王妃エルシア
ローザリアが消えたあと王城は、壊れたものを壊れていないふりで支える場所になった。
壁の色は変わらない。
廊下の長さも、鐘の鳴る時刻も同じだ。
けれど、人の声だけが変わった。
語尾は短くなり、笑いは薄くなり、沈黙が会話の間に残るようになった。
失われたものが大きいほど、人はそれを直視できない。
直視できない喪失は、物語に包まれる。
物語になった喪失は、祈りにも怒りにも変えられるからだ。
王は語った。
ローザリアはリリシアンによって殺されたのだと。
その言葉は、王の言葉として広まり、
やがて国の言葉になり、
歴史の一行として刻まれていった。
「月影の魔女」という名が用意されると、
人々は息をするように前を向き始めた。
怒りを向ける先が定まれば、
人は歩ける。
――嘘の上でも。
エルシアは、その嘘の中で生きるしかなかった。
真実を知らない。
だから、叫べない。
証明できないことを、否定することはできない。
それでも、信じ切ることもできなかった。
なぜなら、エルシアは二人の姉を、妹として見てきたからだ。
太陽のようなローザリア。
月のようなリリシアン。
その関係が「殺す」「殺される」という言葉で結ばれるはずがない。理屈ではなく、共に過ごした時間が、その可能性を拒んでしまう。
だからエルシアは、沈黙を選んだ。
沈黙は楽ではない。
声を上げるより、
ずっと自分を削る。
――なぜ何も言わないのか。
――王を信じているのか。
問いは形を変えて、
毎日のように降り積もった。
やがて、城は次の問いに取り憑かれる。
――王家の血を、どう続けるのか。
それは恋や情ではなく、国家の呼吸そのものだった。
王位継承は出生順ではない。
聖魔法の才が、王位の正しさを証明する。
その秩序の中心に、ローザリアがいた。
彼女は太陽だった。
王家の答えであり、疑う余地のない正統だった。
だからこそ、その太陽が消えた瞬間に世界は次の光を探し始めた。
次に指された名は、
弟――アステルだった。
生後まもなく行われる祝福の儀で、
彼の聖魔法の才は明らかだった。
リリシアンが聖魔法を使えない以上、
比較の余地はなかった。
そして、エルシア自身も知っている。
自分が、アステルほどの光を持たないことを。
ローザリアが別格であることは、誰もが理解していた。アステルがその次に位置することも誰もが理解していた。
だから本来、王は退くはずだった。
勇者としての功績は国に必要だ。
けれど王位は、王家のものだ。
そのはずだった。
――アステルが消えるまでは。
誘拐という言葉では足りなかった。
姿がない。
手がかりがない。
生きているかどうかすら分からない。
「次の王」が世界から抜き取られた。
その瞬間、王城の均衡は音を立てて崩れかけた。
王位継承の順位は、冷たく次を指す。
ローザリアの次が消えたなら、その次へ。
――エルシア。
その名が呼ばれた日、初めて自分の名が重く響いた。
呼ばれた部屋は、豪奢だった。
豪奢であるほど、空虚だった。
飾りは「壊れていない」ことを示すためにある。
そこに、アレクシオンがいた。
王という肩書きが、彼の輪郭を硬くしていた。
冠がなくても、王は王だった。
なぜなら彼自身が、その肩書きに縋っていたからだ。
エルシアは知っていた。
アレクシオンにとって王であることは、責務でも権力でもない。ローザリアと繋がる最後の証。
彼は、エルシアを見た。
けれど、見ていなかった。
視線は、この場にいない誰かを追っている。
(……壊れている)
哀れだと思った。
同時に理解した。
かの王は壊れたまま王でいるしかない。
国は疲弊している。
民は祈りを失いかけている。
太陽が消え、次の光が抜き取られた。
ここで王まで失えば、世界は折れる。
だから、エルシアが選ばれた。
愛ではない。
恋でもない。
代替でもない。
制度が追い詰められ、最後に残った形だった。
私は、断れなかった。
断ったあとの形を想像してしまったからだ。
断れば、王家がどうなるのか分からなかった。
けれど、ここで崩れれば何かが取り返しのつかない形になる――
その予感だけは、確かだった。
「……かしこまりました」
声は震えなかった。
無垢な少女なら、ここで泣いたかもしれない。
けれど、無垢でいられる時間は終わっていた。
王妃になる、という言葉は、
地位ではない。
引き受けるという意味だった。
壊れた王を、王として置く。
嘘の上で進む国を崩さない。
王妃とは、王を正しくする者ではない。
王が壊れきらないよう、現実を引き受ける者だ。
エルシアは、アレクシオンを救おうとはしなかった。
彼が焦がれるのは、太陽であって、
エルシアではない。
ならば、その世界を壊さない。
それが、エルシアの選択だった。
リリシアンの名が断罪として使われるほど、エルシアは口を閉ざした。
(ローザ姉様……)
胸の奥で呼ぶ名は、
祈りのようで、痛みだった。
太陽と月は、もう戻らない。
それでも、夜は続く。
その夜に、
誰かが寄り添う光が必要なら。
自分が、それを引き受ける。
エルシアは、王妃になることを選んだ。
愛されるためではない。
理解されるためでもない。
ただ、
これ以上、失わせないために。
(第5話・了)




