ロマンスの初期構築1
ある日、砦の中、テーブルに片足で乗り上げた現在外交上の問題を抱えている隣国のお姫様に、結婚を強要されました。
戯曲にさえならないこの珍妙な事態に対する正しい対処法は一体何か。
正解を導き出そうとする頭の働きが、もう既に正解ではない。
『大人しく私と結婚なさい!』と何故か押さえた声音でしかしきっぱりと宣言したその姫君は、カインが正解を導こうとしたその一瞬の空白を無駄にはしなかった。
テーブルに乗り上げていた少女の足が、その確りしてはいるが足場としては正しくない足場をかつんと蹴った。それがカインの視覚を掠めた最後のものだった。
「っ!!」
息を呑む暇も有らばこそ。視界を覆ったのはどこか白みがかった緑、そして香る微かな香料と甘い少女の汗。
そこからの時間は酷く間延びしていた。少なくともカインにはそう感じられた。不安定な恐るべき空白時間の果てにカインに訪れたのは、柔らかさと痛みと重みと言う、当人にとっては一切歓迎できない三重奏だった。
ガタンと硬い何かが倒れる音と唱和したのは、
「お会いしたかった……!」
と言う感極まったような少女の叫びであり、次いで響いたのは、
「何事ですか!?」
と言う叫びと文官の靴音だった。
哀れ文官の目撃した場面は、緑のドレスの(自称)王族に上から泣きすがられた自国の王子と、泣き笑いのような顔でうんうんと頷き続ける(自称)王族の連れてきた騎士と言う、実に妄想力を働かせやすいものであった。
カインから痛みと混乱が去った時に同時に去ったものがある。
少女の柔らかな感触の総てだ。
素早くカインの上から退いた少女は軽く己のドレスを叩いてからカインに手を差し伸べた。
「立ち上がれますか?」
反射的にその手を取り掛けたカインだったが、戻ってきた冷静さがそれを拒んだ。立てた膝の上に延びかけた腕をごまかすように添え、上から見下ろしてくる少女をジロリと睨みあげる。
きょとんと目を瞬かせた少女は、カインと目線を合わせるためだろうか、一度立ち上がった体を再度床の上へと下ろしぺっとりと座り込む。
「おかしいわね、受身は取れなかったとは思うけど、椅子は倒れるときに押して転がしたから体には当たらなかった筈だし、後頭部にも手を添えたから、頭も打たなかった筈でしょう?」
背中かお尻以外に強く打った場所があります? と再度尋ねた少女は、そればかりは酷く上流階級の少女らしい白く細い指をカインに伸ばしてくる。カインは仏頂面のまま、その手をぱしんと軽く跳ね除けた。あからさまに驚いた顔をして、手とカインの間で視線をうろうろとさせる少女に、カインは低く唸った。
「わざとらしい芝居はもうよして貰おうか」
「本職の役者ではありませんから、多少のわざとらしさは許して頂けます?」
少女はきょとんとした顔を少し困ったような笑みに戻し、さらりと言ってのける。元々分かりきったことではあったが、何もかも総てが計算なのだろう。問題はそれが、
「何が狙いだ?」
「先ほどこちらの文官の方に目撃された『状況』を周知にすることです」
「なんだと?」
思わず聞き返したカインを責めることなど誰にも出来ない。少しばかり冷静さが戻ったとは言え、状況に即座に対応できるほど『まとも』な事態ではない。
それを知ってか知らずか(確実に知ってだろうが)「まあ」と言いながら、斜め上に視線を投げた少女はピコリと人差し指を立てた。
「正確にはこちらのというより、狼狽して逃げた文官の方、ですけど」
「……あ」
カインは現実から逃げるように殊更ゆっくりと扉へと視線を投げる。開け放たれた扉の先に、いたはずの文官の姿はない。代わってそこにあるのはキラキラしい容姿の美少年騎士の後姿だ。
自分の元から逃げたカインの視線を追ったのだろう、同じく騎士を見たらしい少女は少しばかり硬い声を出した。
「エド、どう?」
「理解はして頂けたと思いますよ」
くるりと振り向きながら、騎士が苦笑する。やれやれと言ったその表情は諦観を漂わせながらもどこか清々しく、一仕事終えましたという満足を伺わせる。
状況を周知に、狼狽して逃げた、理解、そして一仕事終えましたやれやれ……
情報の断片がカインの中で組み合わさる。組み合わさるがしかし、それを結論とするには良識とか常識とか言うものが邪魔をした。
「レイミア姫」
くらくらしだした頭を振りカインは少女の、レイミアと名乗った少女の名を呼んだ。その名は確かにカインの記憶の中に存在する。先ほど頭の中から探り出した隣国の姫達の中にその名はあった。
隣国であるところのリースファールの王家には、18人の姫がいる。国王が艶福家で後宮に百にも届く女を抱えていると言うわけではなく、王妃と5人いる側妃が複数の子宝に恵まれただけだ。王妃の産んだ姫は末の一人だけで、他の姫は総て側妃腹。17人の側妃腹の姫の中に、確かにレイミアという名はあった。
「確か、第12姫、だったか……」
埋没している記憶を必死で掘り起こすカインの後を、当の姫君があっさりと引き継いだ。
「第5妃の1の姫、姫としての位は第17番目、血筋での話ですが」
「血筋以外では?」
「さあ? 私個人の価値が何になるかは、これからにかかっていますからはっきりと言えることはまだ何もありませんわ」
「それが、隣国の王子との結婚と言うことですか」
「必要なのはそれを止むを得ないとさせる過程であって、そのものではありませんけれど」
曖昧に笑ったレイミアは、隠そうともしない呆れた目で見下ろしてくる騎士を見上げた。
「でもやっぱり風評を立てたら結婚しなくては駄目よね?」
「……分かってはいるんです、分かってはいるんですけど姫様言わせてください。ご自分の結婚を過程重視の仕方ない結果として考えるのって、年頃のお姫様としてどうなんですか」
「あら、王族の結婚ですもの」
「なんでもないことのように言ってらっしゃいますけど駄目ですからね。フィリシアさまはちゃんとあなたを普通の御伽噺でお育てになったんですからね?」
「ある程度以上の階級の子供に生まれれば、普通は普通の御伽噺で育つものではなくて? だからって皆がみんな同じ考え方の人間に育つわけではないでしょう?」
「どの段階で歪んだんですか」
「私は歪んでなんていないわ。それはエドが一番良く知っていることでしょう?」
「人としてはそうかもしれませんけど、あなたは姫としては修復不可能なくらい歪んでいるんですよ、そこも自覚してください」
「そこは私、誇ってさえいるわ」
「……知ってます」
騎士がはーっと大きな息を吐き出した。
「なら問題はどこにもないわね」
けろりと言ってのけたレイミアは、またしても置いて行かれつつあるなと自覚していながら会話の流れに介入できないでいたカインにひたと視線を戻す。
大きな青い瞳は逸らされることなく、真っ直ぐにカインに向けられた。僅かに見上げる体制になったのは、床に広がったままのドレスの中でレイミアが膝立ちになったからだろう。ドレスが床を掃除している事実を気に止めた風もなく、レイミアはカインに膝でにじり寄った。
「問題はどこにもないのです。お願いです、私と……」
「結婚して欲しいと?」
「違います」
にっこりとレイミアは微笑む。
「しなければすまなくなるような事態に陥って頂きたいのです」
駄目だ言葉が通じない。
そう思ったカインが思わず天を仰いだとて誰に責めることが出来るだろう。その証拠のように、騎士が向けてくる視線はかわいそうなものを見るそれだった。その騎士が、すっと扉の前から離れレイミアの傍らに立つ。見下ろす無礼を厭うたか、即座に膝を折りレイミアとカインに目線の位置を合わせた騎士は、小さく『姫様』と呼ぶことで、レイミアを制した。そしてカインに向けて頭を下げて見せる。
「申し訳ありません。姫様の説明では埒が明きませんので、ぼ……私が代わって説明させて頂きます」
カインはほっとした。しかし同時に、聞きたくないとも思った。
そしてまたこれも同時に、
「聞かずに済ませることは不可能なのだろうな、最早」
「御明察ね」
「申し訳ありません」
辞書の上では意味の違う二つの言葉は、しかしこの場面では全く同じ意味を示していた。
さて、と騎士が前置く。
ぴりりと一瞬にして張り詰めた空気に、レイミアがまず膝を折りたたむ。カインもまた、膝の上に腕を投げ出していた体勢を改め、膝を折りたたまないまでも居住まいを正した。
そうやって聞く体制を整えた二人を交互に見てから、騎士はカインに視線をとどめた。
「結論から申し上げます。カイン様には姫様と大恋愛の末に結ばれて頂きます」
「……私の記憶が確かなら、私達は初対面だったと思うが」
「何も本当に大恋愛をしろというわけではありません。そうであると示すことが出来ればそれでよいのです」
「目的は?」
カインは目を細める。騎士とレイミアは顔を見合わせた。
逡巡の後に口を開いたのはレイミアのほうだった。
「世論を、戦から逸らすためです」
間を空けてですが続きです。
完結させようという意思はあります、多分。