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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
閑章2 王女が消えた王宮

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【閑章6話】二人の王子


 王女殿下が王宮を去られてから、およそ三年が経とうとしていた。


 この三年間、マリアベル王国では実にさまざまな出来事があった。王女殿下の失踪に始まり、その行方を隠すための宮廷内での調整、王太子殿下が妹を王宮から遠ざけているという噂の流布、そして最近では、王女殿下の元恋人を成敗するために国王陛下が親征を言い出されるという、思い出すだけでも胃が痛くなる騒動まであった。


 もっとも、それらは王国全体から見れば、あくまで王家に関わる問題である。私が宰相として向き合わなければならない仕事は、当然ながらそれだけではなかった。


 地方から届く税収報告、街道や橋梁の修繕費、国境警備に必要な軍事予算、諸外国との通商交渉、貴族領で発生した紛争の調停。そうした案件は、王女殿下が王宮にいようといまいと、容赦なく私の執務室へ積み上げられていく。


 むしろ、王女殿下の件で忙しくしていた分、通常の政務が減ってくれればありがたかったのだが、残念ながら国家というものは、宰相の都合など考えて動いてはくれないらしい。


 その日も私は、朝から大量の書類と格闘していた。


 机の右側には決裁を待つ書類が積まれ、左側には確認を終えたものが置かれている。右側の山が低くなれば仕事が進んでいる証拠なのだが、どういうわけか、しばらく目を離した隙に新しい書類が追加されるため、なかなか減ってくれない。


 私は地方の税収報告に目を通しながら、思わずため息をついた。


「……このままでは、私の机が先に限界を迎えるな」


「それは困りますね。宰相の机が壊れたとなれば、王宮の備品管理にも問題があるということになります」


 聞き覚えのある声に顔を上げると、執務室の入口にヴィルヘルム王太子殿下が立っておられた。


「殿下。お越しでしたか」


「ええ。本日も政務の勉強をお願いできますか?」


「もちろんでございます。どうぞ、こちらへ」


 王太子殿下は穏やかに微笑みながら、私の向かいに腰を下ろされた。


 最近、殿下は定期的に宰相執務室を訪れ、実際の政務に触れる機会を増やしておられる。王太子としての教育は以前から受けておられたが、ここ数年は特に熱心で、単に報告書を読むだけでなく、政策がどのような過程を経て決定され、実行されるのかまで学ぼうとされていた。


 私はその姿勢を高く評価していた。


 ヴィルヘルム殿下は、生まれながらに王位を継ぐ立場にある。しかし、それを当然の権利として受け止めるのではなく、国王として必要な能力を身につけようと努力しておられるのである。


「今日は、何か興味のある案件がございますか?」


「実は、先日見せていただいた地方からの陳情書について、もう少し詳しく伺いたいのです」


「……ああ、北部の農業領の件でございますね」


 私は書類の山から該当する報告書を探し出した。


 その領地では前年の収穫が大きく落ち込み、農民の生活が困窮しているという。さらに、領主が例年と変わらぬ賦課金を要求したため、土地を捨てて他領へ移る者が増え始めていた。


 王太子殿下は報告書を受け取ると、しばらく真剣な表情で目を通された。


「民が土地を捨てるほど困窮しているのなら、王家が手を差し伸べるべきではないでしょうか」


「お気持ちは理解できます。しかし、王家がすべての困窮者を直接救済していては、国庫がもちません。加えて、領主にはそれぞれの領地を統治する権限がございます。王家がどこまで介入できるかについても、慎重に考える必要があるでしょう」


「それは分かっています。ですが、領主の権限を尊重するために、領民を見捨てるわけにもいきません」


 殿下はそう言って、報告書を机に置かれた。


 私はその表情を見ながら、少しばかり感心していた。


 ヴィルヘルム殿下は、決して現実を知らない理想主義者ではない。王家の財政にも限界があることは理解しておられるし、貴族の統治権が王国の秩序を支える重要な仕組みであることも承知しておられる。


 そのうえで、なお困窮する民を救いたいと考えておられるのだ。


「殿下。善意だけで国家は動きませぬ」


「承知しています。だからこそ、善意を実現できる方法を学びたいのです」


 私は思わず微笑んだ。


「……なるほど。では、もう少し詳しく考えてみましょう」


 そう言って書類を広げたところで、執務室の扉が再び叩かれた。


「失礼します。兄上はこちらでしたか」


 入ってこられたのは、第二王子ハインリヒ殿下だった。


「ハインリヒ。どうした?」


「父上から、北部の税収報告について確認するよう言われまして。宰相のところへ伺えば、詳しい資料があるかと思ったのですが」


「ちょうど、その件について話していたところだ。お前も一緒に考えてみないか?」


「よろしいのですか?」


「もちろんだ」


 ヴィルヘルム殿下が隣の椅子を勧めると、ハインリヒ殿下は軽く一礼して腰を下ろされた。


 ハインリヒ殿下は、兄とは少し異なる性格の持ち主だった。


 ヴィルヘルム殿下が人の話を丁寧に聞き、その立場や感情を理解しようとされるのに対し、ハインリヒ殿下は物事の仕組みや原因を見抜くことに長けておられる。数字や制度に強く、報告書を読めば、その背後にある問題を素早く見つけ出されることも珍しくなかった。


 私は二人の王子が並んで書類を読む姿を眺めながら、いつものように頼もしさを感じていた。


「……兄上。この数字、少しおかしくありませんか?」


 ハインリヒ殿下が、報告書の一箇所を指さされた。


「どこだ?」


「収穫量は前年より二割近く減少しています。しかし、領主が徴収した賦課金の総額は、むしろ増えています」


 ヴィルヘルム殿下は眉をひそめられた。


「……つまり、不作だけが原因ではないということか」


「ええ。領主が自分の損失を領民へ押しつけている可能性があります。収穫量が減っているのに徴収額が増えているのであれば、農民一人あたりの負担は相当重くなっているはずです」


「なるほど……」


 ヴィルヘルム殿下はしばらく考え込まれた。


「それなら、まず領主の徴税状況を調べる必要があるな。単に救済金を送るだけでは、根本的な解決にならないかもしれない」


「私もそう思います」


 ハインリヒ殿下は頷かれた。


 私は二人のやり取りを聞きながら、内心で舌を巻いていた。


 同じ報告書を読んでいても、二人の着眼点はまったく異なる。


 ヴィルヘルム殿下は、困窮する領民をどう救うかという視点から問題を捉える。一方、ハインリヒ殿下は、なぜそのような状況が生じたのかという原因を探ろうとされる。


 どちらも国家を治めるうえで欠かせない考え方だった。


 そして何より、二人は互いの意見を素直に受け入れておられる。


「宰相。この件、私たちに調査を任せていただけませんか?」


 ヴィルヘルム殿下が尋ねられた。


「もちろん、最終的な判断は父上と宰相に仰ぎます。ですが、実際に調べ、解決策を考えるところまで、私たちでやってみたいのです」


 私は少し考えた。


 確かに、王太子教育としては申し分のない案件である。地方統治、財政、貴族の権限、民の救済。国家運営に必要な要素が、ほとんど揃っている。


「承知いたしました。ただし、調査にあたっては私の部下を同行させます。地方領主との折衝には、相応の経験が必要でございますので」


「ありがとうございます」


「では、兄上。私は財務記録を調べます。兄上は領民の救済策について考えていただけますか?」


「ああ。頼む」


 二人は自然に役割を分担された。


 その姿を見て、私は思った。


 この兄弟が力を合わせれば、マリアベル王国はきっと今よりもよい国になる。


 少なくとも、その時の私は、心からそう信じていた。


     *


 調査が始まってから数日後、宮廷では妙な噂が聞かれるようになった。


 最初は、王太子殿下と第二王子殿下が共同で地方領の問題に取り組んでいるという、ごく普通の話だった。


 しかし、それがいつの間にか、二人の能力を比較する話へと変わっていったのである。


「王太子殿下は慈悲深いが、少々甘いところがある」


「いや、国王に必要なのは人望だ。ヴィルヘルム殿下ほど民のことを考えておられる方はいない」


「それはそうだが、実務能力ではハインリヒ殿下の方が優れておられるのではないか」


「第二王子殿下は優秀だが、少々冷徹すぎる。国王としてはどうだろうな」


 そうした会話が、貴族たちの集まる場所で交わされるようになった。


 私は最初、それほど深刻には受け止めていなかった。


 王族の能力が比較されること自体は、珍しい話ではない。ましてや、二人の王子が共に優秀であれば、周囲がそれぞれの長所を論じるのも自然なことだろう。


 しかし、しばらくすると、その噂には明らかな変化が現れ始めた。


 ヴィルヘルム殿下の周囲には、王家の伝統と秩序を重んじる貴族たちが集まるようになった。彼らは王太子殿下の温厚な人柄を称賛し、将来の国王として相応しい人物だと語った。


 一方、ハインリヒ殿下の周囲には、財政改革や軍制改革を望む官僚、若手貴族、軍人たちが集まり始めた。彼らは第二王子殿下の実務能力を高く評価し、王国の改革を進めるには、あの方の力が必要だと考えているらしかった。


 問題は、二人の王子が自らそうした集団を作ったわけではないということだった。


 周囲が勝手に集まり、勝手に期待を膨らませているのである。


 政治家というものは、主君を選ぶ。


 しかし、ときに政治家の方が、自分たちの望む主君を作り上げてしまうことがある。


 王子殿下のお考えだと称して、自分たちの望む政策を進めようとする。あるいは、王子の名を利用して政敵を排除し、自らの地位を高めようとする。


 私は宮廷で、そうした人間を何人も見てきた。


 そして、そのような動きが王位継承に関わる場合、事態は一層厄介になる。


 ヴィルヘルム殿下は正式な王太子であり、次の国王となることが定められている。ハインリヒ殿下も、そのことを理解しておられる。


 だが、周囲の人間が必ずしも同じように考えるとは限らない。


 王太子の地位が確立しているからこそ、第二王子に別の可能性を見出そうとする者も現れる。あるいは、第二王子の能力を利用して、王太子の周囲にいる貴族たちの影響力を削ごうとする者もいるだろう。


 私はその兆候を、注意深く見守ることにした。


     *


 地方領から正式な調査報告が届いたのは、それから十日ほど経った頃だった。


 不作自体は事実だった。


 しかし、問題はそれだけではなかった。


 領主は王都の有力貴族に多額の献金を行っており、その資金を確保するため、領民への負担を増やしていたのである。


 さらに、その有力貴族は、ヴィルヘルム王太子殿下の支持者として知られる人物だった。


 私は報告書を読み終えると、深いため息をついた。


「……厄介なことになったな」


 領主の不正を正すこと自体は、難しい話ではない。証拠が揃っている以上、相応の処分を行えばよい。


 しかし、その背後に王太子殿下の支持者が関わっているとなれば、話は別だった。


 仮に領主が処罰されれば、王太子殿下の周囲に不正を働く貴族がいたという噂が広まるだろう。一方、処罰を見送れば、王太子殿下が自らの支持者を庇ったと受け取られる可能性がある。


 どちらに転んでも、政治的な問題へ発展しかねない状況だった。


 そして、こうした機会を見逃さない人間が、宮廷には必ずいる。


 その日の午後、私はハインリヒ殿下のもとを訪ねた。


 殿下は数名の官僚と会談しておられたが、私が到着すると、すぐに席を設けてくださった。


「宰相。ちょうどよいところへ来てくださいました。北部の件について話していたところです」


「左様でございますか」


「ええ。調査報告を確認しましたが、想像以上に問題が深刻なようですね」


 私は頷いた。


 すると、同席していた若い官僚の一人が口を開いた。


「殿下。この件を公にすれば、王太子殿下の周囲にいる旧弊な貴族たちを一掃する好機となりましょう」


 私は思わず、その男を見た。


 彼は私の視線に気づいた様子もなく、言葉を続けた。


「王太子殿下ご自身に責任があるわけではございません。しかし、周囲の者が不正に関与していたとなれば、今後の人事や政策にも影響を与えることができます。これを機に、改革に反対する勢力を弱めるべきかと」


 ハインリヒ殿下は、すぐには答えられなかった。


 しばらく考えた後、静かに口を開かれた。


「不正を正すことと、兄上の名誉を傷つけることは別の話だ」


 官僚は口を閉じた。


「兄上は、この件について何も知らなかった。にもかかわらず、兄上の支持者に不正があったという理由だけで、その責任を負わせるのは筋が違う」


「……しかし、殿下」


「だからといって、兄上の名誉を守るために不正を見逃すこともできない」


 ハインリヒ殿下は、机の上に置かれた報告書を指さされた。


「問題は、領主が領民へ不当な負担を課していたことだ。そして、その背後に王都の貴族が関わっていたことだ。まずはその事実を明らかにし、適切な処分を考えるべきだろう」


 私は内心で感心していた。


 ハインリヒ殿下の言葉には、何ら不自然なところがない。


 むしろ、非常に筋の通った考え方だった。


 兄の名誉を守ることと、不正を正すことを分けて考えておられる。政治的な利益のために問題を利用するのではなく、まず事実と制度に基づいて判断しようとされているのだ。


 少なくとも、この時点で私が懸念すべき理由はなかった。


 しかし、同席していた官僚の表情を見た時、私は少しだけ嫌な予感を覚えた。


 彼はハインリヒ殿下の言葉に頷いていたが、その目には、まだ別の計算が残っているように見えたのである。


     *


 翌日、私は二人の王子殿下を宰相執務室へお招きした。


 北部の領地について、今後の対応を協議するためである。


 ヴィルヘルム殿下は、まず領民の救済を優先すべきだと主張された。


「領主の不正については、当然調査しなければなりません。しかし、今この瞬間にも生活に困っている民がいるのです。処分の決定を待っていては、さらに多くの者が土地を離れてしまうでしょう」


 ハインリヒ殿下は頷かれた。


「その点については、私も同意します。ただし、救済金を領主へ渡すことには反対です」


「なぜだ?」


「今の領主を残したまま救済金を送れば、結局その金も吸い上げられる可能性があります。領民へ確実に届く仕組みを整えなければ、意味がありません」


「それは理解している。だが、領主の統治権を一方的に奪えば、他の領主たちも警戒するだろう」


「では、警戒させればよいのです。不正を働けば王家が介入する。それを知らしめる機会でもあります」


 ヴィルヘルム殿下は眉をひそめられた。


「ハインリヒ。王家がそのような姿勢を示せば、地方貴族との関係が悪化する恐れがある。王権が強ければ、それでよいというものではない」


「兄上。私は王権を強めたいのではありません。王家が持つべき責任を果たしたいのです」


「責任を果たすことと、権力を振りかざすことは違う」


「では、権力を使うべき時に使わなければ、何のために王家が存在するのですか?」


 二人の議論は、次第に熱を帯びていった。


 私はしばらく、そのやり取りを見守っていた。


 ヴィルヘルム殿下は、王家が地方貴族の統治権を軽々しく侵害することの危険性を理解しておられる。王国は王家だけで成り立っているわけではなく、多くの貴族たちがそれぞれの領地を治めることで、国家としての秩序を維持しているのだ。


 一方、ハインリヒ殿下は、その仕組みが不正を見逃す理由になってはならないと考えておられる。領主の権限を尊重するあまり、領民の生活が犠牲になるのであれば、王家が介入すべきだというのだ。


 どちらも正しい。


 だからこそ、簡単には決着しない。


 私は二人の議論を聞きながら、あることに気づいた。


 二人が対立しているのは、目指すものが違うからではない。


 同じものを守ろうとしているのに、そのために許容できる犠牲が違うのだ。


 ヴィルヘルム殿下は、秩序を守りながら人を救おうとされる。


 ハインリヒ殿下は、人を救うためなら、既存の秩序を変えることもためらわない。


 その違いは、今のところ互いを補い合う長所となっている。


 しかし、もし二人が同じ問題について、どうしても譲れない判断を下すことになったら。


 私は、その先を考えるのをやめた。


「殿下方。少々よろしいでしょうか」


 二人がこちらを向かれた。


「お二人のお考えは、いずれももっともでございます。であれば、両方を満たす方法を考えてみてはいかがでしょう」


「両方、ですか?」


 ヴィルヘルム殿下が尋ねられた。


「はい。まず、領主の徴税権を暫定的に停止し、王家の監督官を派遣いたします。ただし、領主の地位そのものを直ちに剥奪するのではなく、正式な調査と審理を経て処分を決定するのです」


 私は机の上に置かれた地図を指さした。


「救済金については、領主を経由せず、王家が派遣する役人を通じて直接配分いたします。これならば、領民への支援を急ぐことができますし、不正を働いた領主へ新たな資金を渡すことも避けられます」


 ハインリヒ殿下が頷かれた。


「なるほど。徴税権の停止を暫定措置とするわけですね」


「左様でございます。さらに、今回の介入を不作時の特例措置として法的に整理すれば、他の領主たちに対しても、王家が無制限に統治権を奪うわけではないことを示せます」


 ヴィルヘルム殿下は、しばらく考え込まれた。


「……確かに、それならば領民を救いながら、地方貴族との関係にも配慮できますね」


「ええ。実効性も確保できるでしょう」


 ハインリヒ殿下も納得された様子だった。


 二人は互いに顔を見合わせ、それから小さく笑われた。


「やはり、宰相には敵いませんね」


「兄上。私たちはまだまだ学ぶことが多いようです」


 私は苦笑した。


「殿下方。私がいなくとも、その結論へ辿り着いていただかなければ困ります」


「では、次は私たちだけで解決してみせましょう」


「……どうか、私の胃に優しい問題でお願いいたします」


 二人は声を上げて笑われた。


 私もつられて微笑んだ。


 その時、私は心から安堵していた。


 二人の王子は、意見が違っても互いを敵として見ていない。議論を重ね、相手の考えを理解し、よりよい結論へ辿り着こうとしておられる。


 それは、王国の未来にとって何より心強いことだった。


     *


 北部の問題がひとまず解決へ向かい始めた頃、私は国王陛下から呼び出された。


「アルフォンス。ヴィルヘルムとハインリヒは、うまくやっているか」


 陛下は、いつになく真剣な表情で尋ねられた。


「はい。お二人とも、非常に優秀であらせられます」


「それは知っている。余が聞いているのは、そういうことではない」


 私は少しだけ姿勢を正した。


 陛下は机の上に置かれた書類へ目を落とし、それから静かに続けられた。


「最近、宮廷では二人の周囲に人が集まり始めているそうだな」


「……はい」


「ヴィルヘルムを支持する者、ハインリヒを支持する者。それぞれが自分たちの望む政策を、王子たちの名を借りて進めようとしている」


「そのような動きが見られることは、確かでございます」


 陛下は深いため息をつかれた。


「兄弟が争う気などなくとも、周囲が争わせることはある」


 私は黙って頷いた。


 陛下は若い頃、王位継承をめぐる宮廷の駆け引きを経験しておられる。王族の周囲に集まる人間が、必ずしも本人の幸福や国家の安定を願っているわけではないことを、誰よりも理解しておられるのだろう。


「余は、あの二人に互いを憎んでほしくない」


 その言葉には、国王としての威厳よりも、父親としての願いが強く込められていた。


 私はしばらく答えに窮した。


 ヴィルヘルム殿下とハインリヒ殿下は、今のところ良好な関係を保っておられる。互いの能力を認め、協力して政務に取り組む姿は、私自身も何度も目にしていた。


 しかし、陛下が懸念しておられるのは、二人の現在の関係ではない。


 その周囲に集まり始めた人々の思惑だった。


「アルフォンス。王太子の権限と、第二王子の職責を正式に整理せよ」


 私は顔を上げた。


「……職責の整理、でございますか」


「そうだ。誰が何を決められるのか、どこまで責任を負うのか。それを明確にしておけば、周囲の者も勝手な期待を抱きにくくなるだろう」


 私は少し考えた。


 確かに、合理的な判断だった。


 王太子殿下には将来の国王としての教育と政務経験が必要であり、第二王子殿下にも、その能力を発揮できる役割を与えるべきだ。しかし、二人の権限が曖昧なままでは、周囲の者が都合よく解釈し、権力争いの火種にしてしまう可能性がある。


「承知いたしました。早急に案をまとめます」


「頼む」


 陛下はそう言って、少しだけ表情を和らげられた。


「ヴィルヘルムは、よい王になるだろう」


「私も、そう信じております」


「ハインリヒも優秀だ。あれほど頭の切れる者は、王宮でもそう多くはない」


「左様でございます」


「だからこそ、二人には力を合わせてほしいのだ」


 私は深く頭を下げた。


 陛下のお考えは、よく理解できた。


 制度によって権限を分けることはできる。


 しかし、人の野心まで分けることはできない。


 私はそのことを、心のどこかで気にかけていた。


     *


 その夜、私の執務室を訪れたのは、ハインリヒ殿下だった。


「宰相。少し、お時間をいただけますか」


「もちろんでございます」


 殿下は私の向かいに腰を下ろされ、しばらく黙っておられた。


 私は急かさず、言葉を待った。


「父上が、私と兄上の職責を整理するよう命じられたそうですね」


「……はい」


「父上は、私を警戒しておられるのですか」


 私は慎重に答えた。


「陛下は、お二人がそれぞれの能力を存分に発揮できるよう、お考えなのでしょう」


「……なるほど」


 ハインリヒ殿下は、しばらく考え込まれた。


 そして、意外なことをおっしゃった。


「私は、兄上が王になることに異論はありません」


 私は殿下を見た。


「兄上は、人に好かれる方です。誰かの苦しみを、自分のことのように受け止められる。あれは私には真似できません」


「殿下にも、殿下にしかできぬことがございます」


「ええ。ですから私は、それをやるつもりです」


 ハインリヒ殿下は穏やかに微笑まれた。


「兄上が民のために理想を語るなら、私はその理想を実現する仕組みを作る。それでよいと思っています」


 私は安堵した。


 殿下の言葉には、少なくとも私が聞く限り、兄への反感や嫉妬は感じられなかった。むしろ、自分と兄の違いを冷静に理解し、それぞれの長所を活かすべきだと考えておられるようだった。


 しかし、殿下は最後にこう付け加えられた。


「ただ、宰相。一つだけ、覚えておいてください」


「何でございましょう」


「私は、兄上のためなら何でもするつもりですが、兄上の判断が常に正しいとは思っていません」


 私は、その言葉を受け止めた。


 反抗ではない。


 むしろ、健全な政治家としての自負だった。


 王太子殿下を尊敬しているからといって、その判断を無条件に受け入れる必要はない。国家を支える者として、必要であれば異論を唱える。それは、第二王子として正しい姿勢なのだろう。


「……殿下のお考え、よく分かりました」


 私はそう答えた。


 ハインリヒ殿下は小さく頷かれ、席を立たれた。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


「いえ。いつでもお越しください」


 殿下が退出された後、私はしばらく机に向かったまま考え込んでいた。


 ハインリヒ殿下は、非常に優秀な方である。


 そして、自分の能力に相応の自信を持っておられる。


 それ自体は、何ら問題ではない。


 むしろ、王国にとって必要な資質だろう。


 しかし、王太子殿下と第二王子殿下が、いつかどうしても譲れない判断を下すことになったら。


 その時、私はどちらの意見を支持するべきなのだろうか。


 私は小さく息を吐いた。


 まだ起きてもいないことを心配しても仕方がない。


 そう自分に言い聞かせ、目の前の書類へと意識を戻した。


     *


 翌日の夕刻、私はユリアナと顔を合わせる機会を得た。


 彼女は魔法騎士団の仕事を終えたところらしく、いつもの凛々しい騎士服姿で執務室を訪れた。


「アルフォンス。最近、王子殿下たちのことで忙しそうね」


「……耳が早いな」


「宮廷の噂なんて、嫌でも聞こえてくるものよ」


 ユリアナは私の向かいに腰を下ろした。


「軍の中でも、二人の王子殿下への評価が分かれ始めているわ」


「……ほう」


「ヴィルヘルム殿下は兵士の待遇改善に熱心でしょう? 現場の兵士たちからは、随分と信頼されているみたい」


「それは結構なことだ」


「ええ。一方で、ハインリヒ殿下は軍の編制や補給体制に関心があるから、改革を望む将校たちから支持されているわ」


 私は頷いた。


 それは、これまでの二人の姿勢から考えれば自然なことだった。


「二人とも、軍にとってはありがたい存在よ」


「それは結構なことではないか」


「ええ。二人が同じ方向を向いているうちはね」


 私は彼女を見た。


 ユリアナは、少しだけ真面目な表情になった。


「戦場で指揮官が二人いて、それぞれ違う命令を出したらどうなると思う?」


「……軍は混乱する」


「そう。どちらも正しい命令だったとしてもよ」


 私は黙った。


 ユリアナは続けた。


「私はヴィルヘルム殿下もハインリヒ殿下も尊敬している。でも、もし二人が別々の命令を出す日が来たら、私たちはどちらに従えばいいの?」


 それは、私が考えたくなかった問いだった。


 王国には明確な指揮系統があり、正式な命令権も定められている。しかし、実際の政治や軍事において、人間は必ずしも制度だけで動くわけではない。


 尊敬する人物の言葉を重んじる者もいれば、自分の利益につながる命令を選ぶ者もいる。二人の王子がそれぞれ異なる方針を示せば、周囲の人間が勝手に対立を深める可能性もあるだろう。


 私はしばらく考え、それから答えた。


「そのような日が来ないようにするのが、私の仕事だ」


 ユリアナは少しだけ笑った。


「だったら、しっかり働いてちょうだい。宰相閣下」


「……君は、私を休ませる気がないのか」


「あるわよ。今夜くらいはね」


 彼女はそう言って、楽しそうに微笑んだ。


 私は苦笑した。


 どうやら、今夜は少し早く仕事を切り上げることになりそうだった。


     *


 それから数日後、シエラから定期報告が届いた。


 王女殿下は失恋から立ち直り、冒険者として順調に実績を重ねているという。フリーダとクルシュとの交流も続いており、以前より他人と協力して依頼をこなす機会が増えたらしい。


 私はその報告を読み、少しばかり安堵した。


 王女殿下は、遠い異国の地で、自分の人生を歩んでおられる。


 王宮にいた頃のあの方は、魔法の才に恵まれながらも、その力を自由に使うことができずにいた。王族としての立場があり、周囲の期待があり、何より国王陛下をはじめとする人々が、あの方の将来を勝手に決めようとしていたのである。


 今のあの方は違う。


 自分で仕事を選び、自分の力で報酬を得て、時には失敗しながらも、自分の意思で生きておられる。


 そして、その生活の中で、王宮にいた頃には得られなかったものを、少しずつ手に入れているようだった。


 報告書の最後には、こんな記述があった。


『対象者は、酒場で王族の生活について話題を振られた際、「案外、自由がないんじゃないかな」と答えた』


 私は思わず笑ってしまった。


 まったく、そのとおりである。


 王族という立場は、多くの権力を与える。


 しかし、その権力を持つ者ほど、自分自身の人生を自由には選べない。


 ヴィルヘルム殿下は、生まれながらに次の国王となることが定められている。ハインリヒ殿下は、どれほど優秀であっても、兄の存在を前提として自らの役割を考えなければならない。


 そして、国王陛下もまた、父親としての感情だけで行動することは許されない。


 王女殿下が王宮を去られた理由を、私は今なら以前よりも理解できる気がしていた。


 あの方は、単に王族としての責任から逃れたかったのではない。


 自分の人生を、自分で選びたかったのだ。


 私は報告書を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 王宮の中庭では、夕暮れの光が石畳を赤く染めていた。遠くからは、衛兵たちの交代を告げる声が聞こえてくる。


 この王宮には、今日も多くの人々が働いている。


 そして、その中心には、二人の王子がいる。


 ヴィルヘルム殿下は、民の幸福を願い、国王としての責任を学ぼうとしておられる。


 ハインリヒ殿下は、国家の仕組みを理解し、よりよい制度を作ろうとしておられる。


 二人は互いを認め合い、それぞれの能力を活かそうとしている。


 私は、その姿を心から頼もしく思っていた。


 この時の私は、まだ信じていた。


 二人の王子が力を合わせれば、マリアベル王国は今よりもずっとよい国になるのだと。


 そして、その未来を支えることこそが、宰相としての私の役目なのだと。


 少なくとも、あの頃の私には、それを疑う理由など何一つなかったのである。


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