ロマンスの設定1
勢いというものは恐ろしい。
真の意味でカインが正気に戻ったのは、総てが――第一段階という意味での、だが――住んだ後、用意された自室のベッドの上に腰掛けたその時だった。
用意された酒肴に手を伸ばし、強くも無い果実酒を飲み干すと、漸く人心地付く。
過ぎてしまえばあっという間の時間だったが、それは驚愕のあまりの錯覚で、既に陽は落ちきり、帳の落ちた後の柔らかな静粛が世界を満たしている。
そう、時は過ぎ去っていた。
怒涛の驚愕の時間が去り、行動の時間への以降は、逃げ去った文官が恐る恐る戻ってきたその瞬間にやってきた。無論その段階でどうするか逡巡したのは確かだったが、それでもカインはレイミアの持ちかけた話に乗った。
思い余って国を飛び出てきた恋人だと告げたカインに、文官は沈痛な面持ちで頷いた。
『そうでしたか』
と、あっさりと納得した。
正直、文官があっさりと納得してしまうとは思ってもみなかったカインは、対応上の面倒がなくなったことを喜ぶ反面、内心自国の文官の質に頭を抱えたくなった。
最もそれは少々酷とも言える。
何しろ文官はレイミアに抱きつかれ泣き縋られているカインを目撃している。その光景を見せ付けられて動転しているところで追い討ちをかけるように『お察し下さい』と、目に涙を溜めた美少年騎士に思わせぶりなことを囁かれた。
揺れたところへトドメを刺されて、その上で冷静になれるか。なって欲しいと言うのは願望だが、カインにそれを文官に求める権利は無かった。
何しろ揺れてトドメで冷静さを失ったのはカインも同じことだ。
それに気付いたのも人心地ついた今になってのことではあったが。
そして結局カインはその状況を――動揺をとも言う――利用した。ふわふわと決断の選択肢を宙に彷徨わせている文官に、『レイミアも疲れている』『詳しい話はまた後日』『この件の他言は避けるように』と矢継ぎ早に命じ、レイミアと騎士を宛がわれていた自室へと下がらせ、食事を運ぶよう申しつけた。同時に自分も用意された部屋へと引き上げた。冷静でない頭の片隅の『まだ』冷静な部分が、混乱から逃げることをカインに命じ続けていたのだ。
そして漸くだ。
カインは今日遭遇した未知を思った。判断する冷静さを欠いたまま、それでも未知の申し出を受け入れたのは――
コンコン、と思考に被さる音がある。
嫌な予感に、カインは思わず息を詰めた。眠っていることにしてこのまま無視を決め込む。と言う選択肢を、カインは即刻却下した。扉の隙間から灯りが見えるだろうし、物音で起きることが出来ないような愚図と思われることも腹立たしい。
カインはグラスを置いてベッドから立ち上がり、扉へと歩み寄った。まるでカインの足音に合わせたようにまたコンコンと扉が鳴る。カインは取っ手に手をかけ、何者かが待つ廊下への扉を押した。案の定、そこに本日出会ったばかりの未知が立っている。その後ろには騎士の黄金色の髪も見えた。
「夜分に、申し訳ありません。でも夢ではないと、確認がしたくて。どうしてもお話がしたくて……」
消え入りそうな風情で、レイミアが俯く。むっと眉根を寄せた騎士は、『いけませんとお留め出来なくなるではありませんか』とぶつくさと呟くと、カインに向き直る。
「姫様をお預けいたします。お二人のお気持ちは私も心得ておりますが、私が、扉の前にいることをお忘れにならぬよう、お願いいたします」
噛み砕いて言うなら恋仲なのは分かっているが婚儀前にうちの姫に不埒な真似をするようなら承知しないということだ。
レイミアの小芝居も含めてどこまで茶番を徹底するつもりかと呆れてやりたい心境を抑えて、カインは重々しく頷き、俯いて頬を染めているレイミアに手を差し出す。レイミアは騎士とカインを交互に見やり、そして逡巡の後にそっとカインの手の上に己のそれを乗せた。
促したのはカインだが、促されたのもまたカインであった。
そうして未知と未知との遭遇者は、揃って扉の内側へと踏み込んだ。
扉が閉じたからといってその手を振り払うのも過剰反応というものだろう。
カインはレイミアの歩幅に合わせて歩き、部屋に設えられているソファーへレイミアを誘った。二人がけの品だが隣に腰掛ける気にはなれず、酒肴を整えてあった小さなテーブルに備えてあった椅子を引き寄せ、己はそこに腰を下ろす。
見ればレイミアは平静を装いながらも、顔色は白く視線が泳いでいる。娘の反応としては妥当だが、娘として妥当をレイミアに当てはめればそれは演技と等号で結ばれるものだ。
いや、とカインは思い直した。もうここには二人しかいない。国境の砦である。貴人を通す部屋に窓などなく、少なくとも視覚でこの部屋を確認することは不可能だ。よって目に見える演技の必要など無い。規格外の『未知』とレイミアを位置付けていたが、何もかも総てと言うわけではどうやらないようだった。若い娘であれば陽も落ちてから男の部屋で二人きりと言う状況は緊張を強いられるものではあるのだろう。しかもレイミアは自らその状況を作り出している。扉の向こうに騎士が控えてはいるが、怯えと緊張を拭うことは出来ないらしい。
「ご苦労なことですな」
皮肉にも聞こえるだろう第一声に、レイミアはきょとんと目を瞬かせた。苦労でもなんでもないと言いたげなその仕草に、カインは苦笑を誘われた。ちくりとする程度の皮肉は、どうやら通用しないらしい。
「苦労ではありません。カイン様は『また後日』とおっしゃったでしょう? 後日に話す内容の仔細を、まだ作っておりません」
ドレスの腿に重ねた手を置き、背筋を伸ばして座るレイミアは楚々とした姫君そのものだが、その様子は卓に乗り上げたレイミアを知っているカインには白々しく映った。
「丁寧な口調は取り繕わなくて結構です。……今更の話だろう」
言葉での儀礼を先に放棄して見せたカインに、レイミアは二三度目を瞬きそしてくすっと笑いを落とした。
「では遠慮なく。そうね、共犯者相手に猫を被っていても始まらないわ」
もう、とレイミアは言葉を継ぐ。
「後戻りなんか出来ないんですもの」
カチリ。
カインは身の内のどこかで、限界まで巻かれたまま留められていたぜんまいが動き出す音を聞いた気がした。
後戻りは、出来ない。
カインはゆったりと脚を組み、くつろいでレイミアを見やる。レイミアは流石に姿勢を崩しはしなかったが、幾分顔色が良くなった。
「それで後日に話す内容の仔細について聞かせて貰いたい」
「大雑把に言うなら出会って恋をして、戦に引き裂かれることを恐れた私が思い余って押しかけてきたとなるけど」
「大雑把に過ぎるだろう。それをどう語れというんだ」
むーっとレイミアが目を眇める。表情の豊かな姫である。
「そうね、大体のところは考えてあるわ。それをなぞれるように暫くは行動していたし」
「暫く?」
聞き捨てならない台詞に反応したカインを置き去りに、えーとねと、レイミアは物語を語りだした。
私はお忍びをよくする。良くと言っても、毎日のようにではないけど。綺麗な焼き菓子や砂糖菓子を売っている店や、レースやリボンで作った小物を扱う店、作り方を教えてくれる店もあるしそういう店では生地やリボンを量り売りしていたりする。ちょっとしたお買い物も楽しいし、人の多さと多彩さも目に楽しい。
母さまにも兄さま達にもきつく言われているから、裏通りや酒場には立ち入らない。立ち入りたいともあまり思わない。欲しいものが無いことがわかるし、楽しいことが無いことも分かる。そのくらいの分別はある。
探すと言うことが私は楽しい。城の中では自分で歩いて欲しいものを探すと言うことがない。御用商人が持ってくるものの中から選んだり、意匠を描いて作って貰ったり。見つけた! っていう喜びを、私はお忍びで知った。
もっと大きな見つける喜びと、見つけてもらう喜びも、お忍びで知った。
その日はお天気のいい日で、その陽気に誘われて護衛に就いてくれるエドに頼み込んで、いつものようにお忍びに出た。天気のいい日は街を歩く人の顔も明るいから、私もついつい浮かれてしまう。
屋台を冷やかしたり、よく顔を出す店に寄ったりすると顔見知りになった人たちが『姫さん』なんて声を掛けてくれる。姉さま達も妹達もあまりお忍びでは出ないから、城下で『姫』と言えば私のことになる。『姫様』だと大仰だし、『姫さん』くらいならそんな呼び名の娘もいたりするからいいだろうって、行きつけの店の女将さんが呼び出したのが始まりだった。そのお店はレースやリボンを量り売りしている店で簡単な手芸も教えてくれる。初めてお忍びに出る時に兄さまの一人から行ってみるといいと教えて貰った店だった。最初から私が姫であることを知っている人だ。
そこでいつものようにリボンを買って、それを髪に編みこむ方法を教えて貰って店を出た。
少しお仲がすいたので何か買い食いでもしようかと屋台が並ぶ通りへと脚を向けようとした、その時だった。
「っ!」
ぴんと、私の髪が引っ張られる。えっと思って後ろを振り返ると、今しがた買ったばかりのリボンを編みこんで貰った髪が誰かの何かに引っかかっているのが見えた。
「い、痛っ!」
「ああ、暴れないで。すまない私のボタンにあなたの髪が絡んでしまった」
側に、男の人の体温が近付いてきたのが分かった。私は髪が引っ張られないように恐る恐る、近寄ってきた体温の持ち主を見上げたの。
そこにいたのが、あなただった。
物語仕立てで語られた内容に、カインははーっと大きな息を吐き出した。
「……陳腐と言うかなんと言うか、だな」
「陳腐結構と言ったでしょう。お忍びの王族に対する市井の意識はこんなところよ」
「陽気に誘われてか。どれだけ周囲が迷惑するのか分かっていない典型的な馬鹿王族だな」
男なら目的はレースやリボンではなく花街となるのだろう。レイミアは自嘲するようにこっくり頷く。
「警備が大変だとか、何もせずに遊び歩く王族に市井がどんな目を向けるのかはこの際は考えなくていいわ。大切なのはお忍びのお姫様が、お忍び先の街中で素敵な男性に出会うと言うことよ」
「ボタンが髪に引っかかってか。そんな隙はないだろうがな」
必ず護衛がついている。髪が触れるほどの距離に若い男はまず近寄れない。だが、
「ええ、でもそんなことはどうでもいいの。繰り返すけど、大切なのは幻想なのよ。素敵だと憧れるような物語が必要なの」
肩を竦めたレイミアは、それからねと、本来なら警備に取り押さえられただろう男と出会った姫の物語の続きを語りだした。