su+pi
拓先輩の周りで、おかしなことが起きている。
今週だけで、七回。
シフト表が風もないのに落ちた。皿を二枚割った。コーヒーを自分の手の甲にこぼした。バックヤードでつまずいた。「ちょっと頭痛い」と呟いた。心なしか口数が少ない。あと、今日のシャツが、青い。
青はね、淨化の色なんですよ。本人が無意識に選んでるってことは、本人の靈魂が「整えてくれ」って訴えてるんですよ。
これはもう、視えないなにか、憑いてるな。
私は、首から下げたクリスタルを、シャツの上からそっと握る。握ったところで何かが起きるわけではない。けど、握ると、なんか、いける氣がする。氣がする、って、大事なんですよ。氣が。
「天野、なにしてんの」
カフェのバックヤード、ロッカーの前でクリスタルを握りしめて目を閉じていた私を、当の拓先輩が、いつもの平坦な声で見下ろしていた。
「なんでも、ないっす」
「そう」
そう、で済ませてくれるのが拓先輩だ。
普通の男子なら、首から提げたクリスタルと、リュックに揺れる五個のお守りと、左手薬指の月光石の指輪を見て、なにかしら言う。引くか、笑うか、説教するか。
拓先輩は、見て、「へぇ」と言って、それで終わる。
だから、私は、この人を、救わなければならないと、思っている。
◇◇◇
翌日、私はクリスタルをローズクォーツに替えた。恋愛運じゃなくて、慈愛のエネルギー。私が彼に向ける気持ちを「恋」と勘違いされると、純度が下がる。これは「救済」だから、純度が大事なんですよ。
朝はスピルリナのドリンクを二杯。藻だ。藻を飲んで、私の体内を淨化する。淨化された私が、彼の周りの澱みを引き受ける。理屈は、通っている。
昼休み、私はバイト先のロッカールームに、塩を持ち込んだ。
粗塩、ジップロック、三百グラム。
女は黙って粗塩。これは、私が決めた。
拓先輩のロッカーの前にしゃがんで、扉の下の隙間にちょっとずつ撒いていく。塩は結界の基本なんですよ。家相の本にも書いてあるし、神社にも盛ってあるし、相撲でも撒くじゃないですか。文化として、根拠はある。
頭の上から、声が降ってきた。
「天野」
拓先輩が、ロッカー越しに私を見下ろしていた。エプロンのポケットに片手を突っ込んで、もう片方の手にコーヒーカップ。今日のシャツは、白。白も淨化の色。やっぱり魂が訴えている。
「なにしてんの」
「お塩を、撒いて、ました」
拓先輩は、コーヒーを一口飲んで、
「なんで」
「なんとなく、です」
「そう」
そう、で終わった。
ロッカーを開けた拓先輩は、足元の塩を一瞥して、なにも言わず、エプロンを掛け替えて出ていった。私は床に座り込んだまま、彼の背中を見送る。
ね、大丈夫でしょ。拓先輩なら。
今日のバイト代、七千緣。七は神聖な数字。「緣」って書くと、糸が二人を結ぶ字になるんですよ。私の七千緣は、七千の緣で、できている。最幸の一日になる予感しかしない。
◇◇◇
その日のバイト上がり、電車。
夜の九時、各駅停車、空いた車内。私は端の席に座った。次の駅で乗り込んできた拓先輩が、なんでもない顔で、私の隣に座った。
四つ離れた席が空いていた。三つ向こうも空いていた。なのに、隣に座った。
ね、これですよ、これ。
魂は、引き寄せ合うんですよ。
拓先輩は鞄を膝に乗せて、目を閉じた。
すぴー。
しばらくして、寝息が聞こえた。
すぴー、すぴー。
私はポケットからスマホを取り出して、ボイスメモを起動した。これは、波動の確認です。先輩の魂の周波数を、定期的に記録しておくことで、靈的な異常があった際に比較対象として、
すぴー。
可愛い。
待って。今、可愛いって、思った。
違う、違う、今のは、純粋な「波動が安定している」という観測上の感想であって、可愛いとかそういう低次元の話では、
すぴー。
先輩の寝息、私の知ってるどの音楽より、いい。
言い訳が、追いつかない。
窓に映った拓先輩の横顔は、起きているときよりずっと無防備で、力が抜けていて、まつ毛が長い。
ボイスメモは、回り続けている。
次の駅で先輩は目を覚まして、降りていった。「お疲れ」と短く言って、振り返らなかった。
私のスマホには、二分十七秒の、すぴーが、残った。
◇◇◇
その夜、私は、ベッドに入って、イヤホンを耳に挿した。
すぴー。
すぴー。
二分十七秒のループ再生。波動の解析、と自分に説明をつけて、目を閉じた。
最初は、現実の延長だった。
いつものカフェ、いつものバックヤード。私はロッカーの前にしゃがんで、塩を撒いている。エプロン姿の拓先輩が、ロッカー越しに私を見下ろしている。
「天野」
「お塩を、撒いて、ました」
ここまでは、昼の再現だった。
でも、拓先輩は、いつものように「そう」と言わなかった。
しゃがんで、私と目線を合わせて、こう言った。
「天野は、なんでそんなに俺のこと、氣にしてんの」
あ。
これは、夢だ。
氣づいた瞬間、カフェの照明が、一段、白くなった。窓の外の景色が、ない。BGMが、止まった。お客さんの声もない。空調の音もない。
世界に、私と拓先輩しか、いない。
「先輩の周りに、視えないものが、憑いてるから」
「それ、本当に視えないものの話?」
拓先輩は、目を合わせてくる。
現実の拓先輩は、目を合わせない。「へぇ」と言いながら、いつも視線は私の少し横にある。
夢の拓先輩は、まっすぐに、私を、見ている。
「天野」
「はい」
「俺、別になにも憑いてないよ」
夢の拓先輩の言葉が、私の頭の上で、ふわっと、ほどけた。
「……でも、皿、割って」
「あれは俺が下手なだけ」
反論を考えた。喉まで、出かかった。けれど、夢の中の拓先輩の目があんまり静かで、私の喉は、二度空振りした。
「コーヒーも」
「猫舌だから油断した」
もう、何も、言えなかった。
「シャツが、青で」
「色の話されても」
ひとつずつ、否定されていく。
私の七つの「視えないなにか」が、ひとつずつ、ただの拓先輩の日常に、戻されていく。淨化も、結界も、波動も、何も要らなかったみたいに。
「でも、じゃあ、なんで」
「なんで?」
「先輩の周りに、ずっと、何かがあるって、私、感じて」
拓先輩は、しゃがんだまま、ちょっと、笑った。
現実の拓先輩は、笑わない。「へぇ」と言うだけ。
夢の拓先輩は、笑った。
「天野が、俺のこと好きだからじゃない?」
心臓が、止まった。
「夢だから、言うけど」拓先輩は、続けた。「俺も、天野のこと好きだよ」
目が、覚めた。
◇◇◇
朝、私は、ベッドの中で天井を見上げていた。
イヤホンは、耳から外れていた。スマホのバッテリーは、二パーセント。
昨夜の夢を、私はすべて、覚えていた。
天井の木目を見ながら、私は、ふと、思った。
もしかしたら、これは、ただ。
私が、先輩のことを、好き、なだけ、なのでは。
皿を割ったのも、コーヒーをこぼしたのも、シャツが青いのも、全部、ただの先輩の日常で。私が勝手に、視えないなにかを見つけて、塩を撒いて、藻を飲んで、クリスタルを握って、そういう、自分の、儀式の、対象として、先輩を、
あ、いえ。
違いますね。
違う、違う。
好き、ではなくて、これは、魂のレベルでの呼応であって、そもそも、「好き」という低次元の言葉で説明できる現象ではなく、たとえばインドのプラーナとか、中国の氣の概念とか、もっと大きな、宇宙的な、緣の、
うん。
大丈夫、整った。
魂は、嘘をつかない。
顕在意識が忘れていても、寝ている間に、魂と魂はちゃんと話している。
拓先輩の魂は、私のことを、好きだと言った。
これは、スピリットの領分だ。
現実の拓先輩が「へぇ」しか言わなくても、もう、いい。私たちはもう、繋がっている。
私は起き上がって、ローズクォーツを首にかけて、ブルーグリーンアルジーを飲んだ。
今日のバイトは、夕方から。
いつもどおり、いつもどおりの、和多志。
でも、私の魂は、もう、知っている。
◇◇◇
佐久間拓は、バックヤードでエプロンを掛けながら、同期の村田に話しかけられていた。
「お前さあ、天野のすきピだろ」
「すきピ?」
「好きな人。お前のこと好きな人。あの子、お前のことしか、見てねえじゃん」
拓は、首を傾げた。
ロッカーを開けると、扉の下から、白い粉がぱらぱらと落ちた。
粗塩だった。
拓は、しゃがんで、指でつまみ上げる。
村田が、ロッカーの陰から呆れた顔で覗き込んできた。
ペロッ……。
「これは……塩」
「塩だな」
拓は、塩の粒を、村田に見せるように手のひらに広げた。村田は、面倒そうに鼻を鳴らした。
「なんで塩」
「知るかよ」
村田は肩をすくめて、「お前のすきピがやってんだろ」と短く笑った。
拓は、塩を、指でつぶした。
別に、気づいてなかったわけじゃない。
水晶。お守り。指輪。シフト表をいつも合わせてくる、ちょっとだけ早い字。電車の隣の席に、四つ空いていたのに座ってくる、ちょっとだけ浅い呼吸。昨夜の電車で、隣でスマホをこっそり構えて、なんか録音していた、あの息のひそめ方。
全部、知ってた。
知ってて、「そう」とだけ返してきた。
返事の仕方が、それ以外、思いつかなかっただけだ。
なんて言えばよかったのか、今もよく分からない。「水晶、なんで握ってんの」と訊いて、答えが返ってきて、それで、自分はどうしたかったのか。
たぶん、何も、したくなかったわけじゃない。
拓は、短く、笑った。
「……俺、すきピなのか」
ロッカーの中の鏡に、自分が映っている。
今朝家を出るとき、なんとなく、これを着ようと思ったのを覚えている。
今日のシャツは、青だった。




