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マイ・ハウス

 翌朝のシンジはあまり目覚めがよろしくなかった。それもそのはず、昨日観たあの部屋、あのコの映像が脳裏から離れないからだった。

 昨晩の夕食の献立も、その後家族で観たTV番組も、布団に入りどのくらい寝付けなかったのかさえも一切記憶にない。常に心臓はドキドキを繰り返し、常にあのコの柔肌が瞼の裏に焼きついていて、シンジはずうっと興奮状態の中にあった。

 布団に後ろ髪を引かれるように起き上がり、出勤の準備を始めたシンジ。顔を洗ってから居間に入ると、朝食の支度をしていたミナコがご機嫌にシンジの方へ振り返った。

「おっはよう、シンちゃん。ごはんもうちょっと待ってねー」

 昨日の今日である。ミナコがご機嫌なのも自然現象と言える。

 いつものように朝食を済ませ、いつものように家を出た。外見的には平静を装ってはいたが、シンジの胸中はいまだに激しい動悸を繰り返していた。

 会社にいても本日のシンジはほとんどの仕事が手につかない状態だった。出勤途中からもそうだったが、頭の中はあのコの映像で満杯だ。透き通るような白い肌に輪をかけて真っ白で小さめの下着だった。映像はモノクロだったのでリアルな記憶は無いのだが、目元にモザイクが掛っているので余計に妄想を膨張させた。

 午前のデスクワークはなんとか乗り越えた・・・乗り越えたというより勝手に時間が進んでいった感が強いが、とりあえず昼休みを迎えた。昼食をとろうといつも通っている定食屋に足を運んだシンジ。そして、いつもの席に腰を降ろし、いつものBランチを頼んでいた。Bランチは肉類の日替わり定食で、Aランチは魚類という具合。注文したランチを待つ間に週刊誌を読むのもいつものことだった。

 昼食時には近くのOLたちでごった返すほどの人気店だけに、スーツ姿のOLたちが頻繁にシンジの脇を往来している。乾いたヒールの音に行き交うコロンの香り。短めのタイトスカートから伸びるスラっとした美脚。ふと顔を上げたシンジは向かい側に座っていたOLと目が合った。

(・・・!)

 現在のシンジの眼球は何物も透視するレンズになっていた。柔肌に純白の下着。か細い背中に浮き立つ肩甲骨。そして、振り返ると靡く黒くて艶のあるロングヘアー。シンジの脳内ではすでに向かいのOLも露わな状態にされていた。

 午後からは外回りの予定にしていたシンジ。昼食を済ませた後、会社には戻らずにまっすぐクライアントへと向かった。しかし、今日のシンジはいつものきまじめなさを持ち合わせていなかった。彼の中には、仕事、という二文字は存在せず、気がつくと見知らぬ公園のベンチに座りぼんやりとしていた。

「はああ」

 昼下りの公園は、幼児と手をつないだ若奥さま方の溜まり場だった。茶髪だの、金髪だのと色とりどりの若い女性で溢れかえっている。

(ヤンママか)

 何を見ても、誰を見ても画面の中のあのコの事を思い出してしまう。

(やっぱ、ロングがいいなあ)

 虚ろな表情で太陽が燦々と降り注ぐ公園を眺めていたシンジは、クライアントとの約束をふと思い出した。そして咄嗟に立上り駆けだそうとした時、シンジのお尻のポケットから長財布がスルリと抜け落ち、中に整理されていたカード類が散乱してしまった。慌てて屈んだシンジ。それらを一枚ずつ確認しながら拾い上げていると、とあるカードのところでピタリとその動作を止めたのだった。

「これは・・・」

 それこそ例のワタナベ不動産・ワタナベ店長の名刺であった。親指と人差し指で摘まみあげた名刺を睨むように見つめたシンジ。何やら思い込んでいるかのような低い唸り声は発した後、無意識に携帯を握っていたのだった。

 公園の中央にある噴水が涼しげに噴き出している前で、シンジは携帯電話を耳に当てていた。公園の噴水が上がったり、下ったりと見事な弧を描きながら周囲に清涼感を振り撒いている。

(・・・忙しいのかな?)

 何度か呼んだ後、諦めかけて空を見上げたその時

「はい、はい。もしもし、ワタナベでーす。ハアハア」

 どこからか走ってきたような息づかいをした店長が電話口に出た。

「も、もしもし。こんにちは。わたし、昨日うかがった・・・」

「どうもどうも、これはこれは昨日のイトウさんですね」と恥ずかしそうに口を開いたシンジの言葉を遮った。

「な、なぜ? わたしだと?」

 背中に寒気を感じたシンジは辺りをぐるりと見渡した。店長はそれに応えずに

「イトウさん。今どちらにおいでですか? もし時間ありましたらこれから事務所の方にいらっしゃいませんか。いろいろとお話したいことが・・・」

 店長の誘いを聞き終わる前にシンジは歩を進めていた。それはいつもより足早であった。


 小さな街なので到着するまでには、そんなに時間は掛らなかった。

 店の前で立ち止まったシンジは、両手を遠慮気味に広げ小さく深呼吸をしていた。シンジは深呼吸をしている途中、どこかで見た光景だな、と思っていたが迷いを振り切るようにドアを開けた。事務所の奥には忙しそうに机に向かっている店長がいた。入店を知らせるチャイムを聞いた店長は顔も上げずに声を張った。

「いらっしゃーい。お待ちしてましたよ。どうぞ中へ、どうぞどうぞ」

 シンジは言われるままに、昨日と同じソファへと腰を降ろした。

「もうすぐ終わりますので、少々お待ちを・・・」

 大変忙しそうな店長はそう言って口を閉じると、また夢中になって書類を書き始めた。

 待っている間、シンジは応接室の中をきょろきょろと見廻していた。薄汚れた天井は会社の歴史を想像させた。天井だけではない。シンジの座っているソファから店長が仕事をしている事務机まで、そのすべてが使いこまれた感じで創業者の堅実さを感じさせた。しかし、そんな中でひとつだけそぐわない物をシンジは見つけてしまった。それは・・・

(不動産連合杯ゴルフコンペ?・・・優勝)

 やけに小ぶりで金ピカなトロフィーだった。ここの店長はゴルフが上手いようだが表彰状や資格者証の間にこういう物を飾るなんて、しかも一番目立つ場所・センターに置くなんて・・・シンジは店長のデリカシーを疑っていた。

 小さな溜息をひとつ吐いた後、視線を前方に戻すといつの間にか店長がソファに座っているではないか。店長はハニカミながら「いやあ~、お恥ずかしい」と後頭部をワシワシと掻き「趣味と言えるのはゴルフくらいなもんなんですよ」と顔を赤らめた。

 そんなこと誰も聞いてはいなかったが、店長が嬉しそうに言っていたので人の良いシンジは笑顔で応えていた。でも一応・・・勤務中という事を思い出したシンジは話しをあっさりと切り替えてしまった。

「ところで、どうしてあの電話・・・私だと?」

 さっき電話口で逸らされた話題を振ってみた。すると店長はニコっと微笑み

「昨日の今日ですからね。イトウさんから電話が来ると思っていましたんで、こうして会社で待機していたんですよ。あの部屋を紹介したご主人たちは皆、必ずと言っていいほど翌日には電話を掛けてきましたからね。しかも、決まって昼一番に」

 シンジの行動は、店長の想定の範囲内だったらしい。それを聞いたシンジは急に恥ずかしさに襲われていた。想定内の行動が良かったのか悪かったのかはわからなかったが、動き出してしまった感情を抑えることなど今のシンジには到底無理と思えた。が、ふと一瞬だけ冷静になり我に帰ったシンジは胸中にある願望をひとつだけ吐いてみた。

「できましたら・・・もう一度だけ・・・」

 店長はまた、シンジの発言を遮った。

「それはできませんよ」ついさっきまで微笑ましかった店長の表情が少しだけ厳しいものに変わった。「昨日は特別だったんですから」と言って人差し指を立てた。「それに、誰にでも紹介しているわけではないんです。あそこのご主人だって、又いつあの部屋を使うかもわからない。勝手に出入りしているところが見つかったら私が信用を失いますんで・・・イトウさんのお気持ちはわかるんですけどねえ」と難しい表情のまま首を横に振った。そして、店長は思い出したように続けた。「ところで昨日帰ってからご家族の反応はいかがでした? 現場ではなかなか良い雰囲気に見えていましたけど」

 シンジは肩を落としたまま店長を視線を合わせた。

「妻も息子も非常に乗り気でしたよ。ほぼ建てる方向の会話しかしませんでしたし。現場を見ていない長女も喜んでいました。元々、自分の部屋を欲しがっていましたから反対する理由なんてないんですよ。・・・ただ、大きな買い物なので支払いも含めてじっくり検討しなければいけないと、話していたんです」

 店長はシンジの返答にはじめはウンウンと頷いていたのだが、その表情を途中から困った表情に変えた。

「それはそれは、良い話ですね。・・・ただ、イトウさんにご報告しなければいけないことがありまして」と更に表情を曇らせ、首を横に振りだした。「実は昨日、現場を見終わった後、玄関の鍵を締めていると新築中の看板を見た飛び入りのお客さんが来てですね・・・」

 何かを察したシンジは突然口を挟んだ。

「ちょ、ちょっと待ってください。先に見たのは私たちじゃないですか」

「それはそうなんですがね~」店長はおもむろに視線を逸らした。「ウチとしては、イトウさんと契約を交わしたわけはないですし、ましてや、手付けも打たれていない。それでは先約とは言えないんです」

 店長はホトホト困った顔でそう告げた。店長の言っていることはもっともの事だったので、シンジは痛いところを突かれてしまった。

 シンジ一家が今のところ『買う』という保証はどこにもない。結果、ご破算にでもなったら店側にしては大損することになる。したがって、他の購入意欲があるお客を断る理由などないのだ。

「・・・では、どうすれば?」

 シンジは縋るような視線を店長に送った。

「一番は、手付けを打つことです。それかいっそのこと・・・契約してしまうか。ねっ」

 直球勝負だった。まあ、今のシンジには逆に率直で有難かったが、お金の話となると、家に戻り、我が家の大蔵大臣と相談しなければならない。シンジは下からうかがうように訊ねた。

「時間的余裕は?」

 店長はそれに胸を張って答えた。

「イトウさん。さいわい昨日のお客様は手付けを打ったわけではありません。ですが、イトウさんよりも先に手付けを打たれたら私には断ることはできません。今ならまだ間に合うんです。」といかにも悔しそうに膝をポンとひとつ叩いた。

「手付けっていくら位なんでしょうか・・・ウン百万とか」

 そんなわけはないと大袈裟に手刀を振った店長。

「いやいや、そんなに必要ないですよ。手付けというのは仮の約束みたいなものですから、いくらでもかまいません。私どもとイトウさんとの信頼関係次第ですから。イトウさんはとても熱心で真剣に検討してくださってますので、通常は数パーセントとかなんですが今回は10万円で結構ですよ」

 想像していたよりも遥かに安い金額を言われたので、強張っていたシンジの両肩から一気に力が抜けていった。とは言っても今のシンジには持ち合せがなかった。

「今晩家族と検討して明日には必ず返事したいと思います。だから、何とか今日だけは待っていただけないでしょうか」

 どうかこの通りです、とシンジは付け加え店長に向かって深々と頭を下げた。

「ちょ、ちょっとイトウさん、そんな真似はやめてくださいよ。どうか頭を上げてください。買っていただくのはこちらの方なんですから」と店長は恐縮しながらシンジの腰に手を当てた。そして「わかりました。ご主人がそこまで言うなら私も男になりましょう。ご主人を信じましょう。明日まで待ちますよ。待たせて下さいよ。ですけどね、ご主人・・・」と恐縮した表情を少しだけ引きつらせ「・・・手付けというよりも、契約してしまった方が潔いと思いませんか」と付け加えた後、机の引き出しから書類を1枚取りだした。

「こ、これは?」

「ただ口約束というのも何ですから、今日はここに一筆だけ下されば・・・」応接テーブルの上にその書類を置き、毛深い人差し指で署名欄を指していた。「これは手付け用の簡易的な書類なんです。具体的な金額は不要ですから、サインだけお願いします。これさえあれば他のお客さんがいらしても断ることができますから」

 シンジは書類の内容をひと通り目で追った後、店長の顔を見上げた。

(このヒトは本当に仏さまのような方だ)と心の中で感謝すると、その場にグイっと立上り頭を深々と下げたのだった。そして「ありがとうございますっ」と体育会系な言い方で感謝の気持ちを伝えた。

「いやあ、そんなにされると恥ずかしいもんですな。そろそろ頭を上げていただいてサインしていただければ・・・」と言われたシンジは、さっそくボールペンを拾い署名欄に自分の名を書き記したのだった。

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