【番外】寵姫の出来るまで3
少なくともそれはウィルフレッドの記憶にある種類の表情ではなかった。
身分といい容姿といい、ウィルフレッドは女性に好感を向けられる条件に不自由しない。白馬の王子様というのは幻想上の生物と思われがちだが、実のところ容姿に不自由しない王族は珍しくないのだ。後宮に侍る女は目的上容姿が優れているものだ。それはどこの王家だろうと変わらない。そして子は親に似るものだ。王家が代を重ねていればいるほど、親に似ていれば普通に美形の出来上がりである。父親譲りの端正な顔立ちのウィルフレッドも例外ではない。
美形の年若い国王。白馬の王子様であった頃より女性からは賞賛の視線か媚びるような視線しか向けられたことがない。例外は正妃となった少女や父王の側妃達だが、彼女達の場合は立場に対する不安や怯え、欲望がそうさせたものでウィルフレッドそのものへの評価とは異なる。全くどうでもいい話だが、『白馬の』なんたらと言うのは表現上の問題であって、ウィルフレッドの愛馬が白い毛並みというわけではない。
さて、話を戻すと、その明るい髪の少女はウィルフレッドが何者であるかを知っているようだった。ウィルフレッドと確認した上で息を飲み、そして――
「…………」
無言で頭を下げるまでのその一瞬のみ。一瞬とも言えるその短い時間に隠しきれず顔に浮かんだものは。敵愾心と言おうか、悪意と言おうか。『殺』な顔だった。思わずウィルフレッドが二度見した時には、その明るいオレンジの髪が翻るばかりで、一瞬のその顔は隠されてしまっていたが。
「国王陛下にはご機嫌麗しく。私はこの度王太后様にお使えすることとなりました、フィリシアと申します」
頭をゆっくりと上げながら少女はお決まりの口上を述べる。ウィルフレッドにはその所々に心の声が混じっているように聞こえた。
『国王陛下にはご機嫌麗しく(私は麗しくないですが)。私はこの度王太后様にお使えすることとなりました、フィリシアと申します(以後お見知りおかなくても結構です)』
気のせいだろうが、内容はまず間違いなく正鵠を射ている。
こちらが厭うのは当然だが、何故この娘からこんな感情を向けられねばならないのか。
衝撃から立ち直るより早く、少女は顔を上げ引きつり気味の愛想笑いを浮かべた。それ以上ウィルフレッドに――国王である一応――用はないとばかりに王太后に向き直った少女は、王太后に向けては心から微笑みながら『他に御用はございますか?』と尋ねる。
「そなたにないのならないですよ」
「それでは失礼いたします」
少女は優雅に一礼すると、最早ウィルフレッドには一瞥も与えることなく、部屋を辞した。
脱兎の如くに。
なんであれがいるなんであれがいるなんであれがいる。
思考の中の言葉はもう少し上品なものだが、音もなくすり足で廊下を歩く(走る)フィリシアの脳裏にはそんな内容が延々と繰り返されている。
王太后に侍女として召された時に覚悟はしていたが、まさかお膳立てをされるとは思わなかった。
どうにかこうにか微笑みに見えるだろう表情を作り、恨みがましさを隠して(いるつもりで)主たる王太后を見つめたが、そこには実に楽しそうな笑顔が有るばかりで真意を汲み取ることも抗議の意思を伝える事もできなかった。出来たのは逃走のみである。それを阻むほど、フィリシアの主はフィリシアに対して厳しくない。
すり足で小器用に走ったフィリシアは無意識に侍女の詰め所へ逃げ込んだ。詰め所と言っても極普通の部屋である。普通は主のお召しがあるまでそこに控えているのだが、多くはない王太后の侍女達はそれぞれがそれぞれ忙しく働いており、詰め所に人の姿はない。
フィリシアは人気のなさにほっと息を吐き出し、冷たく感じる額に指を当てる。湿り気を帯びた肌はすり足移動の運動量よりも、フィリシアの精神的な緊迫を表している。遭遇したくもなかった『あれ』との遭遇が、フィリシアを当人が思っている以上に追いつめていた。
会いたくなどなかった。顔を見て平静でいられる自信などなかったし、感情の制御に失敗して口や体が動いてしまえば良くて不敬罪、下手を打てば反逆罪である。好き好んで罪人になるような自虐的な性質の持ち合わせはフィリシアにはない。
「……良かった……」
口も手も足も出なくて本当に良かった。
魂の底からの安堵が、フィリシアの唇から言葉となって転がりでる。
「なにが?」
「ひっ」
独り言に返された返事に、フィリシアは喉を鳴らした。きょろきょろと不審者もかくやという風情で部屋を見回すと、フィリシアが入ってきた扉から見て右斜め前の扉に、フィリシアと同じお仕着せを着た少女の姿がある。その顔は王太后の侍女に多い中年以上の婦人のものではなかった。フィリシアと同じくようやく成人を迎えたばかりの年頃の少女のもので、彼女のみが王太后に仕える同僚の中でフィリシアと同年代だ。その若々しい顔に安堵し、同時にフィリシアは背中に冷や汗が浮かぶ感触に身震いした。
小言を言われる心配はない相手だが、別の心配ごとが発生する。若い娘というのは総じて噂話が大好物で、誰かの胸の内を詮索することも好きだ。秘密のにおいを嗅ぎ付ければ、心配するそぶりでその秘密を知ろうと動き出す。そこに存在する好意と悪意と好奇心の割合は人それぞれだが、この少女――マリアという――の場合は自覚しているのは好意ばかりで、内心に多分に含まれる好奇心を自覚していない。即ち、始末に終えない。
その上、リースファールの貴族という貴族に響きわたった神の前で夫への愛ではなく王太后への忠誠を誓っちゃいました事件は、若い娘ならずとも自然と聞き耳を立てたくなっても仕方がなく、フィリシアはその当本人だ。好奇心過多のマリアにそれを押さえろと言うのは無理な相談である。
フィリシアは無駄と知りつつ同様を押し隠し、何でもないわと作り笑いを浮かべる。そしてフィリシアの把握していた通りに、作り笑いも言葉も無駄だった。
すすすっとフィリシアに近寄ったマリアは、フィリシアに拒む暇も与えることなくわしっとフィリシアの手を握りしめた。小柄な彼女はフィリシアを見上げ真摯な瞳で言い募った。
「フィリシア、遠慮なんかしないで。王太后様にお仕えしている者同士じゃないの。何でも話してちょうだい!」
「いえ、本当になにも……」
「そんな酷い顔色してなにを言うの」
ひくっとフィリシアの頬はひきつった。酷い顔色をしているかどうかの確認は出来ないが、一歩間違えば犯罪者という状況に対してまだまだ鍛える余地が大いにあるフィリシアの顔面が感情を映していないとは考え難い。今正しくその「しまった」な思いも顔に出てしまっている。
「フィリシア……」
名を呼ばれることで促され、フィリシアは覚悟を――勿論決めることなく、曖昧に微笑んだ。
「少し会いたくない方の顔を見てしまっただけよ」
「まあ……」
マリアの眉が痛ましげに顰められる。
恐らくマリアの脳裏には会いたくない人物として、フィリシアが大恥をかかせた侯爵やその子息、或いは侯爵が一方的に婚約破棄を申し渡した男爵家の子息であるフィリシアの元婚約者が浮かんでいるのだろう。そう仕向けておいて何なのだが、王太后の住む王妃宮その面々がそう易々と出入りできると思うのかと、マリアの認識の軽さに頭痛がする。
「心配しないで、大丈夫だから」
小さく息を吐き出し。境界線を引く。好奇心過多のマリアでも、己が十全で善意で申し出ていると信じている以上、『触れないで欲しいの』と示せば引くしかない。そこに傷があると少なくともマリアは信じている。物足りなくても、傷を暴いてでも話を聞きたくとも。十全の善意はそれを認めない。マリアはわかったわと頷き、それでも今一度フィリシアの手を握り直す。
「だけどフィリシア、私でよければいつだって相談に乗るわ。力になれるかはわからないけど、誰かに話して楽になることもあるでしょう?」
「そうね、ありがとう」
マリアの手から己の手を抜き取り、フィリシアは儚く微笑んだ。
素晴らしい十全の善意に、正直うんざりした。
少しの悪意もない十全の善意で好奇心を満たし、そして十全の善意を行使する己にも酔える何という素晴らしさ。
その十全の善意にすがる愚かさの持ち合わせはフィリシアには最早ありはしなかった。
さて、実のところのフィリシアが会いたくなかった相手、国王ウィルフレッドは、己に負の感情を叩きつけて去った少女のことが頭から離れずにいた。無論のこと、少女と同じく負の感情によってである。
「何なのです、あの娘は」
「何と言われても、私の新しい侍女ですよ。作法は申し分ありません。ここで仕事をさせながら色々と学ばせるつもりです」
「そのような……」
そんなことは聞いていないと言いかけて、ウィルフレッドは言葉を切った。何事か聞き捨てならない事柄が母親の唇から落ちた、気がする。
「……学ばせる?」
「ええ、そう申し上げましたよ」
「母上があの娘を躾なおして下さると?」
「そなたが何をして躾と言うかにもよりますが。躾の段階の作法は流石にフィルモア伯のご息女だけのことはあって、完璧ですよ」
「作法のことを言っているわけではありません」
「そうですね、作法を躾直さねばならぬのはどちらかと言えば我が息子の方でしょうし」
宣告までの不作法見本市を知られていたのだとわかり、ウィルフレッドは思わず唇を一文字に引き結んだ。言葉を出せばそれはそのまま言い訳にしかならない。それをみっともないと思う程度にはウィルフレッドも大人である。
だって仕方がないじゃないか、ちょっとものすごくいらいらすることがあったんだから。
でもそれにはわけがあって、だから。
『でも』と『だって』を多用するような人間にウィルフレッドは育ってはいなかったし、王太后もまたそんな躾はしていない。
そういえばあの娘は、と、ふと思う。
確かに躾のやり直しは作法という意味では必要ないのだろう。
娘はひらめかせた負の感情を納め、ひきつってはいても笑みを浮かべ、音も立てず優雅に逃げ去った。
息をするように、当たり前に。
貴族の娘は同じように作法の教育を受けるが、全ての娘達が型通りの完璧な作法を身に付けているとは限らない。基本的な作法は身についていても、それを完璧なものに磨き上げるにはそれなりの努力が必要だし、時間もかかる。
あの娘はそれに至っている。表情から完全に感情の動きを隠すことは出来ないようだが、感情の動きに身のこなしが影響されない。
娘をそこまできちんとした淑女に育て上げたフィルモア伯爵夫妻が、極当たり前の貴族の娘としての義務を理解させていなかったということがあるだろうか?
疑問が顔に出たのだろう。王太后がどうしましたかと問いかけてくる。
ウィルフレッドはいつの間にか引きつりが収まっていた顔を王太后に向けた。
「母上」
「なんでしょう?」
「あれは、先ほどの娘は……どのような娘です?」
「貴族の娘ですよ。良い躾をされた、頭のいい、貴族の娘です」
今のところは。と、王太后は小声で付け加える。その言葉にウィルフレッドが疑問を返すその前に、王太后は言葉を継いだ。
「或いは違うものになることができるかもしれない娘です」
ウィルフレッド。と王太后は息子の名を呼ぶ。
「疑問を持たぬものはそれでいいのです。己の世界に疑問を持たぬということは、苦痛をも受け入れるということです。ですがそなたは違いますね。そなたは私を知り、そこから妃殿下を思い、そなたに当然のものとして用意されようとしたものを拒絶した。小さいながらもそなたは世界を壊したのです」
或いはそれは、
「そなたとあの娘と、何が違うのです?」
その問いかけに、ウィルフレッドは答えることが出来なかった。
否、否定したくとも、その権利を持たなかった。