ロマンスの雌花の苗床にて
城を含めた景観は美しかった。
城下と呼ぶに相応しく、広がるそれから見れば小高い位置にすえられた城は、堅牢な城壁に守られて確固としてそこに鎮座している。
城下から眺めるその城は大きく、立派で、そして美しい。
だが、側近くに寄ってみればその印象は少しばかり変わる。歴史を感じさせる重々しさは、遠目からでは分からない。本宮は見上げてまだ余るほどの大きさで聳え立ち、その背後には緑を挟んで離宮の姿が見えた。
一つの本宮と三つの離宮によって、リースファールの王宮は成り立っている。本宮は王族の生活空間としてではなく、政務と行政を行う場所として機能していた。居住空間としての役割は離宮が果たしており、一つは国王の、もう一つは正妃の、そしてもう一つは所謂後宮として5人の側妃が起居している。その妃が産んだ子供達も、母親と同じ離宮で育つ。王太子のみは、10を過ぎる頃に母親の元から離され王の離宮へと移り住む。
こうして連ねると酷く厳格な規格で運営されているようにも思える離宮だが、実際のところはそれぞれの離宮を行き来することは難しくはない。難しくはないが、好んで行き来するのはその中心にある王だけである。
「いやもう一人いたか」
ぼそりと呟いた青年は、己の立ち位置から後宮である三の離宮を眺めた。
「過去形が痛いなー」
その傍らに立つ青年が混ぜ返すように言葉を足す。先に発言した青年が軽く肩を竦めた。
二人が揃って眺めている先には、慌しく本宮へと戻っていく文官の後姿がある。
大変だねえなどと暢気な呟きは、後から言葉を重ねた方の青年が発した。
彼らが立っているのは本宮から三つの離宮へと向かう小路の分岐点だ。三方に分かれた石畳は、それぞれの離宮へと伸びている。似通った容姿をした彼らは、言うまでもなくその離宮の住人だった。
彼らはどちらも誰かと同じ栗色の髪をしていた。瞳の色はどちらも誰かとは違う薄い青だった。顔立ちは良く似ていたが、醸し出す雰囲気は明白に違う。先に声を発した方の青年は官服を一分の隙もなく着込み、背筋を伸ばして真っ直ぐに立っている。茶色の髪も短く切り揃えられ、柔らかさや温かみは感じられない。やや薄い唇が、酷薄な印象を見るものに与えることもあるだろう。片や、言葉を重ねた方の青年は白いシャツに乗馬ズボンと言う軽い服装だった。いくつか寛げられたシャツの前ボタンが、軽さを助長している。栗色の髪は首の後ろで緩く纏められ、房の付いた飾り紐で結ばれている。退廃的な雰囲気そのままに、直立不動の青年の肩に片手を置き、しなだれる様に体重を預けている。
「なあ知ってるのは?」
「お前と僕と、後はアメリアだな」
「フィリシア妃は知らないの~?」
「父上もな。ついでに兄上もだ」
「へえ?」
退廃的な青年はきょろんと目を輝かせた。ついっと持ち上がった口の端はお世辞にも上品とも好意的ともいえない笑みの形だった。
「ちょっと優越感だよな?」
「アレのことだ。僕たちのことも試しただけかもしれない」
冷静に返されて、ちえっと舌を出して見せた青年の名をレオナード。寄りかかられても微動だにしていない青年の名をジークフリードと言う。肩書きは第2王子と第3王子、ジークフリードの方が弟であるが、生憎彼にとって兄とは王太子である上の兄の事だけであるらしい。実にぞんざいにレオナードを扱っている。
先ほど大慌てで本宮へ戻っていった文官の慌てぶりの理由を彼らと彼らの沢山の妹たちの内の一人だけが知っている。未だ露になっていない事実をも。
今現在、露になっている情報は、彼らの多くいる妹たちの内で最も毛色の変わった一人が出奔してしまったと言うことのみだ。その目的も行き先も、彼ら以外の誰も知らない。
だから彼らは暗号のように離す。
「アメリアはどうしてる?」
「ん? まあ相変わらずと言えば相変わらずかな。ただアレが確り仕事は引き継いでいったからね。ぶつぶつ言いながらも今日は城下じゃないかな」
「あそこの姉妹は揃って規格外だな」
ふうと息を吐き出したジークフリードは、未だ凭れたままのレオナードを振り払った。レオナードは逃げていく弟に頓着することなく、笑ってひらひらと手を振ってみせる。
彼らは知っていて、そして彼らは味方だった。
海に競り出した三日月形の土地。物品は三日月の中で行き交い、隔離されたように循環する。だがそうも行かないものもある。
王族の婚姻がそれだ。史書の始めの記述の頃はデュポアとリースファールは相互に花嫁を送りあっていたようだが、王家と皇家が代を重ねていくごとに歴史書にその記述はなくなる。当たり前の話で、二つしかない王家皇家が相互に花嫁を送りあうようでは、血が濃くなりすぎるのだ。だから花嫁は三日月の外から来る。デュポアは国内の有力貴族の娘が皇妃に立つこともあるようだが、リースファールでは違う。三日月の外の国家から、花嫁を向かえて皇妃とするのが常だった。時に花嫁の輸入などと揶揄されることもあるが、残念なことに逸れは事実を正確に写した揶揄である。三日月と言う閉鎖空間から出られない――最も嫁いだ姫などと言うものは例外なくそうなのだが――閉塞感と心細さで、王妃となれても幸福とは言いがたい生涯を送る姫君も少なくない。
当代のリースファールの王妃も例外ではなく三日月の外から嫁いで来た。だが、平素の輸入花嫁と違ったのは、娶わさせられた王が王妃の立場をこれまでの王達よりも慮ってくれたということだった。国王は己が娘達を側妃として売り込んで来る貴族の求めを悉く付き返した。王妃が世継ぎを産むまでは側妃は持たないと宣言し、王妃の立場を守ってくれる第一のもの、正妃の産んだ第1王子という何よりの証を持たせようとした。期限の区切られた賭けではあった。いつまでも男児が産まれないという状況が続くようなら、何れ側妃をと言う求めには抗えなくなる。だがその賭けは運良く運び、王妃は嫁いだ翌年に王子を産んだ。それから二年後と三年後にそれぞれまた男児に恵まれ、王妃の正妃としての立場が磐石となって漸く、王は貴族の求めに応じる形で4人の側妃を同時に後宮入りさせた。1から4までの側妃達は完全に同時期に迎えられ、その事が王が自ら望んで側妃を迎えたのではないことを示している。側妃たちはそれぞれ牽制しあったが、既に世継ぎは生まれており、男児は王太子のみならず2名もいるのでは牽制もあまり意味がない。己の産んだ子供が王位を得ることはまずない状況である。その上王は4人の側妃を全く同じに扱った。誰か一人を寵愛することをせず、全く平等に――それは正妃もだ――妃達の下を訪った。その妃達が今度は揃ってぞろぞろと姫を産むとは誰も予想はしていなかっただろうが。
当代の王と王妃は愛し合ってはいない。だが互いに互いを尊重しあってはいた。それは今も変わらないが、唯一つ王妃が嫁いで来た時と違っているのは今の王には寵姫があると言うことである。
最後に迎えられた第5妃は、王太后の侍女だった娘で、身分から言えば他の側妃達より一段劣る。身篭ったことで後宮へ入った。
だがそれが寵姫であるとは、あまり認識されていない。戯れに王が手をつけた娘がたまたま孕んだ。問題が出るほどの低い身分の娘ではなかったために、後宮へと向かえたのだとそう認識されている。王の行動が、5妃を迎える前と変わらず、6人となった妃の下を全く平等に訪なうからだ。5妃であるフィリシアを特別に扱う事がない。
だから彼女は寵姫ではない。
それは幻想であり、そう思い込みたいが故の認識でもあるのかもしれない。
「上手くやるかな?」
レオナードの視線が鋭くなる。
普段はへらへらとつかみ所のない兄だが、こんな雰囲気を漂わせる時だけは『兄』と立ててもいいような気がジークフリードはしてくる。
「さあ? 分からないが、時間稼ぎくらいはするだろう。アレは、アレだからな」
「まあ、アレはアレだな確かに」
名を出さない妹を、二人は思った。
幼い頃から規格外だった第5妃の1の姫は、後宮の者がまず使うことのない小路を利用して王妃の離宮や王の離宮へと行き来した。意識を持って正妃の公務に関わり、意識の分信頼されるに至った。
ここのところは国境の不穏化の為か塞ぎこんでいる様子も見せていたのだが――
「まさかこんな馬鹿なことを実行に移すとは思わなかったが」
「やるって言ったらやるんでしょ、アレだから」
「アレだからな」
或いは自分達以上に、あまりにも愚直に王族であろうとする妹姫。
彼らはその『アレ』が自分達に目的と突飛な計画を明かして行った理由を正確に理解していた。
ぽんと、レオナードが再びジークフリードの肩を叩く。
「ま、頑張れ」
「人事のように言うな」
お前も頑張ったらどうだと口を尖らせた弟に、レオナードはにやっと笑う。
「俺が頑張っちゃったら目立つでしょーが」
頑張るのはお前。頑張らないのが俺。
さらりと言いながらも、その目には不穏なものが宿っている。
愚直に王族であろうとする妹に対して、彼らもまた誠実であろうとしていた。
お姫の実家の王宮事情。