ロマンスの助走
ディディの名称城、実質館は、王族の持ち物としては手狭なものだった。王族にしてはの話であって、一家族が年に数日滞在するだけの物としては手狭どころの話ではないが。
従ってそこを管理する人間も片手の指では足りない。持ち主が皇家である館らしく、執事を筆頭に身元の確りした人間が勤めている。だが、そこに若い娘の姿はない。館の管理には必要がないからだ。皇家が滞在する期間は無論若い侍女の姿も見られるが、それは皇家が伴って来るもの達である。
長くこのディディの城で執事兼城守を務めるオリビエは顎に蓄えた美髯を撫でつつ、常と変わらず整えられた庭を眺めた。
季節のひと時のみの本領。しかしその季節以外、いつ何時主人と主人に連なるものの訪れがあってもその時と変わらぬ持て成しを提供する。それが彼の、否、この城にあるもの総ての矜持であった。
そしてそれを主人と主人に連なるものも知っていた。
だからこそ、この城は選ばれた。立地条件も勿論あったが、連なるものであるところのカインがそれを知っていたからこその選択だった。
オリビエはそれを誇りに思いながらも、庭の先でカインに手を貸されて馬車から降りてくる一人の女性を眺めていた。恭しく腰を折ると、カインが鷹揚に頷き、そしてその女性が会釈を帰した。控え目な柔らかい笑顔が印象的な、可愛らしい少女である。青い大きな瞳が印象的であった。
カインからの、若い娘を一人この城に迎えて欲しいと言う先触れが来たのは、今年の皇王の滞在が中止になったことの知らせと前後してのことだった。何時如何なる時でも迎えることは出来るが、それでも数日間のために新たに食材を選び、調度を普段以上に磨き上げていたこともまた事実であったから、カインの申し出はオリビエにとっては喜ばしいものだった。それでも若い娘と言う知らせ以外はその娘の素性も何も知らされなかったことはオリビエ達の不安を煽った。増してその知らせを持ってきたのは見たこともないような美少年。加えてその美少年が口にした希望や、悪気なくだろうが口を滑らせた内容もまた、不安に思うなと言うのは不可能な話だった。
不安以上に煽ったものもある。
それを好奇心と言う。
オリビエは弁えて己の中のそれを押さえることも出来たが、城の総てのものが感情の抑制が出来るわけではない。
だからこそ、オリビエはほっとした。一見したのみで何がわかると言うわけでもなかったが、身なりも物腰もこの城に客人として迎え入れるに値しない人物とは思えなかった。
あの美少年が口を滑らせた内容を思えばそれもその筈か。
カインに手を引かれて近付いてきた女性に、オリビエは改めて礼を取った。
「ようこそディディの城へ、お嬢様。カイン様もお久しゅうございます」
ああと頷くカインに続いて、少女が軽く膝を折った。
「ありがとうございます。レイミアと申します、宜しくお願いしますね」
オリビエは顔を上げてレイミアを見直す。間近にしても、第一印象は変わらない。優雅な物腰の可愛らしい少女である。
オリビエはどこか不安そうに見える少女を安心させるように、子供に何かを噛み砕く時のように目を細め軽く首を傾けて見せた。
「どうぞお楽になさって、御自宅と思ってお寛ぎ下さい」
少女は二三度目を瞬くと、そうっとカインを見上げる。不安さが残るその仕草に、カインが笑顔で大きく頷いた。
カインが、だ。オリビエの記憶する限りでは身内以外の女性ににこりともした事のなかったカインが――
オリビエは驚きを少しも表に表すことはなかったから、少女はオリビエの驚きになど少しも気付かなかった。カインに頷かれ、少しばかり肩の力を抜いた。
その仕草にはカインへの信頼が現れている。
ああそうかと、オリビエは自分の中にすとんと何かが落ちてくるのを感じていた。先触れの美少年の様子から、そして若い娘と言う符号から、導かれた答えがまさかカインがと言う先入観によって打ち消されていた。その先入観が綺麗に消えたのだ。
オリビエの顔が自然に宥める年長者そのもののそれとなり、その視線を向けられてカインは小さく咳払いを落とした。
ああやはりと、オリビエは確信した。少女の素性については未だ確かなことは不明ではあったが。
「大きくなられて……」
求められるままに部屋へと少女を案内した後、オリビエはそう呟いた。そしてその大きくなった主に連なるものには不本意かもしれないが、少女の名誉の為にカインの部屋を少女の部屋から最も離れた場所に用意してよかったと、少しばかりの意地悪も含めてそう思った。
『まだ』彼女は嫁いで来てはいないのだから。
少女に――言うまでもなくレイミアだ――に用意された部屋は、光彩の明るい居心地のいい部屋だった。少なくとも砦のそれとは比べ物にならない。
年配の女官が茶を用意して引き下がったのを確認してから、カインは大きく息をついて部屋に備え付けられたソファーに背中を預けた。差し向かいに座ったレイミアは、その姿ににこにこと笑った。
「お疲れ様」
「全くお疲れだ」
否定しないカインに、レイミアは悪びれることがない。あらと小首を傾げてみせる。レイミアはよくこうしたきょとんとした顔をするが、それが計算なのか天然なのかは未だにカインには分からない。分かるほどの付き合いがない『恋人』である。
「お疲れなのはエドの方でしょ? 城守の方、すっかり私とあなたをそういう事だと理解してた見たいじゃない」
理解させたのはエドでしょと、先触れとして出し今も街に下りているらしい騎士の功績をレイミアは口にする。カインは不機嫌に口を歪め、即座に言い返した。流石にこの期に及んで誤解だろうとは言わなかったが。
「あなたはあの目で見られても同じことが言えるのか?」
「あの目?」
「……如何にも『理解しておりますよ』と言う目だ」
言いながらカインは頭上に何か重いものが圧し掛かってくるのを感じていた。
この城はほぼ毎年訪れていた場所である。カインが生まれる前から城守を続けているオリビエにとっては、殆ど孫のような視線を投げられている。あの、『女性を伴って来られるほどに大人になられて……』と目頭を拭って見せそうな視線は居心地が悪い。
レイミアはよよよっと更に首を傾けた。明後日の方向に飛んだ視線で何某かを考え込んでいることが見て取れる。ややあってから、レイミアはああと呟いて、ぽんと掌を打ち合わせた。
「あれね、昔は口の端に食べこぼしをつけてたり転んで泣いてたりおねしょして泣いてたりした男の子が、こんなに立派になって女の子まで連れてくるようになったなんてって言う、感慨深いって感動的って言うか、どこか生ぬるい感じの上から目線……」
「そこまで懇切丁寧に説明する必要がどこにある!」
全く持って図星である。
まだ続きそうな説明を遮ってから、カインは更に重くなった何かに沈み込みそうになる頭を懸命に上げた。
この姫がなんとなく分かってきたと言ったように、カインにもなんとなく分かってきていた。発想力が規格外なこの姫君は、発想力のみならず色んな部分が規格外で、加えて結構な『イイ性格』なのだ。
ジロリとレイミアを睨んだカインは、疑わしげに問いかける。
「見てきたように言うが、あなたにも覚えのある感覚なのか?」
似たようなことで生暖かい目で見られたことがあるのかという問だったが、レイミアはカインの予想(期待)に反してけろりとした顔で首を振った。
「見たことはあるけど見られたことはないわね」
「見た?」
「前に言ったでしょう? 孤児院への訪問も仕事にあったの。赤ちゃんの頃から院にいた子が、商家に引き取られてからもよく院に顔を出していたのよ。調度私が訪ねたときに女の子を連れてきてたことがあって」
ふふ、とレイミアが笑う。面白くてたまらないと言う笑顔はそのときのことを思い出しているのだろう。その少年はよっぽど『楽しい』反応を帰したに違いない。
勝手に仲間認識したその少年に心中で強く生きろと激を飛ばし、カインは不機嫌な顔で茶を含んだ。それに倣うように、レイミアもカップに手を伸ばす。僅かな沈黙の後に、さてとレイミアは居住まいを正した。
「私は暫くここに滞在すればいいのね」
「そうだ。いきなり皇宮には連れて行けないし、行かれてもあなたも困るのだろう?」
「そうね、何れは必要があるとは思うけど、なんの下準備も整わない状態では無理だわ。皇宮に行き成り入ってしまえば、私は確実に軟禁状態に置かれるでしょう?」
カインは頷くことで返事に変えた。
カインは第6皇子で、行動の自由はある程度あっても権限はない。そのカインが隣国の姫を連れ帰っても、身柄の安全は保障できない。増してレイミアは単純にカインを慕って国境を越えてきたわけではないのだ。
「噂を広げながら、人の噂を集めるのに、ここは悪い土地ではない。元々が皇家の影響の強い土地柄だし、『城』がこの館だからな、親しみもその分強い。皇家の訪問の時期にあわせて祭りが行われるほどの街だからな」
「その上歓楽街の側面もあって、人の出入りも多い……確かに打ってつけだわ」
「あなたは表向き、私によってここに……適当な言葉が思いつかないが、匿われたというか」
「囲われた?」
「どこで覚えてきた、そんな言葉を」
濁した言葉をさらりと言ってのけたレイミアに、眩暈を覚えたカインは額に手を当てた。
恋人を縁の館に住まわせると言うのは、確かに囲ったとも言えるのだろう。
身も蓋もない言葉をさらりと言ってのけたレイミアは、からからと事も無げに笑った。
「言葉上のことでしょう。それに私はあなたの恋人になりに来たのよ、全面的に間違っているわけでもないわ」
『私の恋人にではなく、条件に当てはまるものの恋人になりにだろう』
言いかけた言葉を、カインは飲み込んだ。
その言葉の重み。そしてそれに対するこの姫の覚悟は既に確認済みだ。揶揄すべきではない。いくらやられっぱなしで業腹だろうと、そこを揶揄して溜飲を下げるべきではない。
「私があなたを日陰者に落とす男に見えるのか?」
「さあ? それはこれから次第でしょう?」
カインは苦笑してレイミアの額を弾いた。触れてきた事に驚いたか、レイミアは身を竦ませる。少しばかり先日の『確認』の薬が効きすぎているらしい。それにほんの少し、カインは溜飲を下げた。
「そこは信じていると言っておけ」
「えーと……」
視線を彷徨わせ、少しばかり逡巡したレイミアは、すっと息を呑んだ。何某か覚悟を決めたような大仰な仕草の後、レイミアはすっとソファーから身を乗り出して、カインに身を寄せた。
レイミアは上目遣いになるように身をかがめ、下から縋るようにカインを見上げる。
「信じております。私はこの国で、あなたしか頼れる方も信じれる方もいないのですもの」
真摯な声と言葉に、カインは耐え切れずにぷっと吹き出した。即座にカインから離れたレイミアが、ぷっと頬を膨らませる。
「なんで信じているって言ってみたのにその反応なの?」
「なんでと問うのか」
カインは笑いながら立ち上がった。
「笑う以外の反応をして欲しかったら、まず助走をつけるのはやめたほうがいいな」
それからと言いながら、カインはレイミアの頬に手を滑らせ、顔を寄せた。がきんと音でもしそうな勢いでレイミアの体が強張る。それに構わず身を寄せたカインはレイミアの耳元で囁いた。
「笑う以外の反応と言うのがどんなものなのか、分かっていて言っているか?」
「っ!」
固まったまま、レイミアが息を呑む。
本気で取られたのなら。相手が『恋人』ならば。
今レイミアが体を強張らせている距離と接触は、まだまだ前哨戦でしかない。どんなと言うならば、こんな、そしてその先だ。
赤と青を繰り返すレイミアの反応を少しばかり楽しんだカインは、ぽんとレイミアの頭に手を置いてから身を離した。
「姫は口は立つようだが、からかう相手が何者なのかを考えないきらいがあるだろう。直された方が、身のためかもしれん」
悔しげに唇を噛み締め、ぎっと睨んでくるレイミアの頭を、カインはぽんぽんとあやす。
この反応は面白すぎて癖になるかもしれない。いや、なりつつあるのだろう。
この小賢しい小娘は、発想の根底にあるものと同じく、幼い。
どれだけ規格外でも、どれだけ小賢しかろうとも。未だ幼さを濃く残す少女である事実が動かない。
「私は堅物で評判だったんだがな」
「評判が間違ってるの? それともあなたが間違ってるの?」
頭上のカインの手を、忌々しげに払い除けてレイミアが問う。それにカインは先ほどのレイミアと同じ反応を帰した。
「さあ?」
と。
上機嫌でカインが去っていく。
扉が完全に閉じてから、レイミアは呟いた。
「……なんかこう……初手から結構な失敗をした気がするのは気のせいかしら」