序
緑の濃い季節だった。日を追う毎に濃さを増す艶やかな葉が、朝方掠めるように恵まれた雨によって、いよいよその緑を輝かせている。目覚めを終え、成長の時を迎えた世界を称えるかのように、緑の枝葉に見え隠れする鳥が高い囀りを響かせる。様々な色の羽が見え隠れする枝葉の下でも、生命は力強く息衝いていた。踏みつけられることに慣れた名もない草花が精一杯に葉を広げ、小さく花を付けている。香り高い香草も、野草の中で爽やかな香気を周囲に振りまく。
見事なばかりの、初夏の光景だった。
息衝く景観の中に、ぽつりと石造りの建物があった。堅牢なばかりが取柄のような外壁は、季節柄か苔生し、蔦が思う様這っている。堅牢――つまり無骨な外観を裏切らず、細やかな手入れは入れられているようには見えない。だが、ひっそりと佇むその建物は、決して周囲から浮き立ってはない。それなりの年数を、どっしりとその場で構えているようだった。
浮き立つような外界の美しさに捉われることなく、その建物の中へと馬の一団が吸い込まれた。どの馬もうっすらと汗ばんでいたが、この陽気に本気で駆けさせられたのならばその程度の汗では済まなかっただろう。
火急の用件ではないが、悠長にもしていられない。そんな微妙さを現す、馬の様子である。先頭の馬を駆っていたのは、皮の鎧姿の男だった。その他の者も同様の鎧を身に着けている。その中にあって一人、鎧姿ではないものがいた。黒髪の、二十歳前後と思しき青年だった。三つの鎧姿の中央で馬の手綱を握っている。乗馬にはやや不向きだろう、暗灰色の詰襟の衣装と、白いマントを身に着けている。胸に飾り紐がある他は取り立てて飾り気のない衣装は、官服であるようだった。
だがその立ち位置も顔立ちも、ただの官吏のものとは到底思われない。
明らかに三騎の騎馬はその青年を守っている。こののどかな風景の中で、ただの官吏に三騎もの護衛を付ける道理がない。そこまでのことをさせる重鎮にしては、青年はあまりにも若々しかった。濃紫の瞳は涼しく切れ上がり、やや尖り気味の顎と相俟って、硬質の怜悧な印象を観るものに与えるだろう。印象としては有能な官吏のものに等しいが、それにしたところで若すぎる、硬質の美貌だった。
四騎が門を潜ると、すかさず門が閉じられる。前方にもう一つ門があり、そちらは静まり返っていた。門と門を挟んだ中庭は踏み固められ、雑草の一本もない。円形の庭の両端に、石造りの建物が建っている。門の外から見た時と印象は変わらない。無骨な作りだった。
一方の建物から、慌てた様子で何人かの人間が駆け出してくる。騎馬の一行はそれを確認して馬を降り、官服の青年だけが手綱を騎士に預けて進み出た。駆け寄り、膝を付こうとした建物の住人たちを身振りで押し留めた青年は、無駄のない動きで建物へと向けて一歩目を踏み出した。
出迎えの者たちは一瞬あっけに取られたように青年を見送ったが、即座に我に返り、さっさと歩き出している青年の背を追った。
「ご足労をお掛けいたしまして……申し訳なく……」
「堅苦しい挨拶も謝罪も不要だ。それよりも仔細を話してくれ」
始まろうとする意味のない長口上の気配を読んだらしく、青年がぴしゃりとそれを封じる。仲間たちと困ったように目を見交わし、一瞬の間の後、最初に口上を述べようとした男が口火を切った。
「鷹に持たせた書面以上のことは、こちらとしてもさっぱり分からないのです」
「分からない?」
眉を顰めた青年に、男はわたわたと手を振った。
「分かりません。兎に角、誰か王族を呼べの一点張りなのです」
建物の入り口付近で足を止め、青年は男を振り返った。不機嫌よりも不振が選り濃く現れた表情に、男もまた肩を竦めて見せる。
「頭がおかしいのか?」
「要求は確かに意味不明で奇矯ではありますが、頭がおかしいようには到底思えません」
「間諜である可能性は?」
「どこの世界に、わざわざ王族と言う身分を詐称する間諜がおりましょう。いえ、居るのかもしれませんが、今回は有り得ません。少なくとも、詐称して何になるのか、その理由が……どれほど考えても見当たらぬのですから」
ふむ、と青年は顎を手で包む。
「つまり……」
考え込む様子を見せた青年に、男は言い辛そうに逡巡する。青年はその言葉を引き取って続けた。
「つまり、会ってみなければ分からないということか」
はいと頷き、男は深く頭を垂れた。
「申し訳ありません。カイン様」
「王族を御所望なのだろう。ならば仕方あるまい。尤も、私程度の王族で当の姫君が満足して下さるかは、与り知らんが」
青年――カイン=ラズ=デュポアは皮肉げに笑んだ。神聖デュポア皇国、第六皇子である、その青年は。
うららかな季節とは裏腹に、殺伐とした空気が、二つの国を包んでいた。
その二国は、他国から山と海によって遮断されている。北にリースファール王国、南に神聖デュポア皇国。海に競り出した三日月形の土地は、南北で二つの国に分かれている。大陸へと続く三日月の背面は、殆ど人の手の入っていない山岳地帯だ。ガルス山脈と呼ばれるその山岳地帯は、所により変化は多少あるものの基本的には険しい岩山が連なっている。この二国へ入国するためには、このガルス山脈を越えるか、或いは迫り出した三日月に船で接岸するしかない。他国人が、その足で容易くその地を踏むことは非常に困難だった。海路による多少の交流があるため完全なる孤立とは言い難いが、この二国は基本的に三日月の中でのみ循環している。三日月内部が二国という形に落ち着いてより百年、小さな諍いはあったものの、本格的な戦乱は歴史から遠のいていた。陸に設けられた国境は、近年は特に静かで、時に国境を冒すものが現れることはあっても、政治的な意図は認められず、なあなあで解放されるのが常だった。
だが、である。その平穏は急速に――百年の歴史を考えれば急速に、その時を生きる人間の視点で考えるならばゆるりと、破られつつあった。きっかけは些細な国境侵犯の問題であったと言う。常ならば問題にもされなかった筈のそれが小さなささくれとなり、そしてゆっくりと、そこから平穏と言う布は裂けていく。そうして、その平穏と言う布は今や数本の繊維を残すのみと言う有様と成り果てていた。
国境を監視する兵は増強を余儀なくされ、これ見よがしに新たな物見の塔が建てられる。国境を示していた花々は、その物々しい空気に押されるかのように心細げに風に揺られている。漂う剣呑な空気の中で、自生した花の美しさは余りにちぐはぐで、それがよりいっそう事態の進行の不気味な速さと深刻さを示していた。
それらの事情を、わざわざ考えるまでもなく思い起こしてしまったカインは、軽く頭を振って思考を頭から追い出した。全くと意味もなく呟きそうになる口元に意思で鍵をかけ、恐らくは本物の鍵がかかっているのだろう扉を眺める。ちらと視線を投げると、この扉へとカインを誘った文官が重々しく頷いて見せた。
そこに篭められている存在を思えば、どうしようもない今の情勢が自然と頭に思い描かれたのも当然の事だった。
その扉の向こうには、あろうことか――本当になにを馬鹿なといいたくなるほどにあろう事か――隣国の姫を名乗る娘が一人の従者を伴ってご滞在遊ばしているというのだ。そして目的を一切語らず、ただ誰か王族を呼んで欲しいと、それだけを要求しているという。
当然のことながらまず詐称が疑われたが、王家の紋章の刻まれた腕輪を所持しているところからその疑惑はほぼ消えた。複雑な文様が、銀の土台に幾種類かの宝石の欠片をあしらって描かれているのだ。その複雑な意匠だけでも偽造は容易くない。それがくすまぬ色のままの銀と宝石で描かれていれば尚の事だ。総てを極秘に行わねばこのような贋作は意味がない。
ここまで精緻な贋作を作るには材料の調達から職人の確保口止めまでを含めれば、本物が数十個単位で作れるだけの金銭が必要となるだろう。そうまでして王族を名乗る理由があるとは、到底思えない。そこまでの財力があるものが、王族を詐称する必要もまずないだろう。そも、王族を詐称するなどという行為は、頭の足りない詐欺師が田舎の豪族あたりを狙ってやる事であって、関所で堂々と行われるものでは、普通ないのだ。
いやそれを言うなら、普通は――
そこまで考えて、カインは天井を振り仰いだ。未だ扉を開く決心は出来ない。何故といって、
「……普通、ここまで微妙な情勢の隣国の関所に、従者一人だけを連れて乗り込んでくる姫など、いないな」
「……そうですな」
けれど紋章入りの腕輪はどうみても本物。頭がおかしいようにも見えないという官吏達の判断もある。情勢が微妙となりつつある今、関所に配されている文官はそれなりの切れ者揃いで、それが揃いも揃って見立てを間違えるなど、まず有り得ない。
結局会ってみるしかないのかと、そう考えていたが、いざともなれば二の足も踏みたくなる。色々な意味で、予想が及ばない想像も及ばない、未知すぎる事態だった。恐らくそれはカインにとってだけではなく、誰が遭遇したとしても同じであっただろう。
だがその先に待っていた『姫』と言う現実は、そんな些細な躊躇を飛び越えて行くものだった。
様々な意味で、良くも、悪くも。