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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第5章】聖女と英雄

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第79話 間に合わない報せ


 翌朝、冒険者ギルドの扉を開けた私は、いつもとは違う広間の光景に思わず足を止めた。


 受付の前には何人もの冒険者が集まり、職員たちが慌ただしく書類を運んでいる。依頼掲示板の前でも数人の職員が作業をしており、貼り出されていた依頼書が次々と剥がされ、別のものへ差し替えられていた。普段なら依頼を選ぶ冒険者たちの雑談が聞こえてくる時間なのに、今日は職員の指示を確認する声や、出発の準備について話し合う声ばかりが耳に入ってくる。


 人が増えたわけではなかった。むしろ、広間にいる冒険者の数は相変わらず少ない。それでも、ここにいる誰もが何かしらの仕事に追われているらしく、昨日以上に慌ただしい雰囲気が漂っていた。


「……何だか、昨日より忙しそうだね」


「ああ。依頼の整理をしてるみたいだけど、何か方針が変わったのかな」


 タクマの視線を追って掲示板を見ると、ちょうど職員が薬草採集の依頼書を剥がしているところだった。その隣では、鉱石や魔獣素材の採集依頼も次々と外されている。代わりに貼り出されていくのは、街道警戒や魔獣討伐、周辺集落への連絡といった依頼ばかりだった。


「あっ、リカ! タクマも、おはよう!」


 受付の方からエリナが声を掛けてきた。彼女は両手に書類を抱え、いつものように明るく笑っていたけれど、目元には少し疲れが見える。昨日も遅くまで働いていたはずだから、きっと今朝も早くから仕事をしていたのだろう。


「おはよう、エリナ。今日はずいぶん忙しそうだね」


「もう大変だよ。朝から依頼の整理ばっかりしてるんだから。昨日の夜にギルド長から指示が出て、通常の依頼を全部見直すことになったんだ」


「通常の依頼?」


「うん。採集系の依頼は、当面すべて中止。薬草採集も素材集めも、新しく受け付けないし、まだ出発していない人には事情を説明して取りやめてもらってる。既に出発している人にも、戻ってきたら今後の採集は中止だって伝える予定」


 エリナはそう言って、掲示板を指差した。


「今は森に入るだけでも危険だからね。普段なら安全な採集場所でも、魔獣が出るかもしれないでしょ? それに、少しでも動ける人を魔獣への対応に回したいんだって」


 私は掲示板から剥がされていく依頼書を見つめた。


 冒険者になったばかりの頃、タクマと一緒に採集依頼を受けたことがある。討伐よりも危険が少なく、経験の浅い冒険者でも引き受けやすい仕事だ。採集で生活費を稼いでいる新人もいるだろうし、薬草や素材を必要としている人たちにとっても、依頼が止まるのは困ることに違いない。


 けれど、今は事情が違う。森の中には大量の魔獣が増えており、普段なら安全な場所であっても、いつ危険な群れに遭遇するか分からない。採集を続けさせれば、経験の浅い冒険者を危険な場所へ送り込むことになってしまう。


「それで、採集依頼を受けていた冒険者たちはどうするの?」


「安全な場所での連絡や物資運搬をお願いする予定だよ。討伐や街道警戒に出る人たちを、後ろから支えてもらうんだって。もちろん、危険な場所へ無理に行かせたりはしないよ」


「なるほど。それなら、新人の人たちにもできる仕事があるね」


「そうなの。それと、今ノヴァグラードに残ってるB級以上の冒険者にも、順番に声を掛けてるところなんだ。ギルド長が臨時の即応班を作るって」


 その言葉に、タクマが顔を上げた。


「即応班ですか?」


「うん。詳しい話はギルド長から聞いて。リカたちにも集まってほしいって言われてるよ」


 私たちはエリナに礼を言い、ギルド長室へ向かった。


 途中、依頼掲示板の前で職員の説明を聞いている若い冒険者たちの姿が見えた。採集依頼が中止になったことに驚いている者もいたけれど、魔獣の増加については既に話が広まっているらしく、大きな混乱は起きていない。職員たちは代わりに受けられる仕事を一つずつ説明し、冒険者たちも真剣な表情で耳を傾けていた。


 ギルドは、普段通りの仕事を続けることよりも、街と周辺地域を守ることを優先し始めていた。


     ◇ ◇ ◇


 ギルド長室には、既にフリーダ、クルシュ、シエラの三人が集まっていた。


 私たちが入ると、バルザックは机に広げていた地図から顔を上げた。地図には昨日よりも多くの印が付けられており、その脇には冒険者の名前と階級が書かれた書類が何枚も並んでいる。


「揃ったな。早速だが、今日はお前らに別々の場所へ動いてもらう」


「別々?」


「ああ。昨日までは調査が目的だったから、五人まとめて動いてもらった。だが、今は状況が変わった。魔獣が出ている場所が増えている以上、一か所に戦力を集中させている余裕はねえ」


 バルザックは地図の上に置かれた木片を動かし、二つの街道を示した。


「リカとタクマが第一班。フリーダ、クルシュ、シエラが第二班だ。今日はそれぞれ別の方面を担当してもらう」


「なるほど。二手に分かれるんですね」


 タクマが確認すると、バルザックは頷いた。


「そうだ。ただし、お前らだけに全部押しつけるつもりはねえ。今ノヴァグラードに残っているB級以上の連中にも、順次声を掛けている。動ける者から集めて、臨時の即応班に組み込むつもりだ」


「他にも班を作るってことか」


 フリーダが腕を組む。


「ああ。各班には原則としてB級以上を中核に置く。必要に応じてC級やD級も付けるし、街道の巡回や商隊の護衛は衛兵隊とも分担する。お前らが動いている間、別の場所が手薄になっちまったら意味がねえからな」


 私は地図に目を落とした。昨日の会議で確認しただけでも、守らなければならない場所はいくつもある。五人が一緒に行動すれば強力な戦力になるけれど、同時に対応できる場所は一つだけだ。二組に分かれ、さらに他の高位冒険者を中心とした班も編成するなら、別々の場所で起きた問題へ対応できるようになる。


「でも、B級以上の冒険者って、今どれくらい残ってるの?」


「それが問題だ。軍の依頼に出てる連中が多くてな。今すぐ動かせる奴は限られている。既に別の依頼へ出ている者もいれば、負傷して休んでいる者もいる。そいつらを無理に引っ張り出したところで、かえって問題が増えるだけだ」


 バルザックは手元の書類を一枚めくった。


「まずは動ける奴から順番に組み込んでいく。今日中に編成できる班もあれば、明日以降になる班もあるだろう。だが、待っている余裕はねえからな。準備が整ったところから動かす」


「ガルドはどうしてるの?」


 私が尋ねると、バルザックは少しだけ表情を緩めた。


「あいつなら、もう北側へ出てるぞ。昨日の夕方から魔獣の討伐に回ってもらってる。今朝も報告が来たが、相変わらず派手に暴れてるらしい」


「ガルドさんなら、かなりの数を倒してくれそうですね」


 タクマが言うと、バルザックは鼻を鳴らした。


「ああ。あいつがいるだけで、北側の連中はずいぶん助かってる。ただ、ガルドだって一人しかいねえ。北を任せてる間、東や南まで走り回らせるわけにはいかんだろ」


 私は頷いた。


 ガルドは大剣を使うA級冒険者で、その実力は私もよく知っている。魔獣の群れを相手にしても、そう簡単に後れを取る人ではない。けれど、どれだけ強くても、一度にいられる場所は一つだけだ。


「分かりました。俺たちは、どこを担当すればいいですか?」


 タクマの問いに、バルザックは地図の東側を指差した。


「お前ら二人には、東側街道の安全確認を頼みたい。昨日から魔獣の目撃が増えていてな。既に衛兵隊が一部区間の通行を制限しているが、どこまで広がっているか分かっていない」


 続いて、別の街道を指差す。


「フリーダたちには南側を頼む。商隊の往来が多い道だ。衛兵隊と協力して、魔獣が出ていないか確認してくれ」


「了解。そっちはあたしらに任せとけ」


 フリーダが頷き、クルシュとシエラも異論はないようだった。三人は既に何度も一緒に戦っているから、役割分担を細かく決めなくても互いの動きは理解しているのだろう。


「最後に、無理な追撃は禁止だ」


 バルザックの声が少し低くなった。


「母巣獣を見つけたとしても、少人数で森の奥まで突っ込むな。今は魔獣を何体倒したかより、街道と住民を守れるかどうかが重要だ。手に負えねえと判断したら、迷わず引き返して報告しろ」


「うん。分かった」


「承知しました」


 タクマも頷いた。


 私たちはそれぞれの任務を確認し、ギルド長室を後にした。


     ◇ ◇ ◇


 ギルドを出ると、フリーダが大きく伸びをした。


「さて、それじゃあ今日は別行動だな」


「そうだね。何だか少し変な感じ」


 最近は五人で行動することが多かったから、こうして別々の依頼へ向かうのは久しぶりだった。


「ま、そっちはリカがいるんだ。よっぽどのことがなきゃ大丈夫だろ」


「フリーダたちだって、十分強いじゃない」


「そりゃそうだ」


 フリーダは得意げに笑った。


「何かあれば、すぐに引き返してくださいね。今は無理をする必要はありませんから」


 クルシュが穏やかに言うと、私は頷いた。


「うん。そっちも気をつけてね」


「……また、あとで」


 シエラが短く告げ、私たちは互いに手を振って別れた。


 タクマと二人きりで街道を歩くのは、何だか久しぶりな気がした。普段から一緒に過ごしているし、家では二人だけの時間もある。それでも、冒険者として依頼へ向かう時は、最近ずっとフリーダたちと一緒だった。


「こうして二人で依頼に出るの、久しぶりだね」


「そうだな。前は二人で行くことも多かったけど」


 タクマはそう言って笑った。


「もっとも、今日はのんびり歩いてる場合じゃないけどな」


「うん。分かってる」


 私も笑い返し、歩く速度を少し上げた。


 東門を出ると、街道には普段より人通りが少なかった。通行を制限しているという話は聞いていたけれど、実際に目にすると、その影響の大きさがよく分かる。いつもなら荷馬車や旅人が行き交う道に、今日は衛兵の姿ばかりが目立っていた。


 門の近くに設けられた詰所で事情を説明すると、衛兵は東側街道の状況を教えてくれた。昨日から魔獣の目撃が続いており、通行を認める商隊も限られているという。ただし、商人組合との調整はまだ完全には終わっておらず、既に出発した商隊や、途中の集落から移動してくる荷馬車もあるらしい。


「今朝も、東の集落から荷馬車が何台か向かっているはずです。途中で魔獣に遭遇していなければいいのですが……」


 衛兵の言葉に、私はタクマと顔を見合わせた。


「まずは、その荷馬車を確認しようか」


「ああ。道沿いに進めば、どこかで行き会うはずだ」


 私たちは街道を東へ進んだ。


 道の両側には畑や草地が広がり、少し離れた場所には森が見える。迷宮周辺のように深い木々に囲まれているわけではなく、ここは人々が日常的に行き来する場所だった。


 それなのに、道端の柔らかい土には見慣れない足跡がいくつも残っていた。タクマがしゃがんで確認すると、森の方から街道を横切り、反対側の草地へ続いている。


「……これ、魔獣の足跡だよね」


「ああ。しかも新しい。まだ近くにいるかもしれないな」


 私は遠くの森を見つめた。


 昨日までは、魔獣が森の外へ出てきている可能性を考えていた。けれど、今は違う。魔獣は確かに、人々が生活する場所へ入り始めていた。


     ◇ ◇ ◇


 しばらく進んだところで、前方から叫び声が聞こえた。


 タクマが剣の柄に手を掛け、私たちはすぐに走り出した。街道が緩やかに曲がった先には数台の荷馬車が止まっており、その周囲で冒険者たちが魔獣と戦っていた。


 荷馬車は互いに寄せられ、商人たちはその内側へ避難している。馬たちは落ち着かない様子で足を踏み鳴らし、護衛の冒険者たちは荷馬車の隙間から魔獣が入り込まないよう、必死に防いでいた。


 相手は狼に似た四足の魔獣で、数はざっと二十体ほど。個々の魔獣はそれほど強くなさそうだったけれど、複数方向から襲いかかってくるため、護衛たちは反撃する余裕がないようだった。


「タクマ、右側をお願い!」


「分かった!」


 私たちは迷わず戦闘に加わった。


 タクマが右側へ回り込み、荷馬車に近づこうとしていた魔獣を斬り伏せる。突然現れた援軍に驚いた護衛冒険者が振り返ったけれど、タクマはすぐに声を掛けた。


「冒険者ギルドから来ました! こちらで外側を引き受けます。皆さんは商人たちを守ってください!」


「た、助かった!」


 護衛冒険者たちは頷き、荷馬車の周囲を守ることに集中した。


 私は少し離れた場所に立ち、魔獣の動きを確認する。荷馬車の近くで大きな魔法を使えば、商人たちを巻き込んでしまう。今回は威力よりも、正確に狙うことを優先した方がよさそうだった。


 魔力を集中させ、荷馬車から離れた場所にいる魔獣へ小さな火球を放つ。火球は狙い通り魔獣に命中し、その体を焼いた。続けて別の個体へ魔法を放ち、荷馬車の陰から飛び出そうとした魔獣には、地面から突き出した土の槍を当てて動きを止める。


 タクマは護衛冒険者たちと連携しながら、次々と魔獣を倒していった。


 以前よりも、彼の剣はずっと安定している。無理に敵を追いかけることはせず、荷馬車へ近づく魔獣を優先して迎撃し、護衛冒険者が危なくなればすぐに援護へ入る。相手が体勢を立て直す時間を作りながら、確実に魔獣の数を減らしていた。


 私はその動きを見ながら、魔獣が密集している場所を避け、荷馬車へ近づこうとする個体を一体ずつ狙った。時折、魔獣が私の方へ向かってくることもあったけれど、足元の地面を隆起させて動きを止めれば、それほど苦労せずに対処できた。


 やがて、残っていた魔獣が逃げ始めた。


 タクマは追撃しようとせず、荷馬車の周囲を確認した。私も周辺の魔力を探り、近くに魔獣が残っていないことを確かめてから、ようやく魔法を解いた。


「……大丈夫か?」


「うん。もう近くにはいないと思う。タクマは?」


「ああ、こっちは問題ない」


 私たちは互いの無事を確認し、護衛冒険者たちの方へ向かった。


     ◇ ◇ ◇


 商隊の人たちは、私たちが到着したことに心から安堵しているようだった。


 代表者らしい中年の男性が何度も頭を下げ、護衛の冒険者たちも疲れ切った様子で地面に腰を下ろしている。荷馬車の側面には魔獣の爪で付けられた傷が残っていたけれど、幸い車輪や車軸に大きな損傷はなさそうだった。


「本当に助かりました。もう駄目かと思いましたよ……」


「無事でよかったです。でも、どうしてこの道を通っていたんですか? 今は通行制限があるはずですけど」


 タクマが尋ねると、商人は困ったように顔を曇らせた。


「それは承知していたのですが、こちらの荷物を待っている集落がありまして……」


 話を聞くと、商隊は東側の集落からノヴァグラードへ向かう途中だったという。積荷には食料品や日用品が含まれており、その一部は街で別の荷物と積み替えた後、周辺の集落へ運ぶ予定になっていたらしい。


 通行制限の影響で既に予定が遅れており、商人組合からの正式な集団護衛の案内を待っている余裕がなかったという。


「もちろん、危険があることは分かっていました。ですが、護衛の方々も同行してくださるということでしたので……」


 商人はそう言って、護衛冒険者たちへ視線を向けた。


 彼らはD級の冒険者で、普段から商隊護衛の仕事をしているらしい。魔獣が現れた時も、すぐに荷馬車を寄せて防御態勢を作ったという。けれど、予想以上の数が現れ、身動きが取れなくなってしまったようだった。


「……すみません。俺たちだけじゃ、どうにもできなくて」


 護衛の一人が悔しそうに言った。


 私は首を振った。


「そんなことないよ。みんなが商人さんたちを守ってくれてたから、私たちも間に合ったんだと思う」


「そうですよ。あの状況で荷馬車を守り続けられたのは、皆さんがちゃんと対応していたからです」


 タクマもそう言うと、護衛冒険者たちは少しだけ表情を緩めた。


 私は負傷している人がいないか確認し、傷を負った冒険者の治療を始めた。腕や足に浅い傷を負った者が数人いたけれど、幸い命に関わるほどのけがはない。


 水を使って傷口の汚れを落とし、状態を確認してから回復魔法を使う。以前、タクマのけがを治療した時、外傷を塞ぐことと感染症を防ぐことは別の問題だと学んでいる。だから今は、傷口を清潔にすることを意識し、必要な処置を済ませてから魔法を使うようにしていた。


「……すごい。もう痛くない」


 治療を受けた冒険者が驚いたように腕を動かした。


「でも、今日は無理しないでね。傷が治っても、疲れまで全部なくなるわけじゃないから」


「はい。ありがとうございます」


 私は頷き、残りの負傷者の治療を続けた。


 その間、タクマは商人たちと相談し、荷馬車が問題なく動けるか確認していた。馬も落ち着きを取り戻し、少し休ませれば移動できそうだった。


「それなら、近くの衛兵詰所まで一緒に行きましょう。このまま皆さんだけで進むのは危険ですし、詰所で今後の通行について相談した方がいいと思います」


 商人たちはその提案に頷いた。


 私たちは周囲を警戒しながら、商隊と一緒に街道を進むことになった。


     ◇ ◇ ◇


 衛兵詰所へ到着した頃には、昼を少し過ぎていた。


 魔獣の討伐と商隊の救援について報告すると、衛兵たちは安堵した様子を見せた。商隊の代表者も詰所の責任者と今後の移動について相談を始め、護衛冒険者たちは近くの水場で顔を洗っている。


 私はようやく一息つけると思い、詰所の外に置かれた木の椅子へ腰を下ろした。


「……何とか間に合ったね」


「ああ。護衛の人たちが頑張ってくれてたおかげだな」


 タクマも隣に腰を下ろした。


 魔獣の数は多かったけれど、私たちが加わってからの戦闘はそれほど長くなかった。商隊の人たちも無事だったし、護衛冒険者たちのけがも治療できた。少なくとも、今日の任務は順調に進んでいるように思えた。


 けれど、その時だった。


 街道の向こうから、一人の衛兵が馬を走らせてきた。詰所の前で馬を止めると、息を切らしながら建物の中へ駆け込んでいく。


 何かあったのだろうか。


 私たちが顔を見合わせていると、しばらくして詰所の責任者が外へ出てきた。


「お二人とも、少しよろしいでしょうか」


「はい。どうしました?」


 タクマが立ち上がる。


「東側の集落で、魔獣が出現したという報告が入りました。既に衛兵隊が向かっていますが、数が多いようです」


 私は思わず立ち上がった。


「どこの集落?」


 責任者は地図を広げ、街道から少し外れた場所を指差した。そこは主要な街道から分かれる脇道の先にある小さな集落だった。


「報告によれば、魔獣が集落の外側まで接近しているそうです。住民は避難を始めていますが、現地の衛兵だけで対応できるかどうか……」


「私たちも行くよ」


 私はすぐに答えた。タクマも頷き、詰所の責任者に道を確認する。


「場所を教えてください。できるだけ急ぎます」


 ただ、説明を聞いているうちに、私は一つ気になることに気づいた。


「……その報告って、いつのもの?」


「伝令が出発したのは、今から数時間前だそうです」


 私はタクマと顔を見合わせた。


 集落から詰所まで、馬でもそれなりの時間がかかる。さらに、私たちがそこへ向かうにも時間が必要だった。もし魔獣の襲撃が既に始まっているなら、到着する頃には状況が大きく変わっているかもしれない。


「……急ごう」


「ああ」


 私たちはすぐに準備を整え、集落へ向かって走り出した。


     ◇ ◇ ◇


 集落へ到着した時、既に戦闘は終わっていた。


 入口付近の柵は壊れ、道端には魔獣の死骸がいくつか転がっている。家畜小屋の一部が倒れ、数人の住民が壊れた木材を片づけていた。集落の奥からは家畜の鳴き声が聞こえていたけれど、普段ならもっと賑やかな場所なのだろう。今は住民たちの表情も硬く、周囲を警戒する衛兵の姿が目立っていた。


 幸い、集落全体が焼け落ちたり、建物が大きく崩れたりしているわけではない。けれど、普段の生活がそのまま続けられる状態でもなかった。


 私たちが集落へ入ると、衛兵らしい男性が近づいてきた。


「冒険者ギルドからの応援ですか?」


「はい。魔獣が出たと聞いて来ました。状況はどうなっていますか?」


 タクマが尋ねると、衛兵は疲れた顔で答えた。


「魔獣は何とか追い払いました。こちらでも数体は討伐しましたが、残りは森の方へ逃げています。今は周辺の警戒を続けていますが、また戻ってこないとも限りません」


「負傷者は?」


 私が尋ねると、衛兵は集落の奥を指差した。


「何人かいます。命に関わるようなけがではありませんが、治療が必要な者もいます」


「分かった。案内して」


 私は衛兵についていき、負傷者が集められている建物へ向かった。


 中には数人の住民が座っており、腕や足に包帯を巻いている。年配の男性は肩を負傷しているようで、痛みに顔をしかめていた。私は一人ずつ状態を確認し、傷口を洗浄してから回復魔法を使った。


 けがの程度はそれほど重くなかったけれど、魔獣に襲われた恐怖は簡単には消えないらしい。治療を受けた女性は何度も礼を言いながら、まだ震えている手を握りしめていた。


「……本当に、ありがとうございました」


「ううん。無事でよかった」


 私はそう答えたけれど、胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。


 もう少し早く到着できていれば、けがをせずに済んだ人もいたかもしれない。そんなことを考えてしまったのだ。


 治療を終えて外へ出ると、タクマが住民たちと一緒に壊れた柵を片づけていた。衛兵隊は周辺の警戒を続けており、集落の代表者らしい男性が住民たちへ指示を出している。


 私はその男性に声を掛け、襲撃の様子を尋ねた。


「昨日、街から魔獣が増えているという知らせが届きましてな」


 男性は疲れた顔で答えた。


「それで、森へ近づかないようにしていたんです。家畜もできるだけ集落の内側へ移していたんですが……」


 それでも、魔獣は現れた。


 最初に数体が集落の外側へ姿を見せ、その後、別の方向からも魔獣が近づいてきたという。住民たちは事前に決めていた場所へ避難し、衛兵隊が到着するまで柵や建物を利用して防御していたらしい。


「知らせがなかったら、もっとひどいことになっていたと思います。普段なら、こんなところまで魔獣が来るなんて考えもしませんから」


 私は頷いた。


 昨日の会議で決まった警告は、確かに役に立っていた。住民たちが危険を知っていたからこそ、早めに避難できたのだろう。衛兵隊も救援に駆けつけ、魔獣を追い払っている。誰も何もしていなかったわけではない。


 それでも、家畜は失われ、建物は壊され、負傷者が出ていた。


 私は壊れた家畜小屋を見つめた。そこには、魔法で簡単に元へ戻せないものがあった。


     ◇ ◇ ◇


 集落の安全を確認し、必要な応急処置を終えた頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。


 私たちは衛兵隊に後を任せ、ノヴァグラードへ戻ることにした。集落の入口では、住民たちが壊れた柵を仮に立て直しており、衛兵がその周囲を警戒している。明日になれば、さらに補強するための資材が必要になるだろう。家畜を失った家には食料や生活費の問題も残るし、壊れた建物を直すにも時間がかかるはずだった。


 魔獣を追い払えば、すべてが元通りになるわけではないのだ。


 帰り道、しばらくの間、私たちは黙って歩いていた。やがて、タクマが口を開いた。


「……今日、俺たちは商隊を助けられた。でも、あの集落には間に合わなかったな」


「うん……」


 私は頷いた。


 商隊の人たちは無事だった。護衛の冒険者たちも、けがを治療できた。それは確かに、私たちが今日できたことだった。


 けれど、その間にも別の場所では魔獣が現れ、人々が襲われていた。


「でも、私たちが商隊を見捨てて集落へ向かってたら、今度は商隊の人たちが危なかったと思う」


「ああ。俺もそう思う」


 タクマは少し考えてから続けた。


「結局、どっちも守ろうと思ったら、別々に動ける人が必要なんだよな。俺たちがどれだけ急いでも、離れた場所で同時に何か起きたら、両方には行けない」


「……そうだね」


 私は遠くに見える森へ視線を向けた。


 今日、私たちは二十体ほどの魔獣を倒した。あの程度の魔獣なら、私たち二人でも十分に対応できる。けれど、魔獣が現れる場所が増えれば、どれだけ強くても、一度にすべての場所へ向かうことはできない。


 私たちが商隊を守っていた時、集落では別の人たちが魔獣と戦っていた。そして、今この瞬間にも、別の街道で誰かが魔獣に遭遇しているかもしれない。


 自分たちが強くなるだけでは、解決できない問題がある。私はそのことを、今日ほど強く感じたことはなかった。


     ◇ ◇ ◇


 ノヴァグラードへ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。


 ギルドの広間には、まだ多くの職員が残っていた。受付ではエリナが報告書を整理しており、奥の机では別の職員が地図に新しい印を付けている。依頼掲示板には朝よりも多くの警戒依頼が貼り出され、空いた場所には新しい連絡事項が書き加えられていた。


 私たちが入ると、エリナが顔を上げた。


「あっ、リカ! タクマ! おかえり!」


「ただいま。今日はちょっと遅くなっちゃった」


「ううん。無事でよかった。東側でも魔獣が出たって聞いてたから、心配してたんだよ」


 エリナはそう言って、ほっとしたように笑った。


「フリーダたちは?」


「もう戻ってきてるよ。今、ギルド長に報告してるところ。それと、北側からも報告が届いてるんだ。ガルドさんがまたずいぶん魔獣を倒したみたい」


「ガルドが?」


「うん。詳しいことはギルド長から聞いて。きっと驚くと思うよ」


 私たちは頷き、ギルド長室へ向かった。


 部屋へ入ると、フリーダ、クルシュ、シエラの三人がバルザックの前に立っていた。


「おっ、戻ったか」


 フリーダが振り返る。


「そっちはどうだった?」


「商隊が襲われてたから助けてきたよ。その後、別の集落にも魔獣が出て……」


 私は今日の出来事を説明した。商隊を襲った魔獣を討伐したこと。集落では衛兵隊と住民が協力して防御していたこと。そして、到着した時には既に戦闘が終わっており、負傷者の治療と応急復旧を手伝ってきたこと。


 バルザックは黙って話を聞き、時折頷いていた。


「……なるほどな。そっちも大変だったようだ」


「フリーダたちは?」


「こっちも似たようなもんだ。南側の街道で魔獣が出てな。衛兵隊と一緒に片づけてきた」


「商隊への被害はありませんでしたが、かなりの数が確認されました」


 クルシュが補足した。


「私たちが到着した時には、衛兵隊が通行を止めていました。魔獣を討伐した後、周辺を確認してから通行を再開しています」


「……森から外へ向かう足跡も増えてた」


 シエラが短く言った。


「やっぱり、そっちでも?」


「うん。昨日より多い」


 その報告を聞いて、私は胸の奥が重くなるのを感じた。東側だけではない。南側でも、魔獣は森の外へ広がり始めているらしい。


「他の即応班はどうだったんですか?」


 タクマがバルザックに尋ねた。


「ああ。今日動けた連中からも報告が来ている」


 バルザックは机の上に置かれた書類を手に取った。


「第三班は北東の集落で魔獣を討伐した。衛兵隊と協力して、集落へ入る前に追い払えたそうだ。第四班は西側の街道で警戒に当たっている。そっちは大きな被害は出ていないらしい」


「じゃあ、他の班もちゃんと動けてるんだね」


「ああ。今日のところはな。それから、北側のガルドの班だが……」


 バルザックは別の報告書を取り上げた。


「こっちは相当なもんだ。朝から森の外縁を回って、魔獣の群れを三つ潰してる。討伐数は五十体を超えたそうだ」


「五十体!?」


 私は思わず声を上げた。


 昨日まで私たちが調査していた森にも魔獣は多かったけれど、一日で五十体以上というのは相当な数だ。しかも、ガルドは大剣を使う前衛の冒険者で、私のように広範囲の魔法でまとめて討伐するわけではない。


「相変わらず、とんでもねえな、あのおっさん」


 フリーダが呆れたように笑った。


「北側の衛兵からも、ずいぶん助かったと報告が来てる。森から出てきた魔獣の群れを見つけるたびに、ガルドが先頭に立って叩き潰してるらしい。同行してる冒険者たちも、討ち漏らした魔獣を片づけたり、周囲の警戒をしたりして、うまく連携できてるようだ」


 バルザックはそう言って、報告書の一節を読み上げた。


「『大剣の一振りで複数の魔獣を吹き飛ばし、群れの中央へ単身突入。後続の冒険者が包囲を完成させ、残敵を掃討した』……だとよ」


「……いかにもガルドらしいね」


 私は思わず笑ってしまった。


 大剣を振るいながら魔獣の群れへ突っ込んでいく姿が、簡単に想像できた。普段は豪快に笑っている人だけれど、戦いになれば頼りになるA級冒険者だ。北側の衛兵や冒険者たちにとっても、彼がいることは大きな安心につながっているのだろう。


「ただし、ガルドの班も今日はそこで引き上げさせた」


 バルザックが続けた。


「さすがに一日中戦い続けさせるわけにはいかん。本人はまだ動けると言ってたらしいが、同行してる連中の疲労もある。明日以降も働いてもらわなきゃならねえからな」


「それはそうですね。ガルドさん一人が元気でも、他の人たちが倒れたら意味がありませんから」


 タクマの言葉に、バルザックも頷いた。


「そういうことだ。今は一日だけ頑張れば済む話じゃねえ。休ませる時は休ませる。それも含めて、こっちの仕事だからな」


 私は改めて、バルザックの机に並んだ報告書を見つめた。


 今日一日だけでも、多くの冒険者がそれぞれの場所で戦っていた。ガルドのように大量の魔獣を討伐した人もいれば、衛兵隊と協力して街道を守った人もいる。表立って戦っていない新人冒険者たちも、連絡や物資運搬で支えてくれているはずだった。


 ギルド全体が、できる限りの力を使って対応している。


 それでも、バルザックの表情は晴れなかった。


「……で、問題はこっちだ」


 彼が広げた地図には、昨日よりも多くの印が付けられていた。


 青い印は討伐や警戒に成功した場所。赤い印は新たに魔獣が目撃された場所を示しているという。


 私は地図を見つめた。


 確かに、青い印は増えていた。私たちが商隊を救った場所も、フリーダたちが魔獣を討伐した場所も、他の即応班が対応した場所も、きちんと記録されている。北側にはガルドの班が討伐した地点がいくつも並び、そこだけを見れば、かなり広い範囲の魔獣を減らせているようにも思えた。


 けれど、赤い印も増えていた。


 しかも、その範囲は昨日より広がっている。街道沿いだけでなく、森から少し離れた集落の近くにも印があり、これまで大きな問題が起きていなかった場所にも、新しい報告が届いているらしい。


「……これ、今日だけで?」


「ああ。全部が今日の報告だ。まだ確認できていない情報もあるが、魔獣の出現地点が増えているのは間違いねえ」


 私は地図から目を離せなかった。


 ガルドは一日で五十体以上の魔獣を倒した。私たちも商隊を襲った魔獣を討伐し、フリーダたちや他の即応班も、それぞれの場所で成果を上げている。


 それなのに、魔獣が現れる場所は増え続けていた。


「……軍からの返事は来たの?」


 私が尋ねると、バルザックは机の上の書類を一枚持ち上げた。


「来た。協力する意思はあるそうだが、まとまった兵をすぐに派遣するのは難しいらしい」


「やっぱり、西方の件ですか?」


 タクマが尋ねる。


「ああ。輸送任務と、その警備に人員を取られているそうだ。駐屯部隊も、今すぐ自由に動かせる兵は少ねえらしい」


 バルザックは書類を机へ戻した。


「近隣のギルドにも応援を頼んでいる。そっちは調整を進めてくれているようだが、到着にはまだ何日かかかるだろうな」


 私は小さく頷いた。


 誰も協力を拒んでいるわけではない。行政も衛兵隊も、軍も、近隣のギルドも、それぞれできることを進めている。けれど、兵士や冒険者を派遣するには準備が必要だし、既に別の任務を担当している人たちを簡単に動かすこともできない。


 必要な人数が、必要な時に、必ず集まるわけではないのだ。


「……応援が来るまで、持ちこたえるしかねえな」


 バルザックが静かに言った。


 その言葉に、誰もすぐには答えなかった。


 私はもう一度、地図を見つめた。


 青い印は、確かに増えている。私たちが守った場所、フリーダたちが守った場所、ガルドや他の冒険者たちが守った場所。その一つ一つには、助かった人たちがいる。


 けれど、赤い印はそれ以上に増えていた。


 街道も、集落も、森の外側も。私たちが一つの場所で魔獣を倒している間に、別の場所では新たな魔獣が現れている。


 今日、商隊を守れたのは、私たちがそこへ到着できたからだ。護衛の冒険者たちが持ちこたえてくれたことも大きかったし、負傷者を治療することもできた。一方で、集落への到着は間に合わなかった。住民たちが事前の警告を受けて備え、衛兵隊も救援に駆けつけたから大きな犠牲を出さずに済んだけれど、家畜や建物には被害が残っている。


 そして、今も森の中には多くの魔獣が残っている。東側で確認した母巣獣も、まだ討伐できていない。さらに別の個体がいる可能性もある以上、魔獣の増加がすぐに収まるとは考えにくかった。


 私たちだけではない。ガルドも、フリーダたちも、他の冒険者たちも、それぞれの場所で戦っている。衛兵隊や行政も、街を守るために動いている。


 それでも、すべての場所へ同時に駆けつけることはできない。


 私は地図の上に広がる赤い印を見つめながら、今日助けた商隊の人たちと、間に合わなかった集落の人たちの顔を思い出していた。


 今の私たちは、確かに戦えている。実際に守れた場所も、助けられた人たちもいる。


 けれど、魔獣が広がる速さに、少しずつ追いつけなくなっているのだった。


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