ロマンスの舞台
*主役どもは出てきませんが御心配なく。
ちゃんとロマンスの作り方の続きです。
それをその少女の耳が聞きつけたのは当然といえば当然だった。
街が出来、そこが賑わうには理由がある。旅の要所は宿場として、港は物流の中継点として、城下は言うに及ばない。そしてその街――ディディが出来て賑わう理由は二つある。一つはリースファールとの国境から最も近い位置にある街だと言うこと。元は近隣の物流の一時的な中継点として出発した街だったが、国境が確定しそれが安定していくにつれて歓楽街としての側面を持ち出した。国境付近はどちらも耕作地帯でそこに兵士達の慰めとなるようなものはない。鬱屈を救い上げてくれる受け皿がディディの街に求められたのは当然と言えば当然だった。
そしてもう一つの理由は、城があるからだ。
城と言ってもそれは呼び名のことであって、実際には王家所有の館である。広大と呼ぶにはやや小ぢんまりとしたその館は、王族の避暑と狩りの為の言わば別荘だ。年のほんの数日に過ぎないが、そこには必ず毎年皇家の内の数名が滞在する。その中には皇王が必ず存在する。普段は屋敷を管理している十数名と森の管理者が住む静かな館だが、その時期はディディからも臨時で人が雇われ賑わいを見せる。
こうした皇家の城は各地にバラバラとあるのだが、確実に毎年皇家が滞在する場所は多くない。
その時期は祭りになるし、祭りは盛大にもなる。
皇家のお気に入りの土地としての側面も、ディディの発展に一役買っていた。
同時にちょっとした発展の抑制にもだ。
歓楽街としてのみ大きくなる街は、当たり前だが治安があまりよろしくなくなる。酒を供する店が当たり前になれば酔っ払いが増えるし、それを狙ったスリやかっぱらいも増える。それらの犯罪者は大人しく酔っ払いだけを狙うものではないし、鴨にされやすい酔っ払いも全員が全員大人しく懐の中身を譲り渡すわけではない。娼館の類も増えるし、また認可を受けていないもぐりの娼館や個人で客を取る流しの娼婦も増える。その為の連れ込み宿もまた増えるし……と数え上げればきりがない。無論街として成り立つためにはそれを警備し管理する機関が設けられるし機能もするのだろうが、それによってガチガチに固められてしまうのも上手くない。それでは歓楽街足りえない。そうすると今度は賂が横行し始めて、とまあ、石が坂を転がるが如くだ。
潤ってはいても、『悪い』土地、街。そう認識されるのが常である。ディディはそうではないが。
その転がる石を、皇家の存在が押し留めている。城下ほどではないが、その名の効力は十分だった。
いい街だ。と、少女は――キャミーは思っていた。両親はキャミーが12の時に亡くなってしまったが、キャミーは食うに困ったことがない。事故で亡くなったキャミーの両親はディディでも旨いと評判の店で雇われコックと給仕として働いていた。その店の女将さんと大将がキャミーを雇い入れてくれたのだ。ただ養われている生活は終わってしまったが、働き口は得た。一生懸命に働く幼い給仕と言うのはお客の評判もよく、すくすくと成長していくキャミーはいまや店の看板娘だ。
これが皇家の影響のない歓楽街だったら、と思うと背筋に冷たいものを感じずにはいられない。両親以外に身寄りがなかったキャミーは、職にありつけたとしても無事に成長できなかったかも知れない。12にしかならない、同時に12にもなった女の子供が庇護の手なく一人でやっていけるほど『悪い』土地は甘くはないのだ。働き出したばかりの頃にお客から怪談話のように聞かされたそれはキャミーの中に事実として根付いている。言ったお客が女将さんに叩き出されたことは忘れてしまっているが。
『ここが陛下のご威光の強い街でよかったなあお嬢ちゃん。そうじゃなきゃ今頃売り飛ばされてただろうよ』
と言うような内容に、酔っ払い特有の下品さを過剰に足した言葉だったが、当時のキャミーには下品な方の言葉は理解できなかったので忘れてしまっている。今なら理解は(言葉の上では)出来たのだろうが、何しろ忘れたのでどうしようもない。
兎も角、その酔っ払いのからかいの言葉は幼かったキャミーの意識に根付く程度には真実だった。だからキャミーはディディが好きだったし、皇家もまた好きだった。
「えっ」
だから騒がしい店の中でその言葉はキャミーの耳に届いた。
いつものように細い腕に慣れた手つきで皿を山ほど並べ、ひょいひょいとテーブルの人の間を掻い潜っていたキャリーは、腕に乗っている料理の大半を並べるべきテーブルでその言葉を聴いた。
曰く、今年は祭りがないらしい。
「えっと、お祭り、ないんですか?」
テーブルに料理を、その名前を告げながら並べ終えたキャミーは、笑顔は絶やさぬままそのテーブルのお客に尋ねる。名前は知らないが顔は知っている。幾度か訪れたことのある常連未満の二人組だった。
ああと頷いたお客は、困ったように笑う。
「そろそろ季節なんだがね」
間接的な皇帝に、キャミーは一瞬だけ笑顔をくしゃっと歪ませる。12の時からもう4年、体に染み付いた接客魂はお客様に対して不機嫌な顔を晒そうとしない。それでも一瞬歪んだ表情は、キャミーの受けた衝撃の大きさを表していた。
初夏のこの時期に行われる『祭り』は正確に何日に行われる、とは決まっていない。城に皇家が滞在する期間の最後の三日に合わせて行われる。少し汗ばむ陽気になると、『今年は何日になるかね』と言う会話が上るようになる。今年は中々正確な日取りが発表されていなかったが、まさか中止とは思っても見なかった。
「まああまりいい話じゃないんだが、このところね……」
そのお客の言葉は、キャミーに衝撃を与えた。ともすれば両親の死の知らせを受けた時と変わらぬほどの。
かちゃんと小さな音を立てて扉が開く。
商店が並ぶ表通りとは隔たった、居住区域の外れにその小さな家はあった。キャミーは取り出していた鍵を扉から抜いて、首にかける。
小さいが確りとしたつくりのその家は、キャミーが生まれた家だった。幼い娘が一人で街外れに住むのは危ないと、仕事を斡旋して貰ったその時から店主夫婦の家に間借りしている。家というのはそのまま店のことで、二階の一部屋にキャミーは住まわせて貰っていた。この家は空き家にしてあるが、そのままだと幽霊屋敷となってしまうので店が休みの時にこうしてキャミーは掃除に通っている。12まで育った思い出が大きすぎて、売ったり貸したりする気にはなれなかった。いつか誰かと家族を作ることがあるのなら、この家出がいいと思っている。
扉を開けると少しの埃臭さが鼻につき、扉の蝶番がきしむ音がする。油を差さないとダメかなと思いながら、キャミーは扉を潜った。
普段ならそのまま雨戸を開けて空気の入れ替えを行うのだが、ふうとため息を落としたキャミーはすとんと少し埃の積もった椅子に腰を下ろした。やはり埃臭いテーブルに頬杖を付き、またふうとため息を落とす。
『今、ちょっと国境が危ないらしくてな。今年は皇家の恒例の狩りは中止になるんだとさ、皇家がこないのに祭りもないもんだろ』
キャミーには国境が危ないと言われても実感などわかない。ただ不穏さは感じ取ることが出来る。それは危ないと言う言葉より、皇家の毎年の予定が覆されたと言う点によるところが大きい。恒例を覆さなければならないほどの何か。それを思うと胸が潰れる思いがした。元々結構潰れていると言うかないというのは言わないお約束である。
皇家のご威光がなくなってしまう。なくなってしまったらこの街はどうなってしまうのだろう。
国境の危なさが危ないで済まなくなれば、街も何もあったものではないのだがキャミーの世界はこの街だけであり、この街を単位にものを考える。それはキャミーに限らず、腰を落ち着けて生きる多くの人間にとっては当たり前の話だった。
何をどうすることも出来ないから、怖さだけがつのる。街外れのこの場所では賑やかなディディの喧騒は遠い。
とても、遠かった。
キャミーは髪が汚れることも厭わずに、ぺったりとテーブルに懐いた。
「どうなっちゃうのかなあ」
独り言に、返事が返されるなど思いもよらなかった。
「おいしく頂かれちゃうんですよー」
キャミーはびくっと体を跳ね上げ、後ろを振り向こうとしたがそれは敵わなかった。
喉を締められるような衝撃で体が浮き上がり、次の瞬間には強かに肩と腰を打ちつけた。
「な、なっ!」
誰何の声を上げる暇もなく、肩を強い力で押さえつけられる。同時に嗅ぎなれたそして味は知らない何かの強い香りがした。酒精だ。
酒の匂いと肩を押さえつける強い力、そして生々しく感じる他人の体温。
げらげらと言う笑い声が、状況を把握出来ずにいるキャミーの頭上から降ってくる。酒精もまた一緒に。生臭い香りの出所は二つ。両肩を押さえる腕が二本、そして、
「やっ!」
ビッという音と共に肌に外気が触れた。初夏とは言え布で温まった体に外気はひやりと冷たい。
頭上から伸びてきた手がキャミーの胸元の布を破いたのだ。
この時になって漸く、キャミーは自分が襲われているのだと言うことを理解した。
これでも歓楽街に働く娘である。知識はあったし、その災難が誰にも平等に訪れる可能性があることも理解していた。
街の人たちは商店や食堂、酒場で働く人たちが殆どだ。商売をやっている人間が多いだけに、必ず人がいる時間帯――夕暮れから夜、と言うような――ものがない。繁華街の喧騒と比べれば常時ひっそりとしているのが常だ。ここは街外れで、その傾向は更に強い。だから普段は掃除のために戻った時は直ぐに扉も雨戸も全部を開け放ち、誰かがどこから進入してきても分かるようにしてから、人の存在を示すように歌など歌いながらやるべきことを手早く済ませる。
でも今日はどうだった――?
雨戸は締め切ったまま、物思いにふけって。しかも扉の鍵も開けたまま。無用心にも程があった。
「ちょ、離して。誰か、誰かー!!!!」
キャミーは大声を出しながら精一杯手足をばたつかせた。押さえ込まれてしまっていては望み薄だが、それでも暴れなかったら薄い望みさえ繋げない。二人の男は跳ね上げようとするキャミーの体をやすやすと押さえ込んでにまりと顔を見合わせた。どうやら従順な獲物より多少暴れるくらいの方が好みのようだが、暴れるキャミーにそんなことは分からない。
「はいはいお嬢ちゃん誰も来ないって」
「大丈夫だって大人しくしてれば直ぐ終わるよ」
直ぐかよと嘲って馬鹿笑いをする男達の会話など、キャミーの耳には入らない。意識にあるのは無遠慮に体を這い回る手の感触と、押し付けられた体の不愉快な熱さだった。
「離せ! 離しなさいよ馬鹿! 触んないでええっ!!!」
暴れる都度、ビッ、ビッと布の裂ける音がする。胸元から腕、腕からわき腹、腹と、男達は嬲るようにキャミーの服を破いていく。白い肌の上を硬くてざらついた掌が動くと、肌は突き出るほどに粟立ち、その恐怖心が更に男達を煽った。
悔しさと恐怖で視界が霞む。
キャミーは一際大きな悲鳴を上げた。
「いやああああああっ!!!」
もっと嫌なものが、その瞬間キャミーに振ってきた。脱力仕切った男の体である。
「ちょ、退きなさいよ重い汚い苦しいいやーっ!!!!」
ばたばたと暴れると、以外にもあっさりとのしかかってきた体はずるずると己の上から外れていく。
えっと思って周囲を見渡すと、もう一人いたはずの男もまた今外れて行った男同様、床にごろんとだらしなく転がっていた。
「え、え?」
見れば閉じていた筈の扉は開け放たれていて、午後の日差しを背負ってそこに誰かが立っている。手に、番えているのは剣だろうか。特有の刃物の輝きが見えないために断言は出来なかった。
「ええっと、無事、かな?」
キャミーは反射的に幾度も幾度も首を振った。勿論縦にである。
壊れた人形のように頷きを繰り返すキャミーに、その剣っぽい何かを持った人は困ったように笑う。ならよかったと言いながら差し出してくる上着を、キャミーは受け取ることが出来なかった。
緊張から開放されたからではない。恐怖が残っていて体が動かないわけでもなかった。
ただ、ただ、肌がとんでもなくきわどい形で晒されていることにさえ意識が至らず、その剣っぽい何かを持った人を見つめた。
西日に煌く黄金色の髪、濃い緑の瞳、白い顔も、すんなりと伸びた手足も。
こんなに綺麗な金の髪を見たことはなかった、こんなに綺麗な緑の瞳も、綺麗な肌も、綺麗な体も――綺麗な顔も、知らない。
キャミーがこれまで見た中で、否多分これから見ていく沢山の人の中でも、最も美しい存在がそこに立っていた。