【番外】寵姫の出来るまで2
とある(不幸な)花嫁が王太后に膝を折った。
この(痛快な或いは横紙破りな)事件は瞬く間にリースファール国内を席巻する事となった。
花嫁が幸福であると信じているものは一握りさえもいない華やかな結婚式には、慣例として王族が参列していた。これはリースファールの王族の主たる公務の一つである。男爵以上の貴族の弔事、慶事には必ず王族が立ち会う。王族といっても国王、正妃は含まず、また側妃腹の王族も除外される。国王と正妃を父母に持つ王族の公務である。例外は正妃に男児のない場合の暫定的な王太子のみだ。また迎え入れる貴族にも制限があり、弔問は当主に限り、慶事は当主及び次期当主のものに限る。身代を譲り隠居した者でも例外ではなく、弔問に王族が訪れることはない。
その(不幸な)花嫁にとって幸運だったのは、その結婚式がその例外には当てはまらない結婚式だったことだった。
その花嫁を迎えることのできる幸運な花婿は、それによって伯爵の身分とそれに付随する伯爵領を手にする。つまりその結婚式は歴とした男爵以上の貴族当主の結婚式だった。
神に愛を誓う祭壇の上で、花婿への愛も忠誠も誓うことのなかった純白の花嫁は、戸惑う周囲に一切構うことなく祭壇を降り、花嫁に花を譲るべく抑えた色味のドレスに身を包んだ王太后の前へ進み出るとその場で膝をついた。明らかに異常な行為だったが、止めに入ろうとする周囲の者たちを王太后が視線で押し止めたため、花嫁は己の行為を完遂することができた。
己の持つ伯爵の地位と領地の返上し、それを証として王太后への命ある限りの忠誠を誓う。
誓いの祭壇の前で、愛ではなく、忠誠を、純白の花嫁は淀みなく誓う。
そして純白の花嫁の誓いは違う誓のために設えられた祭壇の前で、王太后の立会の下に、王太后本人に受け入れられた。
極当たり前の常識として。
音を立てる、という事は無作法に当たる。踵を鳴らして歩いたり音を立てて物を咀嚼したり、舌を鳴らしたりという敢えて立てる音は公式の場では避難される。そもそもは戦場での習いがそのまま作法となったと言われている。
であるからにして、その男が行った行ってきた一連の動きは型破り無作法の見本市のようだった。
まず踵を荒々しく鳴らして城内を歩く。引かれた椅子にどっかと勢いよく尻を落とし、供された茶をやたらとかき回し、冷ましてから音を立てて啜った。その間中、その足はコツコツと小刻みの拍子を奏で続け、テーブルに置かれた手の人差し指が石造りの顔が映るほどに磨かれたその表面を足とは違った拍子で叩いている。
無作法の見本市だが、見本市であることよりも明確に伝わってくるのはこの人物――未だ年若い青年だ――の苛立ちだった。外に対して明からさまに示すほどに、それを無作法と知りながら示さねばいられぬ程に、青年は苛立っていた。その気配は勿論周囲にも視覚のみならず伝わるところがあって、茶を供した侍女はさっさとその前を辞去して、青年の視界からは消えていた。
華美ではないが上品に整えられた部屋は居間と呼ぶには贅沢に過ぎたが、そこに住まう人間にとってはそこは居間で間違いがなかった。そこは正妃の宮にある王太后の居室の一部である。正妃は生涯同じ宮に住み続ける。それは正妃が元正妃となってからも変わらない。
正妃の宮の王太后の居間で苛立ちを顕にできるもの。この青年の身分は想像に難くない。
リースファールの若き国王、ウィルフレッドである。夭逝した父王より王位を継承して6年、現在26歳になる。
その若き国王は現在苛立ちの絶頂にあった。それを通り越して激怒していると言っても過言ではなかったが、そのぶつけ先がない。国王だからといって何に当たり散らしてもいいというわけではない――むしろ国王だからこそない――のだが、現在の怒りは決して当たることのできない相手に向かっているので苛立ちばかりが募る。現在も、その相手がウィルフレッドを待たせているのだ。
地位は王太后、人としては母であるその人。そしてその人が、敢えて己を待たせているのだということもウィルフレッドは理解していた。
母たる王太后が何を言いたいのか、それもまた理解している。
理解できるようになった、というのが事実に対しては正確かもしれない。無作法の見本市を展開し、苛立ちを発露させているうちに、王太后の目的は果たされた。
要するに頭を冷やせと言いたいのだろう、母は。
懸命な息子はその意図を理解できるまで頭が冷えたところで、大きく息を吐いた。
頭が冷えて見れば、それは容易に察知することができる。精緻な彫りを施された木製の扉の向こうに人の気配がある。立ち止まったまま踏み込んでこず、立ち去りもしない。
もう一つ息を吐きだしたウィルフレッドは扉に向かって声を張った。
「――母上」
その語尾が消え去らぬ先に、扉が開かれる。開かれたその先に柔らかな笑顔を浮かべた中年女性の姿があった。
その笑みに冷えた頭に再び血が昇る。
「母に向ける顔ではありませんね、陛下」
「……息子への呼びかけでもないでしょう」
表情を読み取られ、ウィルフレッドは不貞腐れて顔を背ける。それでも緩やかに立ち上がり、王太后のために椅子を引いてみせたのは、苛立ちも作法無視の見本市も、母たるその存在に勝るものではないという証左である。息子に小さく礼を述べ、王太后は腰を下ろした。王太后は柔らかな笑みを湛えたまま侍女に人払いを命じ、音もなく幾人かが扉の外へと出て行く。その背と、閉じられる扉を見届けてから、王太后は口を開いた。
「何が言いたいのかは分かっておりますよ」
「では私が何を聞きたいのかもお分かりでしょう。何故です」
拗ねた子供そのものの目を向けている。その自覚はあったが、ウィルフレッドはこの母の前で王で居続けることは出来なかった。慕う気持ちに上乗せされた憐憫が、ウィルフレッドを母親が大好きな少年に戻してしまう。
先代の王、ウィルフレッドの父は賢帝と呼んで差し支えない手腕を発揮した人物だったが、同時に困った癖も持っていた。好色がそれで、溺れることはなかったが多くの側妃を後宮に収めていた。ウィルフレッドには3人の兄があったが、その兄たちは後宮で生まれた。その内の2人は既に亡く、残る1人は神職を選び俗世を離れた。それは全て彼らが10になるやならずの頃に起きた出来事である。それほど宮廷闘争は熾烈を極めた。彼らの後に生まれ、最も危険な立場だったウィルフレッドを守り通したのは母であり、その母に力を貸したのは素直に認めるには未だ業腹だが父だった。三日月の外からの『輸入花嫁』である母には国内に基盤はなく王宮内での力もなかった。父は母に力を貸す形で、己の世継ぎを守り抜いた。それは有り難いが母に対するほどに素直に感謝が出来ないのは、そもそもの原因を作ったのが父の好色だからだろう。
己を守りきった母を慕い、後宮闘争で己をすり減らした母を憐れむ。どうにも母親には弱い息子の出来上がりである。
「母上は政治の向きには関わらないと思っておりましたが」
恨み言に近い視線を受けても、王太后はおっとり笑んでいる。くじけそうになる心に鎖をかけて、ウィルフレッドは言葉を継いだ。慕わしい母でも、今回は苦情を聞いて貰わなければならない。
「何故、フィルモア伯爵令嬢のわがままを受け入れられたのです」
「私に忠誠を誓いたいという願いがわがままですか?」
「そうではありません」
そうねと、王太后は微笑む。それは『わかっていた』証左に他ならなかった。
フィルモア伯爵領は、娘の身柄と同時に侯爵家に預けられたのである。授けたと言っても構わない。二心なしと判断できる侯爵家への、先渡しの報酬のようなものだ。フィルモア伯爵夫妻の事故死による偶発的なものではあったが、その偶発事を国にとって優位に利用したのである。
だがそれは台無しとなった。令嬢は領地と爵位を返上しただの娘となった。その娘を妻に迎えたとて、なんの意味もない。
令嬢が動転したとしてその場を収め、改めて後日誓いだけの結婚をさせ当初の予定通りに事をすすめる可能性は、領地の献上先である王太后が令嬢を連れ帰ったことで潰えた。
要するにこの母は、国としての采配を台無しにしてくれたのである。
侯爵家は完全にへそを曲げている。結婚式を台無しにされ、恥をかかされたというだけの話ではない。国の示唆によってフィルモア伯爵領を手にすることとなった侯爵家に対する貴族の嫉妬が、令嬢の行為に対する賞賛として囁かれている。既にあった婚約話を解消させていたことも、噂話に花を添えた。
意に添わぬ結婚を押し付けられた令嬢が、機転を効かせてその結婚から逃げた。
賞賛することで小娘一人御し得なかったのかと侯爵家を馬鹿にするのだ。
「母上……」
恨みがましい声も出ようというものである。王太后はふと笑みを収めた。
「そうですね。私は確かに侯爵には悪いことをしたのでしょう」
「国や、私に対してではないとおっしゃいますか」
「さあ?」
思わず口を噤んだウィルフレッドに、王太后はまた微笑む。心の中の何もかもを隠す微笑みは、嘗て己を守りきった頃と変わらず、そこにある何かをどうしてもウィルフレッドに勘ぐらせてしまう。辛いとも、悲しいとも、腹立たしいとも、王太后は正妃であった昔から顔にも口にも出してはくれないのだ。
「これは結果論になりますが、噂は真実でしょう。貴族として生まれ貴族として育った娘に、結婚を厭わせるなどとは」
「それは……」
小娘一人御し得ない。それは事実だ。雌伏した伯爵令嬢はまんまと結婚から逃げ果せたが、これは貴族の常識としては有り得ない。故人となったフィルモア伯は良識的な人物で、一人娘の教育を怠るような事はまず有り得ない。どれだけ拙い話の運び方をして、結果令嬢に横紙破りを決意させたのか。それを考えれば侯爵の能力には疑問が有り過ぎる。
黙り込んだ息子を、母親の視線が包み込む。その暖かさは変わらず、ウィルフレッドはまた絆されそうになる。『結果として』判明した事実が、その誘いに更に魅惑の粉を振り掛けていた。
であるから、王太后が口の中で、
『まああの娘を御し得ないのも無理はないかもしれませんが』
と呟いたことにも気付けなかった。
こほんと小さく咳払いをして、王太后が息子の注意を引き付ける。ウィルフレッドは母の喚起に素直に従った。
「そなたは国王として十分な働きをしています。後宮の扱い、正妃の扱いについても同様です。よくぞやり果せたと、そう思います」
「……母上」
ウィルフレッドには3人の王子がある。3人とも正妃から生まれた男児だ。その男児たちが生まれるまで、どれほど貴族に売り込まれようとも後宮に1人の娘も入れることがなかった。それはこの母の苦労を知るからであり、己の3人の兄が面談することも叶わない状態になってしまったという現実を知るからである。愛らしい妹のような正妃を守るためでもあった。今現在は貴族たちの求めに応じる形で4人の側妃が後宮に入ったが、どの娘の元も一度訪ったきりでそれ以降は通っていない。正妃の元も夜に訪れることはめっきりと減った。元々妹のように愛している正妃である。女として欲しいと言う感情はあまりないのだ。
正妃に男児があり、即妃とは子を為さない。これで後宮の争いは封じたと言っていい。
それを賞賛するということは、やはり王太后にとっては正妃であった日々は辛いものだったのだろう。
「私も、妃殿下も、して貰うことしかないのです。身分の高い女というものは、して貰う事で生きています。そう、漠然としか感じていませんでしたが、言葉となったのはあの子が祭壇から降りてきて私に膝を折ったあの時なのでしょうね」
「ですがそれは……」
それは義務だ。姫として生まれ、貴族の令嬢として生まれれば当然の義務である。
わかっていると言うように、王太后は頷いた。
「ですが或いはと、思ってしまったのです」
「何をでしょう?」
問いかけに、王太后は答えない。
沈黙が部屋を満たし、焦れたウィルフレッドが母親に話の続きを促そうと逡巡した、その時だった。誰何の声と共に、控えめに扉がノックされる。
来ましたか、と、王太后が短く呟く。驚いた様子がないところを見るに、ある程度の時間を置いて部屋に来るようにとあらかじめ言いおいていたのだろう。視線で問いかけると、王太后は少しお待ちなさいと扉に向けて声をかけた。ノックは止まり、部屋に再び一拍のみの沈黙が落ちた。
「そなたも見ることが出来るかもしれません」
「母上?」
「――お入りなさい」
問いかける視線を無視した王太后が、扉に向けて声をかける。小さな音を立てて扉が開き、そこから覗いたのは王太后の侍女に与えられるお仕着せだった。意志の強さを伺わせる濃い青い瞳と、オレンジに近い明るい髪。整ってはいるが幼さを未だ濃く残すその顔は、ウィルフレッドの記憶にある母の侍女の中には含まれない。
嫌な予感がした。確信と言ってもいい。
ははうえ、とかすれた声で呼びかけると、王太后はにっこりと笑った。微笑みではなく、破顔である。
「紹介しておきましょう。私が預かることになった『元』フィルモア伯爵令嬢。フィリシアです」
意外に可憐な姿をした頭痛の為が、そこに立っていた。