【番外】寵姫の出来るまで1
番外編です。本編には影響を及ぼしませんが、本編キャラの掘り下げが目的です。
後宮と言うものの持つ意味合いは、その時々によって大きく違う。
その主たる男に子が、特に男児がない場合はそこは次代へと血を繋ぐために非常に重要な場となる。そこに住まわされる女達の存在もまた重要なものになる。
だが、だがである。
少しばかり接着剤の香りの残る部屋にあって、彼女はふうと息を吐きだした。
淡いクリーム色の壁紙から香るそれは、そこがつい先ごろ設えられた事を示している。時々によって持ち主の変転の激しい後宮の部屋は持ち主に合わせての改装が可能なように、石造りの上からの加工が可能なように作られている。内装からを完全にやり直すほどの手間――つまりその手を雇い入れるための金は、国庫からは出されない。部屋に住まう娘を送り込んだものがその娘のために己の懐を緩めることは珍しいことではないが。
彼女はその接着剤の香りに安堵する。
無駄は抑えられていると、彼女は考える。正妃のような待遇を求める程、彼女は彼女の常識として愚かではなかった。
「で、いつまでお前は拒否を続けるつもりだ」
伸びてきた腕が、彼女の腰を攫った。そのまま背中に硬い体が押し付けられ、腰の手は彼女の下腹を抑える。押しつぶすような力は入らず、手は慈しむように、彼女のそこを柔らかく押す。愛おしむべきものが彼女だけではない証明のように。
彼女は振り返らなかった。そして言及もしない。
今己と同じ状態にある女が同じ城の中に三人程いるという事に。
その理由さえもを知ってしまっているからだ。とても言えた立場ではない。
ただ肩ごしに覗き込んでくる端正な顔に、冷ややかな視線を投げた。
「多分……」
生涯だわという言葉は飲み込んで、彼女は口に出しては、誰にもわかりませんと言った。
後宮の価値が時々によって違うように、人の価値観というものもその時々、そしてなにより個人によって違う。だがそれは置かれた環境によっては誤差の範囲で収まる程度のものである。
王族には王族の、貴族には貴族の、平民には平民の価値観が存在する。
だからまあ貴族、しかもフィルモア伯爵家の一人娘であるところのフィリシアとしては、誰かの妻となることに否やはなかった。
伯爵家の一人娘として生まれ、次代に領地を引き継ぐ者が他にいない以上、フィリシアは領地を滞りなく動かしていける能力があり身分の釣り合う誰かを婿に迎えねばならない。
そんなことは当たり前の話だ。そこにフィリシアの愛も恋も関係がない。
芝居の筋立てや少女向けの物語では貴族の令嬢やお姫さまは、愛の無い結婚を厭い自由に恋をして駆け落ち騒ぎを起こしたり、身分違いの恋に枕を濡らしたりするものだが、生憎と現実にはそんな甘ったれが許されるほど貴族も王族も甘くはない。
フィリシアも結婚に対して甘い夢は見たことがない。フィリシアが聞き分けのいい娘だというわけではなく、単純にそれが常識的な価値観なのだ。
だが、しかし。
「流石にちょっと」
という独白は口の中でのみの事だったので、誰かの耳に届くことはなかった。
与えられた一室は館の奥まった場所にあり、居心地のいい体裁は整えられている。
だが窓はなく、扉の前には侍女が張り付いている。望めば外へは出られるが、その都度お伺いを立てなければならない。閉じ込める意志よりも人目に触れさせない意図が伺える措置だ。
守られている、とも言える。だがそれを肯定的に捉えることが出来るほど、フィリシアは思考を手放してはいなかった。
前述の通りフィリシアは伯爵家の一人娘である。正確には、一人娘『だった』のだ。先代当主とその夫人が――つまりフィリシアの両親が夭逝したために、現在フィリシアはフィルモア伯爵令嬢という名の、フィルモア家の主である。とはいえフィリシアは結婚も成人も前の15の娘に過ぎず、領地の運営は不可能と見なされて、現在はフィルモア家と縁続きに当たる侯爵家に領地は借り預かりの状態である。一年を喪に服し喪が開けると同時に花婿を迎え、その花婿がフィルモア伯爵を継承する。
その状況で手を拱いている『縁続きの侯爵家』などというものはいないわけではないが極めて少ない。フィルモア伯爵家の所領は王都にも近く、広大とは言えぬまでも良い実りのある土地として知られる。穀物のみならず果物やその加工でも名高く、特に果実酒の味はリースファール全土で名高い。要するになかなか豪華なお宝である。食いつかぬ道理があろうか。(いやない)総領であるところのフィリシアにはその時点――彼女が不幸にも両親を亡くした時点で、だ――婚約者が存在した。懇意にしていた男爵家の次男坊で、能力と人柄はフィルモア伯のお墨付きの青年である。穏やかなその青年とはフィリシアも面識があり、そこに悪印象はなかった。
この婚約は破棄された。フィリシア個人が塞ぎ込み、両親亡き後男爵家の後見しかない青年では心許ないと零したからだ。
その理由が本当にフィリシア発信のものかを確かめる術はない。増してそれをフィルモア伯爵寮を預かっている侯爵家が言い渡したならば、男爵家の子息に疑問を口に出すことは出来なくなる。
そして次の流れとして登場するのが、その侯爵家の頼りがいのあるご子息である。新たに婚約者となったその青年は、フィリシアとの結婚によってフィルモア伯爵となる。
預けられた期間は一年にも満たず、その後は若い夫婦の後見役となる。侯爵家にはまるで旨みのない話だ。だが、その若い夫婦の片割れが侯爵家のものであれば領地と爵位の双方を手に入れることができる。そもそも、王家の采配はそれを許容するものでもある。領地を安定して管理するためには、名ばかりの貢献よりも血縁者であってくれた方が確実だ。そしてなにより預けられた侯爵家は貴族であり侯爵の身分もあるが、リースファールにいくつか存在する『大貴族』ではない。勢力の拡大を危惧するほどの存在ではないのである。
おかしなことではない。ありがちな話ではあるし、陰謀と呼べるほどのものでもない。
ないがしかし。
「許せるかというと話は別だわ」
やはり低い呟きは誰の耳にも届かない。
フィリシアは下唇を噛み締め、ぐっと拳を握り締めた。
悲しみは未だに通り過ぎてはくれない。悲しむ時間も貰えない。
結婚は義務だ。夫となる男がフィルモア伯爵を名乗ることに否やを唱えるつもりもない。
だがその相手が、父母の死を『利益』と捉える人間であることは許せない。愛する父母の死を痛みもしない誰かが父の爵位を継承することなど認めない。
葬儀が終わりふと我に帰った時にフィリシアを襲った衝撃は父母の死を伝えられたその時と同等のものだった。
壊された道の上に、新たな道が作られて、未来への道筋が変わっている。その変転にフィリシアは一切関わることは出来ず、道の先で人生が交差することになった新たな相手が涙を拭おうと手を伸ばしてくる。
その涙の意味も知らず、同じ涙に濡れることもない、誰かが。
フィリシアは目の前が真っ暗になるほどの悲しみと、真っ赤になるほどの怒りを、ほぼ同時に知ったのだった。
中編予定、長くて五話分くらいです。