続・雨の記憶
この物語は完全なフィクションです。
細い、糸のような雨……前輪の脇がへこんだ車……制服のスカート……塀で区切られた空……深く響く声……あなたは誰を守ったの?
薄明るい部屋で目が覚める。何の音もしない。携帯で時間を確かめる。午前五時。
(夕方まで寝過ごしたかと思った……)
ほっと胸を撫で下ろし、もう一度携帯を確かめる。新着メールはない。
(……仕方ないよな)
ベランダの硝子扉の隙間から風が吹き込む。
雨の匂いがする。
この街にたどり着いて七年になる。二十歳からの十年は酷かった。小さなパチンコ店や飲み屋、住み込みで働けるところを転々とした。
十九歳の時、轢き逃げをした。逃げるつもりはなかった、とは言わない。轢いてしまったおばあさんは動かなかったし、助手席には、就職も決まった高校生の女が乗っていた。俺は別に結婚もしていた。免許も無くなったところだった。
高校生を送ってから出頭し、交通少年院に送られた。嫁とは離婚して、あの女にもそれ以来、会っていない。両親にもひどく迷惑をかけた。
事故の事は就職に大きく響いた。だが、恋愛にはそう影響がなかった。
何度か女と付き合った。付き合った女とは結婚を考える質だから、轢き逃げしたことを告白する。
「無免許で事故起こして。逃げた。就職決まった高校生の彼女が一緒だったから。送った後、出頭して交通少年院に入った」
そう説明するとたいてい納得された。『彼女の将来を守った優しい人』とさえ評価されるようだった。
もちろん、事故の事を忘れたわけではない。
ハンドルを伝わった衝撃も、横たわって動かないおばあさんの体も忘れられない。
それでもあの時は、彼女を守りたいと思った。事故を起こしたのは自分だし、彼女を巻き込んではいけないと、強く思った。
ただ違っていたのは、おばあさんの死亡が確認されたのは、病院でだった。ほぼ即死状態ではあった。すぐに通報しても亡くなっていた、はずだ。許されないのはわかっている。それでも罪は一人で被るべきだと思った。
高校生を送って出頭する前に、電話ボックスから嫁に連絡した。用件だけ言って切ったが、しばらくそこから外を眺めていた。
雨はまだ降り続き、街灯が車を照らしていた。自慢の改造車。おかげで有名にもなったし、友達もたくさん出来た。しかし、今は色褪せて見える。急に全身が奮えた。
(人殺し……)
高校生の事など、その時点で頭になかった。
彼女はそれまで付き合って来た女とは違っていた。事故の事を初めて話した時、ただ
「ふうん」
とだけ、言った。
優しい人だった。甘いのではない。自分の意見をはっきり言う。三つ年下だったが、しっかりしていた。俺は今までと同じように、彼女と結婚したいと思った。今までで一番強く、そう思った。
プロポーズしようと彼女を誘い、飯を食っていた。並んで座った目の前には庭園があり、その日も雨が降っていた。
雨が降ると事故の事を思い出す。彼女に事故の話をするのは二度目だった。
「……俺は逃げた。高校生を送ってから出頭したんだ……」
彼女は窓の外を睨みつけていた。
「……それが本当に最善の方法だったと思っているの?」
そんな怖い顔を見るのは初めてだった。俺は必死で説明した。
おばあさんは、ほぼ即死だった。高校生は就職が決まっていた。事故を起こしたのは俺だ……
「私が言ってるのは、おばあさんじゃない、もう一人の被害者の事よ」
彼女の言っている事がわからなくて、黙っていた。彼女は雨を見つめたまま、ゆっくりと話し始めた。
おばあさんを置いて逃げたなんて、許されない。そもそも、無免許運転からしておかしいじゃない。でもそれに関しては、あなたは罪を償った。……償ったからって、消えるわけじゃないけどね。
彼女の事はどう思っているの?本当に彼女は救われたと思っているの?
誰にも言えない罪を背負って生きてるのよ。償う事も出来ずに普通の生活を送るのよ。
あなたが隣に乗せていたせいで、事故現場に居合わせちゃったかも知れない。でも彼女がいたせいで、あなたが逃げる事になった。被害者にだけじゃなく、あなたに対しても罪の意識を持ち続ける。償う事のできない罪をね。
あなたは被害者の命だけじゃない。彼女の、罪を償う機会を奪った上に、一生の心の傷を負わせたのよ。それを、まるで彼女を救ったヒーローみたいに話す事が信じられないわ。
あなたは一体、誰を守ったの?
途中までは腹を立てながら聞いていた。罪を犯した人間の惨めな生活を知らないくせに勝手な事をいうなと思った。
だが、事故の話をする時、高校生の将来を守ったという意識があった。『いい人』という評価を得る事も意識していた。
「もし隣にいたのがお前だったら、どうした?」
「わからないわ。逃げたかも知れない。でも、もし、隣に乗っていたのが私たちの子供だったら……一緒に罪を償うな。多分あなたの親御さんがしたように」
「……俺、最悪だな」
窓の外の雨は、あの日のように細く降り続いていた。彼女は前を向いたまま、やっと少し笑った。
「偉そうな事、言ったけど、私があなただったら同じ事をしたかも知れない。どっちにしろ、その時には戻れないのよ」
「俺は……どうすればいい?」
「……自分で考えなさい」
深いため息と共にそう言って、席をたった。もう会えない事を悟った。
どうするべきか考えた。高校生に会いに行こうかとも思った。
当事者の俺になら、苦しい気持ちを打ち明けられるかも知れない。罪を償う機会を奪った責めを受けるべきかも知れない。
だが今どうしているか、わからない。心に傷を負いながらも、ある程度は幸せになっているかも知れない。
それでも蒸し返すように、会いに行くべきか。彼女の言葉を思い出す。救われるのは誰か。
彼女以上に好きになる人はいないだろう。しかし、もう会えない。
「もしも、私たちの子供だったら……」
あの言葉が救いだった。ダメにしてしまったけれど、愛されていた。
あの事故で、俺は何を失ったのだろう。たくさんの間違いを重ねた。無免許、不倫、逃亡……嘘をつき、その嘘をつき通さなかった事で大切な人も失った。しかし、自分が思っていたよりもたくさんのものを奪っていた。
一縷の望みをかけて、メールを送った。
『同乗者なんて、最初からいなかった。それが俺の出した結論です。こんなダメな奴だけど、あなたと一緒にいたいです』
彼女からの返事はまだない。一生来ないかも知れない返事を俺は待ち続ける。
被害者やその家族に懺悔しながら。
せめてあの高校生が幸せでいることを、これ以上何も失わない事を祈りながら。
降り出した、細い、糸のような雨……制服のスカート……深い彼女の声……俺が守ったのは誰?
「俺」の選択が正しいのかは、前作同様、作者にもわかりません。「メール」の行方について、最終章にするべく、執筆予定です。