ロマンスの設定3
詰めていた息を、カインはふうと漏らした。多大に気力を消費した結果、気を張り詰める余裕をなくした――と言うより、馬鹿馬鹿しくなった。
またしても冷静さを欠いていたが、こうして気が抜けて肩の力も抜けてしまえばレイミアを観察する余裕も戻って来る。
比較対象が、あの天使とも見紛う程の美貌の少年が傍らにいないならば、十分以上に可愛らしい容姿の少女である。大きな瞳も、小作りな顔も、よく表情を映す唇と頬も、少女らしい若々しさと魅力に溢れている。
黙って座ってさえいればと言う、恐らくは望むべくもない前提条件が付いてしまうのだが。
「何?」
観察されていることに気付いたのだろう。むっと眉根を寄せたレイミアが不審そうに尋ねて来る。カインはいやとごまかしかけたが、直ぐに思い直して真顔でレイミアを見直した。
「……なに?」
僅かに声に警戒と怯えが混じる。
振り回された――正確には振り回され続けている為だろう。普段ならばカインらしくないと評されるだろう攻撃的な感覚が持ち上がっていた。最もカインは自らを穏やかとも見なしてはいなかったが。
カインはくすりと小さな笑いを落とし、顎に手を当てて目を眇めた。
「自分の恋人を見ることがそんなにおかしなことか?」
「恋人じゃ……」
反射的に否定の言葉を吐こうとしたのだろう。しかしレイミアは咄嗟に口を噤んだ。
違う、だが、違わない。
違わないことにすることを求めて、レイミアは国境を越えたのだ。真実はどうでもいいと言い放ったのも他ならぬレイミアではあったが、その結果の行き着く先としての婚姻を認めてもいた。
それをカインの前で宣言していたと言うことは、つまりは――
「それなりの覚悟はあってのこと、か」
聞こえないような小声で呟き、カインは椅子ごとレイミアに近寄る。この行為に、らしからぬ攻撃性が現れている。確認は必要だろうが、こんな行動で確認する必要があるのかは疑問だった。それでも、カインの体は動いた。ごとんと言う鈍い音は、人が乗ったままの椅子の重さを示している。
既に陽は落ちきり、物音は帳の向こうへと吸い込まれていく。立てた音の重さも夜の静粛の中で強く鼓膜を震わせたのは一瞬で、あっという間にその余韻さえ消え去ってしまう。そして音を吸い込む帳の中にまた一つ、ささやかな衣擦れの音が落ちた。身じろいだレイミアは恐らく本能的にだろう、潜在的な敵から身を遠ざけようとした。しかし肘掛のあるソファーは意識を持って逃走を図らぬ限り、レイミアの逃走を制限する。中央に座っていた少女の体は、ずりずりとささやかな音を帳に提供しながら、肘掛に阻まれるまでにソファーの端へと寄った。そしてもう一度、ごとんと鈍い音が響いた。それぞれが違うものに腰掛けながら、それとは思えないほどに体が近寄る。ソファーの端で身を縮めたレイミアは、居心地の悪さと僅かな怯えを感じているのだろう。それでもその視線はカインから逸らされる事はない。
獣との相対であるなら、実に正しい対応だが、生憎カインは獣ではなかった。――とりあえずは今のところ。
ついと無造作に伸ばした手に、白い頬が触れた。先ほどまでは興奮のためか赤みの差していた頬は、僅かな無言の時間の中ですっかりと色を失っている。ランプの炎に映し出されてもそこに赤みが見えない。それを証明するように、掌に感じる少女の肌は冷たかった。
こくりと、レイミアの喉が上下する。音がするほどに固まったレイミアだったが、やはり視線が逸らされる事はなかった。
大した覚悟だと内心思いながらも、実際にどこまでを理解した上での覚悟なのか、それは分からないとカインは思った。
「小さな顔だな、目は大きい、眉は少しばかり太いが気になるほどでもない」
「……っ、だから、何?」
「恋人の顔を知ろうとしているだけだ。気にするな」
「だ、だって……」
手、と言いたかったのだろう。それが中断されたのは、その『手』が動いたからだ。
頬を滑り顎をなぞって耳の後ろのくぼみに人差し指が収まる。耳朶を親指で挟み込み、中指で首筋を辿った。吹き出物やあばたに引っかかることはない。するりと男の無骨な指を誘い込む小さな顔は、その動きによって温かみを取り戻す。本来、血の気のあまり多くない耳たぶがほわりと温かみを持ち、白かった頬は瞬く間に真紅に染まった。
椅子から身を乗り出し、カインはレイミアの動きを制限しているソファーの肘掛に手を突く。触れているのは頬の手だけだが、更に近くなった距離はレイミアを追い詰めた。この緩い拘束から逃げたいのであれば、自ら手を使って『恋人』を押しのけなければならない。部屋の外に騎士は存在するが、その存在に頼るわけには行くまいとカインは読んでいた。
思いつめて国境を越えてきたほどに恋に狂った娘が、当の恋人を拒むわけがない。悲鳴を上げて助けを求めることも、物音を立てて護衛を呼び込むことも、レイミアには出来ないはずだ。
カインは固まるレイミアの耳朶から顎へと指を滑らせた。細い頤に手を当てて、その顔を上げさせる。逸らされる事もなく、閉じられることもない瞳には、怒りと蔑みが現れていた。それでもレイミアは逃げる行動を起こさない。
卓に片足を乗り上げて、私と結婚なさいと言い放った娘が、である。
昼に身に付けていた旅装のドレスよりは生地の薄い、浅黄色のドレスの裾と袖が、レイミアの体の震えを映して揺れている。
さてどこまでやれば逃げるのか、或いはどこまでやっても逃げないのか。
確認する必要性よりも、既に好奇心が勝っている。
その怯えに哀れさを感じないわけではなかったが、知りたいという欲求を払拭できるものではなかった。そこに昼からの意趣返しの意図がなかったとは言えない。もし誰かに問われたとて、カインは否定はしなかっただろう。
指先に、湿った呼気の温かみを感じる。特有の滑りは感じないところを見ると、紅を差してはいないのだろう。ただ柔らかい感触の唇だった。
顔を寄せてもレイミアは瞳を閉じない。カインもまた、瞳を閉じなかった。
極至近で絡んだ視線は、程近いその距離に反して互いの何をも映さない。屈辱と恐怖を叩きつけてくる少女の視線と、その少女の覚悟を計ろうとするカインの視線は、どこまでも温かみのある交流を――唇を触れさせようと言う『恋人同士』としての男女の交流とは程遠い。
その距離のまま、呼気を共有する近さのままカインは暫く動かなかった。視線もまた絡んだまま逸らされることはなく、ただ視界の端に酷く力の入ったレイミアの細い肩があった。
こつん。
衝撃もなく音もない。それでもそれは『こつん』としか呼べない接触だった。
程近く、触れるほどの距離の唇は重ならず、変わってカインの額がレイミアのそれにぶつかった。
そしてすっと、カインはレイミアから身を離す。
小刻みに震えていたレイミアの肩へと視線を滑らせると、その先の肘がもう片方の手に押さえつけられ、更に先の拳が硬く握られている。殴り倒そうとする衝動を必死で押さえつけていたものらしい。
カインはさらりとレイミアの顔から手を離し、椅子ごと体をも離す。
そしてカインを凝視したまま固まっているレイミアに苦笑した。
「覚悟の程は分かったが、嫌なら抵抗くらいしたらいいだろう」
「…………」
レイミアは無言のまま、のろのろと額に手をやる。握られていた拳のせいで細い指の先は深い赤に染まっていた。
そのまま再び固まってしまうレイミアに、カインはふっと笑う。
「姫?」
声を掛けながら再び手を伸ばすと、ソファーの端で固まっていたレイミアがびくっと反応した。カインは伸ばしかけた手を引き戻し、顔の横で両の掌を広げて見せた。
「あまり見くびるな。無理を強いるような男と思ったか?」
「い、今ので他に何をどう判断しろって……っ」
わなわなと震えながら、レイミアは必死で声音を押さえている。
真紅の頬といい、焦る様子といい、その姿は物慣れない少女そのものだった。
その物慣れない少女が、
「逃げもせず、抵抗もせずに耐えたか」
「た、試したの!?」
「確認しただけの話だ」
――あなたにどこまでの覚悟があるのかを――
ぎっと睨まれ、カインは今の言葉に含まれていたいくらかの嘘の成分が見抜かれたことを知った。
確認したかったのは事実だが、少々面白くなってしまっていたのは否定できない。意趣返しの意図もだ。
「も、もう少し穏便な方法を取って欲しかったわ!」
「人をいきなり椅子から突き落として抱きついてきた姫の言葉とも思えないが?」
「……っ!」
昼の己の所業である。レイミアは言葉につまり、視線を彷徨わせた後にそれでもカインを睨みつけてくる。
大した根性だし、大した矜持だ。
カインは笑いを納めて居住まいを正した。そして真摯な表情で改めてレイミアを見つめた。
「聞いても構わないか?」
「……何を?」
未だ怒りは収まらないのだろう。それでも質問を許すレイミアは、聡い。カインが切り替えてきたと言うことを読んでいる。カインはそれをまた脳裏にピンで留めつつ、沸いて来た疑問を素直に口にした。
「何故、ここまで出来る?」
抽象的な問だ。だが通じないわけがない。
レイミアはきょとんと目を瞬かせた。
「当たり前のことでしょう?」
そう答えたレイミアは、ソファーから立ち上がった。
そのままカインに背中を見せないよう部屋の中を迂回して、扉からレイミアは消えた。カインはレイミアの体温の残るソファーに手をあて、それの残っていない側に腰掛けて脚を組んだ。出て行った扉はぴたりと閉じてそこにレイミアの姿も面影もない。
こみ上げてきた笑いは、
「全く……」
幼い。
戦から目を逸らすための手段として、御伽噺のような恋物語と風評を選び出す。その思考は幼いとしか言えないが、その為に取ってきた手段は綿密で小賢しい。頭がいいのか馬鹿なのか、どちらとも判断が付かない。
中身はどうやら血の気が多く、矜持も高い。本来の王族としての矜持が、高いのだ。
お付の騎士の言葉を、カインは思い出していた。
『人としてはそうかもしれませんけど、あなたは姫としては修復不可能なくらい歪んでいるんですよ、そこも自覚してください』
何不自由なく育てられただろう『お姫様』としては確かに酷い規格外だ。
よく知りもしない男に触れられても、それが意に沿わずとも、必要と判断したなら『当たり前』と言い切って耐えてしまえる。
「厄介な」
呟いたカインは去りつつある温もりを撫でる。
後戻りは出来ないとレイミアは言った。カインはそれを受け止めてはいたが、後戻りの手段のいくらかを思い描くことも出来ていた。
だが、乗ってみてもいいかもしれないと感じた己の感覚を一先ずは信じてあの規格外の姫に付き合うことへと、カインの天秤は傾きつつあった。
地の文で遊ぶ癖が出始めました。
出来るだけ自重いたします。