乱入
吉良家から見た忠臣蔵、これまで忠臣蔵と言えばー大石内蔵助が無双のヒーロー、上野介はどうしよもない悪人とされてきましたがいささかならず偏り過ぎた見方と思います、もしも内匠頭が勅使の前で恥をかくような事でもあればそれは将軍の顔に泥を塗ること、そんな事が有ったら浅野家だけでなく吉良家までが取り潰されてしまいかねない、たとえ謝礼かきにくわなくても、ならぬ堪忍するが゜堪忍とその場は忍んで儀式を無事に終了させる事をかんがえなければならなかったはす、と考えてこの様な物語を書きました
太鼓の音がする
太鼓の音が鳴り響く
何者かが攻め太鼓を打ち鳴らしている
上野介は天守閣から城門を見下ろしている自分に気が付いた、しかもおかしいのは素襖大紋の礼服を着ていることだった、門のところには火事装束の侍たちがひしめき合っていた、
あれは何者だ、と上野介は思った、この太平の世に戦を始めようとはどこの周章者なのだ、
突然侵入者の間から白装束の男が現れた、胸から腹にかけて血にまみれ、その顔は無念と苦痛に歪んでいる
あれは誰だ、と上野介は思った、見た覚えはある、だが誰だったかは思い出せないーーーーー
「よしさま、よしさま」と言ったのは綾だった、
夢だったのか、と上野介は思った、自分の城に天守閣など無い、それにここは江戸屋敷だ、
「表が騒がしゅうございます、見てまいりましょうか」
言っている間に慌ただしい足音、
障子の外から「綾様」と言ったのは宿直の若侍だった、
「大殿さまにはお目覚めでございましょうか」
「起きているぞ」と上野介、
[何の騒ぎだ」
「元赤穂藩の牢人と申す者どもが押し込んでまいりましたーーー」そこで言い淀む、
[申せ」と上野介は叱りつけるように言った
「亡き彼らの主君、浅野内匠頭の無念を晴らすため、殿の御首を頂戴に参上つかまつった、と申しております」
何と言う事だ、それで夢の訳は分った、だが、
「白痴ッ」と叫んでしまった、宿直の侍は自分が叱責されたように恐縮して走り去る、
額の傷が今更のように疼き、苦い記憶を呼び起こす、
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
上野介は言葉を失い、若い大名の白々とした顔を見詰めた
「この男は阿呆か」と思った、勅使接待役に選ばれた時、指南役である自分のところへ鰹節二本を持って挨拶に来たのには驚いた、猫の仔を呉れれるのでもあるまいに謝礼の相場も知らないのか、
その上このような役割を与えられる大名なら当然知っているべき事もわきまえず自分のところへ尋ねに来るとは一体どういう料簡か、しかも苦い思いを堪えながら噛んで含めるように教えさとしたのはつい先日の事なのだ、それをもう忘れてしまってのだろうか、
上野介はハッと思い当たった、そうだこの男、浅野内匠頭は異常なのだ、まだ若くて前髪立ちだった頃
父親の名代としてこの役割を立派に果たした事が有る、それがいまではおかしくなってしまった、現代の医学なら“アムネジア”と名付けたであろう、上野介はそのような事は知らぬ、知らなくても異常は解る、その脳裏に恐るべき光景が浮かぶ、見た目には颯爽としたこの男が執るべ礼儀も忘れ果て、勅使の前に茫然とたたずむ、身の毛もよだつ有様だ、もはや浪費する時間はない、
『浅野氏」と上野介は言った、
「其許はご不例(病気)のようでござるな、お役目は某が勤め申すゆえ、御休息
召されよ」
「あいや」と内匠頭は叫んだ
「某、いたつき(病気)ではおざらぬ、ただ礼式のこと承りたいと存ずるだけでおざる」
精神異常の人間と論争している余裕はない
「ご休息召されよ」
叩きつけるように言うと廊下に出る、松の廊下と呼ばれているあたりで梶川誉惣兵衛とか言う侍がいた、何か用があったらしいがこちらが急を要する、浅野の領主が急病で倒れ、その代役を探さなければならない、と言おうとしたのだが、その梶川が、あッと言うような顔をしたので振り向いてみると引きつったような顔の内匠頭が征夷大将軍の護衛であることを示す、飾り物に過ぎない小サ刀を大刀のように振りかざして迫ってきているのだった、
やめろッ、と叫ぶひまもなく浅野の領主は小刀を振り下ろす、飾り物でも刀の形はしている、額をしたたかに打たれて目がくらむ、不甲斐ない、と思ったがその場に転んでしまった、内匠頭は肩にもう一度切りつける、しかし三度目はなかった、誰かー後で梶川だと分かったーが羽交締めにして押さえていたのだった、誰かが介抱してくれていた、後は覚えていない、将軍の侍医が手当をしてくれたのだそうで気が付いた時は控室で布団に寝かされていた、将軍の使いが来て事の次第を問いただしたが、恨みを買うような覚えはない,内匠頭の乱心であろう、と答えておいた、
あの時、と上野介は思う、内匠頭が刀法を心得ていないのは幸運だった、本当に仕留める心算なら振り下ろすのでなく、腰だめに水平に構えて、こちらのした下腹を抉るようにすべきだったのだ、
もっともそれをやられたら自分の命もないところだった、
将軍、綱吉の処断は秋霜烈日内匠頭はその日の内に切腹、赤穂藩は取潰しと決まった、吉良家にはお咎めなしなので安心したが全てはなにもなも片付いてから聞いた話だった、
赤穂の侍たちも、同じように取り潰された他の藩士たちと同様、運が良ければいずれかに仕官出来たがそれも叶わず、困窮するものも少なからず、武士を捨てて町人になった者もあると聞いた、しかしそう言った事情も知らぬ気に家老、大石内蔵助は遊里に入り浸り、放蕩三昧の日を送っていると隠居所にも噂は流れてくる、
しかしその噂とは裏腹に大石は四十人余の手勢を率いて乱入してきたのだーーー
身支度を整えた上野介は大刀を杖に、茶室の前に立っていた、夜明けの風が身にしみる、
綾も男物の袴に小太刀を抱えて侍立していた
「隠れておれ」と上野介は言ったのだ、「彼奴らの狙いはこの儂だ、そなたまで巻添えには出来ぬ」
「綾も武士でございます」彼女は凛然と答えた「お家の大事に逃げ隠れ致すわけにはまいりません」
上野介は舌を巻く思いで側女の顔を見た、これほど厳しい半面を持っているとはこれまで全く気が付かなかった、
突然、薄闇の中から一人の男が現れた、短槍を下げ、申し訳ばかりの具足をまとった初老の侍だ
「これにおわしたか」と侵入者は言った「それがしは元赤穂の藩士ーーー」と名乗りかけるのへ
「お黙りなさい」と綾が叫んだ、「そなたは下級の侍、殿にはじかに話しかけてはなりません、首謀者をここへお呼びなさい、その者から申し上げても良いでしょう」
綾の気迫は相手を圧倒した、初老の武士は反論もできず、呼子を取りだすと三声吹き鳴らした、
まもなくざわざわと足音がしてひろくもあらぬ裏庭は牢人で一杯になった、町人の様な身なりに塗りの剥げた大刀を横たえた者、合戦のつもりか鎧かぶとを装着した者、元服前のような年少者、仮装ではない中間もいる、
「首謀者はおらんのか、前に出ろ」と上野介、
すると仲間を掻き分けて火事装束の男が進み出た、
「元赤穂藩の出頭家老、大石内蔵助でござる」と名乗る
「主君、内匠頭様の無念を晴らすため御首頂戴に参上仕った」と言いながら短刀を差し出す、
「これにて御腹を召していただきたい、我らとて手荒な仕儀はいたしたくありませぬ」
「そうはゆかぬぞ」と上野介、「ここは我が邸内、御主等のような狼藉者に恐れて腹を切るような真似は出来ぬ、内匠殿はあの時、乱心しておられたのだ、怨むなら将軍を怨め、儂のところへ来るなど相手を間違えているのだ」
「我らの殿が乱心なされた、と仰せか」と内蔵助
「如何にも」と上野介、「正気で有ればあのような振る舞いはなされぬ筈、他に考えようがあろうか」
「ならば我ら四十六人も乱心仕った、殿の仕損じたこと、今、果たし申す」
上野介は驚いた、あの内匠頭にこのような家臣があろうとは
「おやめなさい」と綾が叫んだ「貴方がたは何者です、夜中に門扉を打ち破って押し入る等、夜盗の仕業ではありませんか、武家の様な事を言わないでください」
「お女中は黙っていただこう」内蔵助は鼻白んだように言った、
「われらにはなさねばならぬ事が有るのだ」
「大石とやらーーー」上野介は威容を正して呼びかけた、
「その方、それだけの人数を率いて夜討ちに参ったのは自信がないのか、我らに迎え撃つ余裕を与えては不利と考えたのか、儂一人を取り囲んで打ち果たそう所存か、それが武士たる者の所業か、
一騎討ちなら受けてつかわそう、それで儂が勝ったら手勢をまとめて引き上げるのだぞ、断っておくがこれでも指南役から世辞抜きで免許を取ったのだ、覚悟の上なら参れ」
内蔵助はたじろいだ、押し入ってしまえば成功と思っていたのだ、凍った泥の上にひれ伏して命乞いする老妄の隠居を期待していたのだった、だが現実は鬢髪白くとも腕には年を取らせぬ颯爽たる剣士だった、
上野介は大刀の鞘を払い中段に構える、内蔵助は青眼の構え
上野介は落胆した、相手の構えが全然なってない、いかに時代は元禄、太平の世とはいえ武士たるものが刀の構え方も知らないとは何事か、これで主君の怨みを晴らそうなど、語るに落ちると言うものだ、内蔵助は焦った、老人の姿がひどく大きく見える、部下たちの手前、とても敵わぬ、とは言えない、後には引けず、さりとて進んで上野介を討ち果たす自信もない、
上野介もこれでは千日手だと思った、相手には腕はないが若い、身なりも充分整えている、自分は有り合わせを着込んできただけだ゛時間が経てば不利になるだけだ、やってみよう、と思った
ちょっとだけ隙を見せたのだ、疲れて刀を構えるだけの力が無い、というフリをしたのだっ
乗ってきた、あまりにも早く、罠に飛び込んで来たのに驚いたほどだった
両者の刀はガンッと音を立てて噛みあったが隠居はほとんど動かず、襲いかかった家老の方が凍った泥の上に転がってしまった、
「儂の勝ちだ」上野介は相手の喉元に切っ先を突き付けて言った「言っておいた通りだ、家来どもをつれて帰れ、内匠殿には怨みははらせませんでした、ともうしておけ」
だが他の者を失念していた、綾も気が付かなかった.
最前。槍を持って入ってきた初老の武士がその槍を素早く構えると無言のまま、老人のわき腹に突きたて、グイと抉ったのだった
「あッ、おのれっーーー」と苦しげに叫びながらどッと倒れた
汝等は所詮乱心者かーーーはことばにらならなかった
上野介、吉良義央、享年六十一歳
上野介が剣豪、内蔵助が剣法を知らない本は行き過ぎのようですが物語の都合でこうなってしまいました