして、未だ膝を付いたままの私の唇に、水の付いた指先を押し付けて来た。


上唇と下唇を同じ加減で、ふにふにと押す。

眉を寄せながら顔を引けば、思いの外アッサリと引き下がった男は、そのまま私の目の前に座り込んだ。

舌を覗かせて、触れられた唇を舐める。

あぁ、確かに、海水よりも薄い塩気を感じた。


「……何で、部屋の中まで水に浸かっているんですか」


体勢を変えようと上半身を起こす。

袖の濡れた上着を見下ろし、指先を左右に振って水気を弾き飛ばした。

その水気の消えていく先を眺めた男は「……そうすべきですから、でっしゃろ」と、まるで独り言のように呟いて頷く。


足元もずぶ濡れで、どうするべきか数秒、迷った後に男の隣に座り込む。

冷たい、水が染み込んで来て、下着まで濡らそうとする不快感に眉を潜めた。

それでも、男は相変わらずこちらの顔を見詰める。


「寒くないんですか」


水が冷たいせいか、空気も冷えている気がする。

目が覚めた時、寒いと感じた理由は、こういうことだったのだと頷けるが、そんな水に浸かりながら殆ど動かない男は寒くないのか。

横目で見た顔は、やけに整っている。

端正な顔立ち、と言うべきなのだろうか。

ノンフレーム眼鏡の奥の瞳が、やんわりと細められ、三日月の形に変わる。


「寒いんですか?」と質問で返され、私は肩を竦める。

寒いに決まっているだろう、なんて言わずに、上着を手繰り寄せた。

水が増えているせいか、ますます体温が奪われる。

二の腕を擦り「沈むんですか?」また、質問。


視線は男ではなく、ゴポゴポ水が溢れ出る池を見る。

白い水泡が浮かび上がり、弾けて消えた。

私が視線を逸らしたとしても、男の方は私から視線を逸らす気は無いのか、チクチクと視線が突き刺さって痒いし痛い。


「沈みますわな」


「……沈むんですか」


恐怖らしい恐怖は感じなかった。

先程、同じ部屋が続き、同じ襖が続き、ただひたすらに手探りで先へ進むしかなかった時の方が、余程恐怖を感じただろう。

薄い塩気混じりの水は、ボコッと音を立てて水泡を増やしながら、その嵩も増やしていく。


この調子で、この場所が沈むというなら、どれくらいの時間が掛かるのか。

男は、何故か私の肩を引き寄せ、自身の胸に私の頭を押し付ける。

小さな硬いボタンの感触が後頭部にぶつかった。


「……何ですか」


問い掛けに返ってくる言葉はない。

肩を抱く手に力が込められ、肩の骨が僅かな悲鳴を上げている。

男は首を傾けるようにし、私の顔を覗き込み、朝焼けと夕闇の混ざったような瞳を細めた。

ノンフレーム眼鏡越しだからなのか、その瞳に浮かぶ感情らしいものが見当たらない。


「貴女はずぅっと、私と一緒に居てくれるでしょう」


疑問符は確かに付いていた、と思いたい。

緩やかに細められた瞳は、綺麗な三日月の形になり、不思議な色の瞳を覆い隠す。

体を離そうとした瞬間に、つい、と正しく後ろ髪を引かれる。

ボタンに絡まったらしい私の髪を見て、男の手は肩から頭を移り、私の頭を抱え込む。


ゴポゴポ、水が増え続ける。

体温を奪われ、奥歯同士がぶつかり合い、カチカチと音を立てるから、自然に隣の熱を奪おうとした。

ゴポゴポ、どれくらい時間が経ったのか。

冷水のような薄い塩味の水は、座り込む私達の腰元までになっている。

ゴポゴポ、水はいつになったら、私達を飲み込むのだろうか。


ゴポゴポ、ゴポゴポ、ゴポゴポ――ゴポッ。

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