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太陽と月

エルシアが最初に覚えた安堵は、姉たちの気配だった。


王城の朝は早い。まだ日が昇りきらないころ、石の床は冷たく、廊下には湯気のような白い靄が漂う。侍女の足音、衣擦れ、香の匂い。そうしたものが薄く混ざり合う中で、エルシアは小さな子どものまま立ち尽くして、二つの背中を探していた。


太陽のようなローザリア。

月のようなリリシアン。


その二人がそこにいる限り、世界は崩れない。幼いエルシアは、本気でそう信じていた。なぜなら、二人の間には言葉にしない約束があったからだ。約束というより、呼吸に近い。姉妹であることを誇示するでもなく、確かめるでもなく、ただ当然のように互いを支えている。エルシアはそれを、誰よりも近くで見ていた。


ローザリアは、いつも先に立つ。

人の期待が集まる場所に立ち、祈りの中心に立ち、責務を背負うべき場所に立つ。


けれど、彼女が強いのは、生まれつき強いからではない。エルシアは知っていた。ローザリアは、夜になると時々ほんのわずかに肩の力を抜く。その瞬間だけ、太陽の光が柔らかくなる。誰にも見られないように窓辺に立ち、遠くの街灯りを眺めながら、息を吐く。そういう時、エルシアが声をかけるより先に、リリシアンがいつもそこにいた。


リリシアンは、姉の背後に立つ。

眩い光の裏で影を抱え、誰にも気づかれない痛みを拾い上げるように静かに歩く。


けれど、彼女が静かなのは、無関心だからではない。エルシアは知っていた。リリシアンは誰よりも姉を見ている。人々がローザリアを「聖女」と呼ぶたびに、その言葉に含まれる崇拝の熱が姉を焼くことを、彼女は知っている。だからこそ、余計な言葉で姉を縛らない。必要なときにだけ、必要なものを差し出す。まるで月が、潮を引くように。


エルシアは、戦場の英雄ではなかった。


剣を握っても、手は震える。魔法を学んでも、胸の奥に残る臆病は消えない。だから彼女は、二人の背中を追うことしかできないと思っていた。追い続ければ、きっと自分も光の内側にいられる、と。日陰に落ちずに済む、と。


しかし――それは、甘い考えだった。


戦が長引くにつれ、王城の空気は変わった。廊下の声が低くなり、食卓の会話が短くなる。窓の外で鳴く鳥の声さえ、人々は不吉の兆しのように聞き取ってしまう。夜になると、遠い街の灯りが減る。光がひとつ、またひとつと消えていくように見えた。


その中で、ローザリアはさらに眩しくなった。眩しさは、時に優しさではない。燃える炎は近づけば焼ける。ローザリアが微笑むほど、人々は安心し、その安心に甘え、その甘えが彼女の肩を重くする。エルシアはそれを見て、胸が痛んだ。けれど痛みをどう扱えばいいか分からなかった。分かったのは、リリシアンだけだった。


リリシアンは、姉を守ろうとしていた。


剣で守るのではない。言葉で守るのでもない。もっと静かで、もっと残酷な方法で。ローザリアが倒れないように、無理を自覚しないように、崩れる寸前の均衡をそっと押し返している。小さな亀裂に指を差し入れて、世界が割れないように支えている。


ある夕方、エルシアは二人の姉を見つけた。訓練場の裏手、細い回廊の陰。人目につかない場所で、ローザリアがひとつ息を吐き、リリシアンがその隣に立っていた。


「……大丈夫?」


エルシアがそう言うと、ローザリアは振り返って笑った。太陽のような笑みだった。けれど、その笑みの奥に、薄い疲れが見えた気がして、エルシアは目を逸らしたくなった。


「大丈夫よ、エルシア」


ローザリアはそう言い、いつものように手を伸ばしてきた。安心させるための手。導くための手。けれどエルシアは、その手を握り返しながら、ふと隣のリリシアンを見た。


リリシアンは、何も言わない。

ただ、姉の袖口を指先で軽く整え、皺を伸ばす。その仕草は親密で、静かで、言葉より確かな支えだった。ローザリアが気づかないほど自然に、彼女は姉の身を整えている。世界が崩れないように、見えない場所で整えるのと同じように。


その瞬間、エルシアは理解してしまった。


この二人の間には、誰も割り込めない。

そして――割り込まないことで、保たれているものがある。


姉妹という言葉は軽い。けれど彼女たちの関係は、言葉の重さでは測れなかった。太陽と月――そう呼ぶのは易しい。しかし太陽が照らすほど、月は影を濃くする。月が静かなほど、太陽は眩しさの責任を負う。互いの存在が、互いの痛みになっている。それでも離れない。離れられない。支え合うことが、二人に与えられた形なのだと。


エルシアはその時、初めて自分の位置を知った。


自分は太陽ではない。

月でもない。


けれど、二人を遠くから眺めるだけの存在でもない。二人が抱えるものを、少しだけ理解できる唯一の「妹」なのだ、と。理解したからといって救えるわけではない。それでも、理解できることは一つの役割だった。


それから、エルシアは二人を「見る」ようになった。


崇拝の視線ではなく、憧れでもなく、ただ姉妹として。ローザリアが強がる瞬間。リリシアンが痛みを飲み込む瞬間。誰も気づかない沈黙の中で、二人が互いを守っている瞬間。小さな仕草や、呼吸の乱れや、言葉の端に滲む疲れを、エルシアは拾い集めるように覚えていった。


だからこそ、後に――


誰かが嘘を語った時、エルシアはそれを「信じ切る」ことができなくなる。


真実を知っていたからではない。

戦場を共にしたからでもない。


ただ、姉妹として、誰よりも近くで見てきたからだ。


リリシアンがローザリアを殺す。

その言葉が、胸の奥で形にならない。成立しない。喉の手前で崩れてしまう。理屈ではない。証拠でもない。もっと手前の、生きた実感が否定してしまう。


――あの人は、姉を殺せない。

殺すくらいなら、先に自分が壊れる。


エルシアは、そのことだけを知っていた。


世界は今、まだ崩れていない。

太陽はまだそこにあり、月もまだそこにある。

けれど、ひび割れの音が、確かに近づいている。


エルシアは、それに気づいてしまった。


気づいてしまった以上、無垢なままではいられない。

目を逸らせば済む話ではない。


彼女はまだ、何を選ぶか分からない。

何を失うかも知らない。


それでも、胸の奥に小さな確信が芽を出していた。


自分は太陽にも月にもなれない。

けれど――

この二つの光が消えたあと、夜が来るなら。


その夜に、何かを残す役目が、いつか自分に回ってくる。


エルシアはそうして、静かに大人になっていった。


太陽と月を見上げながら、

それでも自分の光がどこにあるのかを、まだ知らないまま。


(第3話・了)

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