或る夏の輪廻の物語
どんなに声を荒げても、どれだけ喉を痛めても、まだ足りない。私の耳をつんざく程の声量でも、きっとまだまだ届かない。泣いても泣いても、きっと声は届かない。
届いてないって知ってるけど、問いたい。私の声は貴方に、聞こえているでしょうか。
ならば教えて下さい、あの時貴方が何を考えていたのか――――。
八月十八日、長い長い夏休みの中の、とある一日。天気は、快晴。雲一つ無い真っ青でどこまでも続いてそうな、空。その中心で輝いているのが、太陽だった。髪を越え、頭皮をも貫き、脳天まで焼き焦がしてしまうような暑さの中、一組の男女が町中を歩いていた。ぴったりと寄り添って歩くことから、彼ら二人は恋人だと分かる。
耐え難い暑さの中で、男は額に浮かぶ大粒の汗を拭った。本当に暑いと、上空の太陽を睨み付ける。どうせ冬は冬で寒さを嫌悪するだろうに、夏の熱気を嫌うように彼はぼやいた。それを知っている隣の女性がクスクスと笑う。ちょっとムッとした表情で男は抗議を始めた。
「何がそんなに可笑しいんだよ」
「だって……冬の時は、夏がもどかしいって言ってたじゃない」
「……それとこれとは話が別だよ。君も嫌いだろ、暑いの」
「別に。そうでもないんだけどなぁ……。暑かったらプールに入れるし、アイスだって暑い時に食べる方が美味しいし」
隣の女性の返した言葉のせいで、彼は反論できなくなる。何か言い返そうとしても上手く理屈をまとめられず、結局は沈黙。溜め息を吐いて敗北感に浸る彼を女性は笑った。もう、言い返す気力も起きないのか男性は暑さに目を伏せている。それを見兼ねた女性は救いの船を出した。
「じゃあ、喫茶店ででも涼まない?」
「良いね、じゃあ行こうかな」
その提案に男性は喜んで従う。丁度良い事に、少し歩いた所に喫茶店がある。最近噂になっている、ちょっとした話題の店。もしかしたら混んでいるかもしれないと思いつつ、様子を窺う。しかし、多少話題になったところで喫茶店が満員になることはそうそう無いのか、机が二、三は空いていた。
それなりに人がいて、繁盛はしているが、とりあえず待ち時間が不要で助かった。涼めるとは言え、延々と喫茶店の中で何も頼まずにじっとしているのは嫌だろう。それならば、少々歩いて他の店を探す。
都合の良いことに、窓際の座席に座っている者は居ない。椅子に座った二人は心地よさそうな笑みを浮かべる。それだけではまだ足りない男は、はだけたTシャツの襟の辺りを掴み、前後させて仰ぐ。弱いながらも、涼風が額にかかった汗ばんだ前髪を揺らす。店員がやって来て、冷たいおしぼりとメニューを持ってきてくれた。軽く会釈するようにして感謝の意を示し、手を拭いた。
女性の方が丹念に手の隅々までおしぼりを走らせている横で、男はメニューを開いた。プラスチック製の一枚板が折り畳まれた、最もよく見かけるもので、それほど大きくない板にぎっしりと文字が並んでいる。
「まだ十一時にもなってないし、飲み物だけで良いかな?」
「良いよ。私はアイスコーヒー」
「俺は……紅茶の方が良いな。ミルクティーにでもしようかな」
メニュー表を折り畳む私達を見て、従業員のうちの一人がやって来た。小さなお辞儀の後に、注文はお決まりですかと、丁重な言葉で接客する。噂に聞いた通り、感じの良い店だと、そっと彼氏に耳打ちしてから、女性はコーヒーを頼んだ。男性も自分の注文をする。それで全てだと言うと、かしこまりましたと残して、最後にもう一度お辞儀。最後まで礼儀正しくして戻って行った。
ふと、彼らはどちらが言いだした訳ではないのだが、店の内装を観察しだした。円形のテーブルと五つの椅子を一セットとして、五セット程度が中央に有り、その周りを囲うように、時折通路を開くように配置された観葉植物が置いてある。それのさらに外回り、窓のすぐ傍に二人組用の正方形のテーブルがある。そこから見える眺めは当然町並みだ。周りに綺麗な景観でも見れたら良いのだが、そこまでの贅沢は言えない。しかし場の雰囲気のせいだろうか、植物の多く、礼儀のなっている人々のおかげでここは上品な空間に思われて、その雰囲気の力で普段と変わらぬ町並みも違って見えた。
それにしても凄い所だと感嘆した女性は、天井を見上げた。中央にシャンデリア一つ、そして周りにいくつもの、天井埋め込み式のライトが照射している。オレンジに似た黄色っぽい光は何だか暖かな気分にしてくれる。
「ここ、やっぱり良い所ね」
「そうだな。噂も馬鹿にできないな」
「噂がいつも間違ってると思わないでよ。合ってる時の方が多いんだから」
違いないと呟いた彼と顔を見合わせて女性はまた笑う。この人と共にいる間、彼女には笑みが絶えないらしい。見ているだけで手に取るように分かるだろう、彼女は心の底から、彼と共に過ごす時を楽しんでいるのだと。また、彼も彼女の笑顔を好んでいるのだと。
談笑しながら適当に、十五分も時間を潰していると、盆の上に二つのカップを乗せたウェイターがやって来た。淡く立ち昇る湯気を見ていると、紅茶とコーヒーの芳醇な香りが漂ってきた。良い匂いだと、二人が鼻孔をくすぐられるような心地よい感じを楽しんでいると、黙々とウェイターは二つのカップを卓上に置いた。注文したものとその値段が書かれた紙を脇に置いて、去って行った。
「とりあえず、飲もうか」
目の前に置かれたティーカップの取っ手に、男性は手をかけた。真っ白な湯気の立ち昇るそれを、口元へと運んでいく。熱いのを恐れて、吐息で冷まそうと息を何度か吹き掛ける。肌色の水面の上で、幾重もの波紋が生まれる。火傷に気をつけて、おそるおそるカップの縁に口を付ける。一口分啜って、口の中全体で味わう。
「やっぱり、有名になるだけあるね。美味しい」
冷たいコーヒーを飲んで、恍惚とした表情の彼女を見て、熱いティーカップを置いた男性は微笑んだ。そして、彼女の言葉を肯定するために頷いた。入ってみて良かっただろうと、得意げに胸を張っている様子はまるで子供のようだった。
「暑い暑いって言ってたのに、何で熱いのを頼んでるの?」
「出てきてから気付いたんだよ、湯気が上がってるのに」
「ドジだねぇ……君の行く末が思いやられるよ」
少しずつ、喋りながら飲んでいると、瞬く間に時間は過ぎていった。カップの底が見えた時には、もうすでに十一時半になっていた。そろそろ出ようかという彼の提案に、女性は従った。
代金を払って、店を出てすぐに二人は川の方に向かった。町中を歩いても暇だし暑い、それならば少しでも涼しい所で時間を過ごしていたい。それならば水辺が良いだろう。この町を流れる川は水が綺麗な事で有名だ。
「ここに来るの、随分久しぶりね」
「そうだな。小さい時はよく、一緒に遊んだな、この川で」
「何で来なくなったか……覚えてる?」
「覚えてるよ……。正確には来させてもらえなくなった」
二人の表情が、突然に陰った。悲しさではなく、罪悪感のような後ろめたさを彼らは感じていた。
「風で、お前の帽子が飛ばされたんだよな……」
「そして、馬鹿な私はそれを取りに川の中に向かった」
「案の定、川の流れに呑まれた。親の顔が青ざめてる中、俺は川に飛び込んだ」
「貴方は、私を助けてくれた……けど、今度は貴方が溺れた」
「それを見て、通り掛かりの、今の俺達ぐらいの男の人が助けてくれた」
その後の光景もよく覚えている。透明で、クリアな水中を絶え間なく白い泡が立ち昇っていた。息苦しくて、死にそうな顔をしながら、男の人は決死の力で幼き日の彼を救った。そして、彼は見ていた。自分の命の恩人が、死の間際に優しそうな笑みを浮かべていたのを。フッと脱力した彼は、真ん中の辺りの強い流れに負けて、流されていった。穏やかな表情のままで。命からがら川原に上がった子供の頃の彼は、懺悔と悲しみで、涙が枯れるまで、泣いた。「ごめんなさい」とか「自分のせい」とか、ひたすらに自分を傷つけて、ただ、泣いた。
だが、当然、心に傷を負ったのは彼一人だけではなく、彼女もだった。二人で、何時間も、嗚咽を漏らして、叫んで、自分の身を自分で傷つけて……。そんな状態の二人を怒れるような大人は居ず、慰めるしかなかった。その代わり、もう大きくなるまでは川に近づくなという言葉を添えて。
「あれから二十年か……」
「うん、そうだね。そういえば、丁度今日じゃない?」
「え? ああ、そうだな。そういえば、そうだ」
二人の重たい心情を表すように、ポツリポツリと雨が降り始めた。空は、見渡す限り灰色で、閉塞感がのしかかってくるようで、重苦しい。折り畳み傘も無く、雨に打たれる二人だが構わずに川を見つめる。橋の上、花束を持った四十代の女性が、虚ろな瞳で同じように川を眺めているのに妙な近親感を女性は感じた。徐々に強くなる雨脚が、二人を濡らしていく。前髪がべったりと額に張りついてしまって、男の着る白いTシャツは下のシャツを透かしていた。だが垂れきった前髪よりも、どす黒い雲の色合いよりも、二人の感情の方が深く沈んでいた。
「ねぇ、何で帽子被ってたんだっけ?」
「雨が降ってきたから、とりあえず……だったよな。まだ、これぐらいの小雨だけど」
「うん、そうだった……ね」
川原で遊んでいたのは、二組の家族。子供は幼稚園児ぐらいの年だ。ワイワイと、雨に喜ぶ少女の手に持ったスカーフが突然吹いた突風に舞った。ユラリゆらりと、惑わすように宙を舞うそれは、川の中心へと向かっていった。それを追って、少女は曇天の川の中に入っていく。
その中心まで、あと一歩の所で、突如少女の姿は水中に消えた。突然に周囲の者の顔色が変わる。
気付いた時……男の体は反射的に動いていた――――。
水中でもがいているのであろう、飛沫が川の中から上がっている。川原の小石を撒き散らして男は走る、それが使命だと信じて。大いなる力に背中を押されるように、駆ける。少女と共に遊んでいた少年も、川に飛び込んだ。同じ目に合わせる訳には行かない。そういう使命感。
目に映る景色はデジャヴュ、昔見た光景。少女は助かり、少年は溺れる。絶対に助けてみせると意気込む彼は脚の力が思わず強くなる。あの人が考えていたことが、今の彼には痛いほどよく分かった。
服を着たまま、彼は水中に潜り込む。視界中に水泡が現われては水面へと消えていく。真っ白な泡が向こう側の景色を隠してしまう。しかし、それも気にせずにまっすぐ突き進む。
自身が飛び込んだ衝撃で発生した泡は全て消えるが、ある一点でまだまだ気泡は上がっている。そこにいる、直感した彼はそこにいる少年を抱き締めた。誰かがいると察した少年は抵抗を止め、従う。少しずつ、浅い方に近づいていく。その瞬間、彼は耳打ちした。
「忘れるな、お前も引き継ぐんだ」
少年を浅瀬に突き飛ばした瞬間、全身に力の入らなくなった彼は、穏やかに笑った。そのまま激流に負けて流されていく。恋人の彼女の声も、もうその耳には聞こえていなかった――――。
「今日で二十年か……早いね」
その日から丁度二十年の歳月が経った。彼は、自分を助けた人と同じように、その一生を終えた。中々ドラマチックで劇的な最後だ。彼に花を手向けるために私は橋の上にいる。
その日の天気予報を思い出す。午前は快晴、正午から小雨からの、土砂降り。私は怪しくなってきた雲行きに、溜め息一つ吐いた。
川原には、一組のカップルと、二組の子連れの家族がいた――――。
〈fin〉
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