水のお城
ひんやりとした風が体を舐めていく。
薄暗い部屋で一人、目を開けて、ゆっくりと鉛のように重くなった体を起こす。
寒い、二の腕に触れ、自分自身の体を抱え込んだ。
此処は、何処だ。
ゆらり、ゆらり、視線をさ迷わせる。
見覚えのない和室のようで、私以外の人の気配を感じない。
更には、和室と呼ぶにも襖で四方を囲まれ、畳があるだけの部屋なので、酷く殺風景だ。
しっかりと閉められた襖だと言うのに、何故こんなに肌寒いのだろうか。
吐く息すらも白くなりそうだ。
二の腕を擦りながら、起こした体を引きずるようにして動かす。
記憶が酷く曖昧で、何故こんな見覚えのない場所にいるのか、何故眠っていたのか、分からない。
それに、眠る前の記憶もない。
体を起こした先、自分から見て前にある襖に手を掛け、息を吐いた。
何となく、心を落ち着かせなくてはと思う。
吐いた息をピタリと止め、勢い良く左右に押しやった襖は四隅に辺り、パァンッ、と破裂音にも似た音を響かせる。
それから、静寂。
自分の息を吸い込む音以外、特別大きな音は聞こえない。
人の気配も感じられない。
視線を上げ、真っ直ぐに前を見やれば、同じような四方を襖で囲まれた部屋。
床は真新しい畳だ。
薄暗い部屋には明かりが灯っておらず、天井を見上げた所で、蛍光灯らしき存在は見当たらない。
新築にも似たような匂いのする部屋だと言うのに、こんなにも寂しさを感じるのは何故だろうか。
疑問は絶えず浮き上がり、根付くよりも先に弾けて消えてしまう。
どうするべきかは分からないが、とにかく人を探し、いないならばいないで、出口を探そう。
よし、と一つ頷きながら、また襖に手を掛けた。
***
どれくらい襖を開けて進んだだろうか。
永遠に同じ景色を見なくてはいけないのか、そんな絶望感すら浮かび上がった時、開けた襖の先に一つの違和感を見付ける。
まるで迷路みたいだ、そんな感想しか抱かなかった、まるで何も変わらない景色だったのに、一つ、たった一つだが、明らかに違うもの。
「……水?」
そう、水、多分、きっと、恐らく、水、だろう。
眉を潜めて、襖に手を掛けた状態で一歩引く。
畳に四方の襖は同じだが、その部屋に薄らと、しかし確かに水の膜が張ってある。
足首にも満たないそれは、真新しい畳を薄く多い、ゆらりゆらり、揺れていた。
しかし、どういうことだろうか。
部屋に水が溢れていることも、だが、襖を開けたというのに、その水は一歩下がった部屋まで流れて来ないのだ。
まるで見えない力でも働いているように。
揺れる水面を見ながら、どうするべきか、緩やかにしか働かない頭で考えた。
どの部屋も四方を襖で囲まれているが、目覚めた時に向いていた方向を一直線に進んで来たのだ。
ここで進路を変えるべきか、はたまた、諦めずに一直線に進み続けるのか。
数秒、指先に力を込めて襖を握り締めた後、ゆっくりと水へと足を滑らせる。
冷たい、ひんやりとしたそれに、足元から鳥肌が立っていく。
靴下が濡れて不快感に包まれるが、仕方なく目の前の襖に手を掛け、開いた。
またしても、水が張っている。
ほんの少し水嵩が増しているような気がして、そっと息を吐き出す。
これは、駄目だ。
開いたままの襖に片手を添え、逆側の足を上げて、びしょ濡れになった靴下を抜き取る。
妙に肌に張り付く布の感触が気持ち悪い。
両足の靴下を抜き取り、その場で絞り上げる。
雑巾を絞るのと同じ要領で、ぎゅうぅっ、と力を込めて捻り上げ、パンッと乾いた音を立てて皺を伸ばす。
一通り水気を落とした所で、綺麗に揃えて、二つ折りにした靴下を、少し迷ってから上着のポケットに押し込んだ。
そうして素足で水を蹴るようにして歩き出す。
繰り返し、繰り返し、襖を開けて進んで行く。
誰にも合わず、同じ景色ばかり見る。
足元の水は、進めば進むほどに増えている気がしたが、それは気のせいではないらしい。
それから十を超える襖を開けたが、足裏を包み込み足の甲に軽く被るほどだった水は、既に足首ほどまで増えている。
水が増えれば増えるほど歩きにくくなり、深い溜息が漏れた。
次、次、開く襖の先の想像なんて容易い。
ただ水嵩が増しているだけなのだ。
出口はあるのか、そもそも此処は何処なのか、何故私はこんな所にいるのか。
じわりじわりと胸の奥で生まれていく不安は、静かに胸の内に沈んで影を生む。
泣き叫びたい衝動を、必死に押し殺し、飲み込み、胃の奥底に収めて、襖を開き続ける。
そうして開いた襖の先に進み、また、襖を開く。
奥歯を噛み締め、八つ当たり気味に開いた襖の奥には、水が増えただけの部屋がなくなっていた。
キョトン、襖を開いた状態で、目を瞬く。
足元は相変わらず水だが、床そのものは畳ではなく、木製の床だ。
左右に伸びた木製の床は、和造りの家の廊下そのもので、真っ直ぐに視線を投げれば、立派、だったのであろう庭がある。
それは残念ながら、水に飲まれているが。
庭に植えられた木は、どれだけ水に浸かっていようとも、青々とした葉をしている。
庭の水がゴポゴポ音を立て、時折水泡を立てた。
地下から水でも溢れているのだろうか。
良く良く目を凝らして見るが、石に囲まれた小さな池から水が溢れているようにも見える。
これは異常事態だ。
いや、そもそも目を覚ました時点で異常事態だったのだが。
唇を真横に引き結んで、ゆっくりと視線をズラそうとしたところで、ドン、背中を突き飛ばされる音と確かな感触で、襖をに掛けていた手が滑る。
押された上半身が、前のめりに倒れ、釣られるようにして足が前へ出た。
一度崩したバランスは持ち直すことなく、重い水に足を取られ、バシャンッ、と音を立て、水の中、木製の床の上に倒れ込む。
いくら水の抵抗があると言っても、床は木製で硬い。
強かに打ち付けた膝は、その奥の骨にジィィンとした鈍い痛みを伝え、外側も内部もズキズキ痛む。
「……そんな所で、立ち止まるからですわ」
溜息混じりに投げられた言葉は、私が生まれ育った場所とは違うイントネーションだった。
訛り、と言うべきか、何処のものかは分からないが、京都や大阪と言った、もっと大雑把に言うなら関西、だろうか、そういう分かり易い訛り。
膝を付いたまま、声の主の方へ顔を向ける。
廊下――庭に面した廊下なので縁側と呼ぶべきか――そこに、腰を下ろした男がいた。
気怠げな様子で、水浸しの縁側で胡座をかき、ノンフレーム眼鏡の奥で庭を眺めている。
「随分と時間が掛かったみたいで、待ち草臥れましたわ」
あふ、と小さな欠伸が男から漏れる。
足も腰辺りも濡れているのに、そんなことは全くどうでも良いと言いたげに、私を見た。
時間が、掛かった、言葉を咀嚼するように繰り返し、水面と男の顔を見比べる。
その言い方は、まるで、私が此処に来るのを待っていたかのようで。
冷たい水の上を、ぼんやりとした光が滑るように飛んでいく。
視界の端でゆるりと動き回る光を尻目に、男は「こっちに来たらどうです」と手招きをした。
膝も腕も濡れてしまった私は、自分が開けて来た襖を見上げる。
一体誰が、私の背を押したのだろうか。
閉め切られた襖に手を掛けたが、動く気配がない。
一部屋に溜まった水が、隣室に流れ込むことがないような、見えない力が働いているようだ。
空間に固定されてしまったかのように、びくともしない。
「あの、これは、何ですか」
目が覚めてから、どれくらい時間が経ったのか――体感では三十分以上は経っているが――久々に自分以外の人間を見て、話すのだ、妙に喉が貼り付いて上手く言葉が落ちて来ない。
途切れ途切れに落とされた言葉に、男は私の顔を見て片眉を上げる。
これ、という言葉の意味が理解出来なかったのか、ゆるりと首を傾げた男。
もう一度、これ、と言いながら水面を手の平で叩く。
パシャパシャ、控えめな音が響いた。
「……塩気があるだけの水ですわ」
よっこいしょ、なんて間抜けな声と共に、重たげに腰を上げた男は、水を掻き分けて私の前までやって来る。
そうして、未だ膝を付いたままの私の唇に、水の付いた指先を押し付けて来た。
上唇と下唇を同じ加減で、ふにふにと押す。
眉を寄せながら顔を引けば、思いの外アッサリと引き下がった男は、そのまま私の目の前に座り込んだ。
舌を覗かせて、触れられた唇を舐める。
あぁ、確かに、海水よりも薄い塩気を感じた。
「……何で、部屋の中まで水に浸かっているんですか」
体勢を変えようと上半身を起こす。
袖の濡れた上着を見下ろし、指先を左右に振って水気を弾き飛ばした。
その水気の消えていく先を眺めた男は「……そうすべきですから、でっしゃろ」と、まるで独り言のように呟いて頷く。
足元もずぶ濡れで、どうするべきか数秒、迷った後に男の隣に座り込む。
冷たい、水が染み込んで来て、下着まで濡らそうとする不快感に眉を潜めた。
それでも、男は相変わらずこちらの顔を見詰める。
「寒くないんですか」
水が冷たいせいか、空気も冷えている気がする。
目が覚めた時、寒いと感じた理由は、こういうことだったのだと頷けるが、そんな水に浸かりながら殆ど動かない男は寒くないのか。
横目で見た顔は、やけに整っている。
端正な顔立ち、と言うべきなのだろうか。
ノンフレーム眼鏡の奥の瞳が、やんわりと細められ、三日月の形に変わる。
「寒いんですか?」と質問で返され、私は肩を竦める。
寒いに決まっているだろう、なんて言わずに、上着を手繰り寄せた。
水が増えているせいか、ますます体温が奪われる。
二の腕を擦り「沈むんですか?」また、質問。
視線は男ではなく、ゴポゴポ水が溢れ出る池を見る。
白い水泡が浮かび上がり、弾けて消えた。
私が視線を逸らしたとしても、男の方は私から視線を逸らす気は無いのか、チクチクと視線が突き刺さって痒いし痛い。
「沈みますわな」
「……沈むんですか」
恐怖らしい恐怖は感じなかった。
先程、同じ部屋が続き、同じ襖が続き、ただひたすらに手探りで先へ進むしかなかった時の方が、余程恐怖を感じただろう。
薄い塩気混じりの水は、ボコッと音を立てて水泡を増やしながら、その嵩も増やしていく。
この調子で、この場所が沈むというなら、どれくらいの時間が掛かるのか。
男は、何故か私の肩を引き寄せ、自身の胸に私の頭を押し付ける。
小さな硬いボタンの感触が後頭部にぶつかった。
「……何ですか」
問い掛けに返ってくる言葉はない。
肩を抱く手に力が込められ、肩の骨が僅かな悲鳴を上げている。
男は首を傾けるようにし、私の顔を覗き込み、朝焼けと夕闇の混ざったような瞳を細めた。
ノンフレーム眼鏡越しだからなのか、その瞳に浮かぶ感情らしいものが見当たらない。
「貴女はずぅっと、私と一緒に居てくれるでしょう」
疑問符は確かに付いていた、と思いたい。
緩やかに細められた瞳は、綺麗な三日月の形になり、不思議な色の瞳を覆い隠す。
体を離そうとした瞬間に、つい、と正しく後ろ髪を引かれる。
ボタンに絡まったらしい私の髪を見て、男の手は肩から頭を移り、私の頭を抱え込む。
ゴポゴポ、水が増え続ける。
体温を奪われ、奥歯同士がぶつかり合い、カチカチと音を立てるから、自然に隣の熱を奪おうとした。
ゴポゴポ、どれくらい時間が経ったのか。
冷水のような薄い塩味の水は、座り込む私達の腰元までになっている。
ゴポゴポ、水はいつになったら、私達を飲み込むのだろうか。
ゴポゴポ、ゴポゴポ、ゴポゴポ――ゴポッ。