ロマンスの導くもの
時間を少し戻して。カインが戻るちょっと前です。
窓のない部屋に時間はない。正確には時を映すなにものも存在しない。
時を作る鳥の声も、朝の細く白い光も、午後を示す濃い影も、赤い夕刻も、夜さえもない。そこには何時であろうと変わらぬ暗さと、それを拭う灯の光があるだけだ。王族や要人の使う寝室にはありがちな作りである。その中にいる人間に接触する為には常に誰かが控えている前部屋を抜けなければならない。
守るためなのか逃がさないためなのか。
それは部屋に詰め込まれる人間の意識によって変わってくるのだろう。
無論、詰め込む側もなのだろうが。
時の読めない部屋の中央に据えられた寝台の上で身を起こしたレイミアは、暫く天蓋を見上げてじっとしていたがふっつりと緊張の糸が切れるように体の力を抜くと、もぞもぞと寝台から這い出した。広い寝台は寝心地はいいのだが、起き出すときには少々間抜けな恰好になる。
まさか目隠しの天蓋はもぞもぞと膝でベッドから這い出す間抜けな恰好を隠すためなんじゃないのかと思わなくもない。その一事だけというわけでもないが、大きくは間違っていないのだろう。
安全と私事私生活は天秤の両端に乗っている。王族の天秤は常に安全に大きく傾く。傾いた天秤の上で生まれ育ったレイミアには、もう片方の天秤の皿に対する憧れはあっても不自由や居心地の悪さを感じる感性はない。
上履きに足を通し、寝台の脇に用意されていたガウンを羽織ると続き間に控える侍女に起床を知らせるために、ちりんとベルを鳴らした。
現状、レイミアの日常は穏やかそのものだった。日常と呼べるほどの時をこのディディの城で過したわけではないが、特にすることがあるわけでもなく、日がな一日を読書や書き物、侍女やエドワードとの他愛のない会話で消費している。
――ようにも見える。
実際にはただぼんやりと本を読んでいるわけではないし、他愛のない会話にも細心の注意を払っている。
そこから拾い出した情報を元に、ただ考えること。それが今レイミアが己に課している仕事だった。
レイミアは宛がわれた私室の今のチェアに腰掛け、いつものようにゆったりと本を開いていた。ディディの城には、立派な書庫が整えられている。城守のオリビエに願ってそこからいくらか貸し出して貰った本は、当たり障りのない小説の類だ。本来なら地図や歴史書の類を持ち出したいところだが、気の抜けない現状では下手に集中してしまっても困る上に警戒でもされたらたまらないので控えている。
レイミアは膝の上の本のページを不自然ではない程度に捲りながら、それこそ『現状』に思いを馳せた。
わざわざ通いを条件に雇い入れた4人の侍女達が囀る内容や、エドワードに聞き込もうとする内容、そして水を向けた時に好奇心も露にレイミアに向けられる言葉。そこから噂の浸透具合を導き出す。直接に街に下りて噂話に耳を欹てたいところだが、レイミアは勿論エドワードにもそれは厳しい。だが、若い娘の通いの侍女と言う情報源は、噂話と言う点においては直接と同じほどの信憑性がある。知りたいのは噂話の浸透であって、真実ではないからだ。
どこのかはわからないが妙齢の姫君が城に入ったという噂が広まりつつある。その姫君が第6皇子の恋人であるらしいと言う噂は、まだまだだろうが囁かれ出してはいるようだ。もう少し時間がたてば、娘達の囀りに乗ってそちらの噂も広がるだろう。ディディと言う街が歓楽街――それは人の中継点をも意味する――である以上、じわじわと外へ、噂は流れていく。
実に自然だ。作為的でありながら、自然なのはレイミアが噂を流すという段階で無理をしていないからだ。噂の発信源になっている城の下働きのもの達や、侍女達は強制されて噂を流しているわけではない。レイミアやエドワード、カインが見せる場面から想像力を働かせ推理し、そして人に話すに足る『事実』に行き着く。見つけた『事実』を、達成感も含めた興奮と喜びを持って、自発的に、人に話すのだ。
ここまでは、である。
レイミアの望む風評を立てるためには、ここから先は『無理』をしないわけにはいかない。
まあ一人では無理だけど。
心中でポツリと呟いたレイミアは、ひらりともう一枚ページを捲った。
そりゃそうでしょうけどね。
と肩を竦めるのは少しばかり人間離れした美貌の従騎士だった。その美貌のおかげで、侍女達の間では『天使様』などという呼び名を賜っているらしい。侍女のキャミーがうっかりと漏らしたその呼び名に、レイミアはその場で笑い転げなかった自分を後から全力で誉めた。勿論二人きりになってから、腹筋が攣るまで声も出ないほど笑い転げたが。
そして今も、この私室にはレイミアとエドワードの他には誰もいない。その上での小声での会話に、そろそろレイミアもエドワードも慣れつつあった。
レイミアは腰掛けたソファーの上からエドワードを見上げる。エドワードは見下ろすことに抵抗を覚えるのか、視線を明後日の方向に彷徨わせている。
「ここから先ってつまり、レイミア様がカイン様を思うあまり自国を出奔して来たって件でしょう? 今のように言動にちょっとだけ、言葉は悪いですけど餌をちらつかせて勝手に想像させるって言うわけには行かないですよ」
「そうよね。ここから先は……少し侍女と馴染んで私が打ち明け話……は直接的過ぎて危険よね」
言葉の途中からエドワードの表情が苦いものに変わる。それを読んで、レイミアは慌てて後半を付け足した。するとけろりと元の微笑に戻るのだから腹立たしい。どうも掌の上に乗せられているような気がして幾度か文句も言ってみたのだが、その都度地を掘ってどこか違う世界にでもたどり着きそうなほどの重く深いため息を落とされた。何が言いたいのか実によく分かるため息である。あまりにも重く深く、それ以上の追求をやめて思わず謝った程だった。
「そろそろ不安そうな顔を時々するくらいの芝居はするわ。後は、カイン様が戻られてからになるわね」
カインはレイミアをこの城に預けてから直ぐに皇宮へと向かった。そろそろ戻るのだろうが、如何せん主演俳優がいないのではなにをどうにもしようがない。
それに、
「一足飛びに話を進めるのは不自然だわ」
言いながら、レイミアは下唇に指を当てた。
これは誰かが辿った思考だろうか。
ゆっくりと推移した国境での事態は、実に自然だったが、大本のところが不自然だった。
風に揺れる花が国境を分ける。その花の種は双方の国境の砦の兵士達が季節ごとに撒く。そんな国境がこうまでも不穏化する。それが既に不自然だ。人は平和に飽くものではあるが、それとこれとは話が違う。少なくとも戦の気配などと言うものは自然発生するものではない。
そしてレイミアの知る限り、リースファール王家に隣国への色気はなかった。父も、兄達にもだ。決して無能ではない彼らが噂の出所を探っても、手繰る糸の先には何もありはしなかった。その現況となった追いはぎや盗賊団も、捕まえて尋問したところでそこに政治的意図など見つからない。
だから自然だ。だが、自然ではない。万に一つ自然であるなら、レイミアが今取っている行動が沈静化の薬にもなるだろう。それならそれでいい。だがそれは希望的観測に過ぎない。
自然だが、決して自然ではない。
意図するところも、その大掛かりさも、比べ物にもならないが、だが。
自然さを計り、不自然さを警戒し、噂を紡ぐ。
これは誰かが辿った思考だ。
ふと気付くと、顔の上に影が差していた。元々近かったエドワードが更に近寄って来ているのだという事に気付いたが、レイミアは慌てず騒がず、『何?』と問うた。
「なにもないでしょう。話の途中で黙り込んでどこに思考飛ばしてたんですか」
「考え込んでるのはわかってたんでしょう?」
「僕だから分かるだけの話です。他の人の前で、特に男性の前ではその癖は厳禁ですからね」
「心配しなくても、ここにいる間はエド以外の誰かといる時に考え事が出来るほど気なんか抜けないわ」
「いやここ限定とかそういう話じゃないんですけど……」
すっとレイミアから離れて距離を取ったエドワードは『もういいです』と苦笑する。エドワードとの会話では良くある光景だった。よくある光景故にレイミアはそれについては深く追求することをせず、ねえと切り出す。
「どうすると思う?」
「……レイミア様。前にも言ったと思いますけど直前まで考えていたことを僕が知ってる前提で質問してくるのやめません?」
「私が考え事してるのを、ただぼんやり眺めていたわけではないでしょう?」
エドワードは掌を上に挙げ、降参と肩を竦める。と言うことはレイミアの思考を追っていたのだろう。
「希望的観測と、最悪の予想と、どっちをお求めです?」
「最悪の方」
ふっと息を吐き出したエドワードは、その天使の容貌を引き締めた。性別不詳の容姿が、俄かに男に変わる。
「誰にとってかって言うのはありますけど」
エドワードはきっぱりと言い放った。
あなたの処分です。
と。
さて、そこで怯えるのならそもそもレイミアはこれほど大胆な行動は取らない。でしょうねと軽く返し、つっと己の唇を撫でる。
「今のうち、なのよね」
噂が次の段階へ、レイミアが敵国の姫で恋ゆえに国境を乗り越えてきたと言う話に至る前に。
レイミアが何をしようとしているのか、その内実まで見通すことは不可能だろう。だが、レイミアの存在自体がその『誰か』には予定の外にある事態だ。
たかが噂を効果的に使ったものなら、同じくたかが噂を効果的に使おうとしてるレイミアを見逃さない。噂の内容が己の計画に何某かの影響を与えるようになる前に、レイミアを排除することが望ましい。
そして恐らくはその動きこそが、
「最初の無理、最初の不自然になるはずなのよ」
完全に半眼になったエドワードに、『あっさり言う内容じゃないでしょう』と小言を食らったのは、実に自然な流れの方だった。