ロマンスの出会い方
さて、扉の向こうの未知との遭遇は、カインにとっては拍子抜けする程にあっさりとしたものだった。その遭遇が未知とのものであると言う認識は、この時点でカインにはない。それは後になってやって来るのだが、それについては一先ず置こう。
その扉は確りとした意匠の入れられた手のかかったものだった。砦でありながらその手の込み様はその砦が単なる飾り物であった歴史を示している。
無駄が許される時間がどれだけ続くのかと、金属製の取っ手にさえ物思いを刺激され、カインは軽く被りを振った。背中に文官の視線を感じ、カインは振り返ってなんでもないと言うように頷いた。そして再び扉に向き直り、一旦総ての思考を打ち払って扉を開けることに集中した。
押し開いた扉の向こう側は、やや薄暗い廊下とは対照的に光彩に満ちていた。砦の中に設えられた部屋には明り取りの小さな窓以外に外からの光の入り込む隙はない。本来なら廊下と代わらぬ、或いはそれ以上に薄暗い筈の空間は、贅沢に灯された多くの明かりによってその不自由を完全に解消されている。
灯り以外の調度類は多くは無く、壁に沿うように置かれた飾り棚と壁に掛けられた飾り織りのみが無駄な装飾だった。
そして室内の無駄ではない調度の中に、カインが扉を開いた目的が鎮座していた。
まずカインの目を引いたのはその『目的』ではなく、『目的』が腰掛けている椅子の後ろに控えて立つ黄金色の髪の少年だった。室内を不足なく照らす灯りが引き起こす錯覚が、その髪を本物の黄金か冠のように魅せる。その下に鎮座した小作りな顔は、作り物と見紛う程に整っていた。それは灯りの魅せた錯覚ではなく。濃い碧の瞳は髪と同じ黄金の睫毛に縁取られ、やや丸みを帯びた頬は白桃の面影を見せる。つんと上向いた唇は頬と同じく――否、頬より尚濃い鮮やかな桃色をしている。背に翼でも負わせるのがお似合いの、身使いが地に降り立ったと信じてしまうほどの可憐な美貌だった。しかし残念なことにその可憐な存在はそれに相応しい華やかな色のドレスや薄絹の羽衣を身に纏ってはいなかった。カラーできっちりと襟元まで締められた上着の色は黒。襟元から続く縁取りは金、袖と襟は鮮やかな赤。下肢のズボンは染み一つない白。その用途の官服としては華やかなその上着は、しかしその上に着込まれた飾り気のない甲冑によって多くを隠されている。カインがそれをそれとして見て取ることが出来たのは単純に知っていたからだった。
何かと問うならばそれは軍服。隣国の近衛、特に王族の前にあっても騎乗を認められている騎士の纏う軍服である。
美しさに驚く暇など、その軍服の前には即座に掻き消える。王族を示す意匠の腕輪に加えて、また一つ状況は固まった。
そしてカインはその騎士の守る、椅子に鎮座した『姫』を見た。それが『あっさり』とした誤解の現況だった。
先に視界に飛び込んできた美貌と比すれば、そこに慎ましやかに座っているドレスの中身は凡庸というしか無かった。
カインの入室を察して上げられ、真っ直ぐに向けられた顔は、よくよく見ればそう酷いものではなかった。年の頃は15、6だろうか、寧ろ可愛らしい、美少女と呼んでも差支えがない程には整った顔立ちの少女である。青く大きな瞳が最も印象に残る。だが栗色の髪も、青い瞳も、背後に立つ美貌の存在故に凡庸なものと見えてしまうのだ。
旅装らしく、身に纏うドレスは娘らしい華やかな色身ではなく濃い緑だった。やや白みがかって見えるのは旅の過程での傷みと埃だろう。
『姫』と言う呼称から連想される姿としては、そして従えている騎士の姿からすれば、地味な印象でしかない。
その緑のドレスはカインの入室を見るや滑らかな動きで立ち上がった。ドレスの裾を摘み軽く膝を曲げて会釈する。先に取られた礼に、カインは慌てて――とは言えそうと悟らせるような下手な芝居は打たなかったが――己の胸に手を当て、ドレスへと頭を下げた。
ドレスはすっと顔をあげ、真っ直ぐにカインを見詰める。
「不躾な申し出を受けて頂き、ありがとうございます」
王族の方とお見受けしますが?
促すような問いかけに、カインはゆっくりと頷いた。そして背後を振り返り、己に続いて入室してきた文官の手から絹地に包まれた腕輪を受け取った。
「あなたも王族を名乗られているようですが」
「お疑いになられますか?」
少女の口からは消え入りそうな声のみが出た。自身が怪しまれる存在であるということは理解しているらしい。
「いや」
カインは短く答えて、目の前の少女を観察した。礼を取った後はやや俯き加減で、顎の下で緩く拳を握り締めている。所在なさげな、不安そうな様子である。
なるほど確かに『頭がおかしいようには到底思えません』だ。怪しまれる申し出をしている事を理解していることは間違いない。
ならば素直に話を聞くべきだろう。そう判断し、カインは少女に座るよう促した。従騎士の美少年がすかさず動いて椅子を引く。二つの誘いに逆らうことなく、そっと椅子に腰を下ろした。カインもまた少女の向かいの椅子を引き、石造りのテーブルを挟んで少女と相対した。
「それで」
何を求めての王族を呼べなのかと問いただそうとしたカインの言葉を遮り、少女の高い声が室内に通る。
「お人払いを願います」
カインは思わず背後を振り返り、無表情ながらも憮然とした様子の文官を仰いだ。そして殊更にゆっくりと少女に向き直り、その背後へと視線を投げる。
「ご自身も従騎士を連れておいでのようだが、彼も下がらせると?」
「いいえ。私は未婚の娘ですので」
言外に見ず知らずの男と二人にはなれぬと告げ視線をさ迷わせる少女に、カインは眉を潜めた。
無論それは酌むべきところだが、少女は従騎士を連れていながら相手にだけ人払いを願うのは公平とは言いがたい。
それをカインが告げる寸前に、少女はさ迷う視線を戻す。そしてそれまでよりも幾分強い声で言った。
「このものは私が特に信頼して国より伴った者、腹心と呼べるものです」
「なるほど」
言外の言葉をうまく使う少女だ。あなたの後ろに控えるその方はあなたの腹心と呼べますかと問われたならば、それは否と答えるしかない。砦常駐の文官は有能ではあり、その能力に信頼も置けるが、腹心ではない。それが分かるのだろう、カインの背後で文官が苦笑する気配がする。
「それでは私は席を外しましょう」
苦笑交じりの声にカインが振り返ると、文官は声の通りの表情の中からカインに目配せをしてよこす。その視線が次に向かう先は少女が腹心と呼んだ少年の腰だった。そこには騎士なら装備していて然るべきものの姿がない。武装解除は済んでいるということだろう。
わかったと短く帰し、カインは少女に向き直った。背後で扉が閉まる音がする。
パタンと言うその音の余韻が完全に消え去ってから、少女はすっと立ち上がった。改めて緑のドレスを摘んで会釈する。
「再びの無礼をお許しくださいませ。改めまして、私は隣国リースファールの王家12番目の娘、レイミア=セシル=リースファールと申します」
名乗った少女、レイミアは己の背後に立つ騎士を示す。
「この者は私の従騎士を勤めておりますエドワード=フォルドラレスです」
レイミア、レイミア、エドワード告げられた名を脳内の人名辞典で捲りながら、カインはレイミアに礼を取った。
「申し送れました、私はカイン=ラズ=デュポア。この国では6番目の皇子にあたります」
従騎士の美貌に比すれば霞む容貌の中にあってもそればかりは印象的な濃い青の瞳がきょとんと丸くなった。ぱちりぱちりと瞬きを繰り返しながら、たどたどしい声でレイミアはカインの名を呼ぶ。
「かいん……カイン、さま?」
恐らくそれは同時であった。
双方が双方の脳に仕舞われた人名辞典の中から、互いの名前を拾い出すのは。
そして動いたのは、レイミアが僅かに早かった。
「こんなことって、あるのかしらエド」
「僕は正直あって欲しくないとは思っていましたけど。勝算は十分以上にあるって言ってらしたのはれ……姫様でしょう?」
「そうやって自信でも見せなければ、なんとしても私を説得しようとしたでしょう?」
「しませんよ。そんな無駄なこと」
カインはぽんぽんと続く会話に目を見張った。騎士――エドワードの顔にはそれまでにはなかった人間らしい感情が浮かんでいる。どこか疲れたような、色々諦めた感情から来るだろう表情ではあったが。それとは裏腹に、レイミアの頬は紅潮し喜びと――同時に緊張が見て取れる。
カインが人名辞典から拾い上げた情報を口にするより早く、レイミアはつかつかとカインに歩み寄り、至近よりその顔を見上げる。
「カイン、カイン=ラズ=デュポア様。皇位からは遠く権力志向も薄い第6皇子。これほど私の望みどおりの方がおいで下さるとは!」
興奮気味に捲くし立てたレイミアは次の瞬間きっと眼差しを強くした。思わずカインが後じさると、即座にその距離を詰める。
そしてレイミアは、カインが拾い上げた情報では間違いなく実在する姫君であるレイミアは、その肩書きとは信じられぬ行為に出た。
精緻な彫り物を施され、座部に艶やかな布の張られた椅子に、やおら立ち上がったのである。
「……っ!」
息を呑んだカインの視界の端には、色々なものを諦めた様子でため息を吐く御使いもかくやと言う美少年の姿が映った。そしてそれ以上に大きく写ったのは、緑のドレスを鷲づかみ、振り上げた脚で石造りのテーブルに乗り上げる少女の姿。
パアンという小気味いい音は、婦人ものの華奢な靴の踵が、石造りのテーブルに叩き付けられて奏でられたものであると、カインが気付いたのは少し後になってのことだ。
さて、扉の向こうの未知との遭遇は、カインにとっては拍子抜けする程にあっさりとしたものだった。その遭遇が未知とのものであると言う認識は、その時点でカインにはなかった。それはここに至ってやって来た。
「カイン=ラズ=デュポア様。大人しく私と結婚なさい!」
テーブルに片足で乗り上げた隣国の姫君が、きっぱりとそう宣言した。