王の嘘
王城の空気が変わったのは、ある日突然ではなかった。
少しずつだ。昼の光が薄くなり、夜が長く感じられるようになる。廊下を歩く足音が硬くなり、扉の開閉が慎重になる。食卓の会話が短くなり、笑い声が減る。誰もが同じものを見ているのに、誰もそれを言葉にしない――そんな沈黙が、城全体に積もっていった。
エルシアは、その沈黙の中で生きていた。
太陽のような姉の名が口にされる回数が増えるほど、かえって姉の姿は遠のいていく。祈りの場で、祝福の場で、人々はローザリアの名を呼び、彼女を象徴の中に閉じ込めていった。リリシアンはその傍らに立つことすらできなくなっていく。月が、夜の端へ追いやられていくのを、エルシアは見ていた。
そして、あの日が来た。
広間に人が集められた。
誰もが呼ばれた理由を薄く理解しながら、理解していないふりをして列を作る。空気の中に漂うのは恐れではない。恐れよりも、もっと扱いづらいもの――期待だった。人は恐れるより先に、救いを期待してしまう。救いがあると信じてしまう。
玉座は、遠くにあった。
高い段に設えられた椅子の前で、王は立っていた。冠は被っていない。けれど、それがかえって王という肩書きを強く感じさせた。装飾がないほど、人の輪郭ははっきりする。
アレクシオン。
その名はすでに城の中で神話になっていた。勇者。世界を救った男。魔族を退けた剣。人々はそう呼び、そう信じ、そう信じることで日々を繋いでいる。
けれど、エルシアは知っていた。
あの男が見ているのは、称号ではない。王冠でもない。世界でもない。
ただ一つの光だ。
だからこそ、エルシアはこの場が怖かった。
王の口から語られる言葉は、国の言葉になる。国の言葉は、歴史になる。歴史は、人を殺す。剣より静かに、確実に。
王が口を開いた。
声は落ち着いていた。丁寧で、抑制されている。耳障りなほどに整っていた。整っている言葉は、ときに真実より強い。人は整ったものを信じやすいからだ。
「聖女ローザリアは――」
その名が出た瞬間、広間の空気がわずかに震えた。誰もが息を止めた気配がした。ローザリアは、今や人々にとって祈りそのものだった。失われたものではない。失われたものにしてはいけない存在だった。
王は続ける。
「……リリシアンによって、殺された」
言葉が落ちる音は、聞こえない。
それでも、確かに広間の床に沈んだ。
誰かが小さく息を呑む。誰かが泣き声を堪える。怒りの気配がざわめきになって広がり、次いで、それを押さえ込むように「理解」が差し込まれる。理解という名の諦めだ。人は理解したふりをすることで、どうしようもないものを抱えられる。
エルシアは、動けなかった。
(……リリィ姉様が?)
言葉の形は頭の中に入ってくる。けれど意味が胸に落ちない。理解が拒まれている。喉の手前で、崩れてしまう。
否定しなければ、と思った。
叫ばなければ、と。
だが、叫べる言葉がない。
真実を知らないからだ。
エルシアはローザリアに何が起きたのかを知らない。世界が語る「聖女消失」の正確な瞬間に居合わせていない。決定的な光景を見たわけではない。ただ、太陽が消えたあとに残った暗闇だけを知っている。
だから、反論できない。
反論は事実に依る。事実を持たない者の言葉は、ただの願いになる。そして願いは、国の言葉の前では簡単に踏み潰される。
エルシアは、唇を噛んだ。
噛んだ痛みが、かろうじて自分を現実に繋ぎ留める。
王の表情は変わらない。悲しみも、怒りも、苦悩も見えない。あるのは、硬い確信だけだった。確信という名の壁。そこに触れれば指が折れる。
(……嘘だ)
喉の奥で、声にならない声が鳴った。
嘘だ、と言い切れる根拠はない。
それでも、嘘だと感じる理由はある。
――二人の姉を、誰よりも近くで見てきたから。
ローザリアは、リリシアンを守っていた。
リリシアンは、ローザリアを支えていた。
太陽と月。
互いの存在が互いの痛みになるほど、離れられない関係。
その月が、太陽を殺す。
成立しない。
理屈の手前で、感覚が拒む。
証拠の手前で、記憶が否定する。
(あの人は、姉を殺せない)
そう思った瞬間、エルシアは背筋が冷えた。
なぜ、王はそんな嘘を言うのか。
なぜ、そんな嘘が国の言葉になってしまうのか。
答えは、広間の中にあった。
人々は、怒っている。
怒っている相手は、リリシアンだ。
怒りは、矛先が必要だ。
喪失は、理由が必要だ。
そして国は、物語が必要だ。
「聖女は、妹に殺された」
この言葉は、あまりにも都合がいい。
聖女を奪ったのが魔族なら、戦争は終わらない。国はさらに疲弊し、憎しみを続けなければならない。聖女が自ら消えたのなら、人々は祈る対象を失う。祈りを失った民は、崩れる。
だから、王は物語を与える。
一人の悪を定め、怒りをそこへ集め、国を前に進ませるための物語を。
エルシアは、その構造を理解したくなかった。理解してしまえば、王が正しいことになる。国のために必要な嘘だった、と認めることになる。そうなれば、ローザリアは二度殺される。真実の上でも、物語の上でも。
エルシアは、視線を上げる。
王は、広間を見ていなかった。
彼の視線は、やはりどこか別の場所に向いている。ここにいない誰かを追っている。王は嘘を語りながら、別の真実を見ているようにも見えた。
――ローザリア。
その名は、王の口からは出ない。
出ないのに、そこにある。
エルシアは理解する。
王は国のために嘘をついたのかもしれない。
けれどそれだけではない。
王にとってこの嘘は、国の物語である前に、自分の物語でもある。ローザリアを失った痛みに、形を与えるための物語。痛みを受け止めるための物語。あるいは、痛みを見ないための物語。
嘘を語ることでしか、王は立っていられない。
そう思った瞬間、胸の奥に、冷たい同情が生まれた。同情は、優しさとは違う。優しさは相手に手を伸ばす。同情は距離を保ったまま理解する。エルシアは、その距離を選んだ。
(……私は、真実を知らない)
それでも、ひとつだけ知っている。
(リリィ姉様は、ローザ姉様を殺さない)
声にしない。
否定しない。
けれど、信じない。
エルシアは、その場で沈黙を選ぶ。
沈黙は弱さではない、
そう言い切れるほどの言葉も、
このときのエルシアは持っていなかった。
ただ、ここで声を上げれば何かが壊れると分かっていただけだ。
広間の空気は王の言葉に染まり、やがてそれが国の言葉になる。歴史が書き換えられていく。リリシアンは「月影の魔女」と呼ばれ、ローザリアは「太陽の聖女」として祈りの対象になる。
嘘の上に、国は進む。
エルシアは、その嘘の中で息をすることになる。
そして、息をするために――無垢な少女でいることを、ここで終える。
太陽が消えた夜に、
月が罪を負わされた夜に、
星はまだ名も持たないまま、ただ瞬いていた。
いつか、この夜が終わるのかどうかも分からないまま。
(第4話・了)




