無垢だった頃
エルシアは、幼いころから自分が特別ではないことを知っていた。
王家に生まれ、黄金の瞳を与えられても、姉たちのように世界を動かす力は自分にはない。剣を取れば手は震え、魔法を学べば理屈は理解できても、胸の奥で「これで誰かを救える」と思い切れなかった。臆病――誰かに言われたことはない。ただ、自分自身がいちばんよく知っていた。
それでも、エルシアの世界は明るかった。
理由は単純で、光が二つあったからだ。
ひとつは、太陽のような姉――ローザリア。
ローザリアが廊下を歩けば、空気が変わる。声を上げなくても、人は自然と彼女の背中を追う。迷いを許さないほどにまっすぐで、それでいて、振り返らずに置き去りにすることはなかった。
「エルシア」
名を呼ばれるだけで、胸の奥が温かくなる。差し出される手はいつも迷いがなく、触れれば自分の足元が確かになる。太陽とは、照らすことを意識しないものなのだと、当時のエルシアは思っていた。
もうひとつは、月のような姉――リリシアン。
多くを語らず、前にも出ない。けれど、気づけばそこにいる。夜の庭園で星を見上げていれば、いつの間にか隣に立ち、短く「寒い?」とだけ言って外套を掛ける。問いに答えなくても、彼女は何も言わない。月とは、そうやって夜を支える存在なのだと、エルシアは思っていた。
太陽と月。
その間にいる限り、自分が平凡であることは問題にならなかった。照らすことも、導くこともできないなら、せめて影にならず、そばにいる。それが当然だと、疑いもしなかった。
ある日、城がざわめいた。
魔族との戦いが激しさを増す中、勇者が現れたという噂が広がった。王城の広間に人が集まり、期待と不安が混じった空気が満ちる。エルシアは列の後ろから、その姿を見た。
鎧をまとい、剣を携え、迷いのない足取りで進む男。
強い人だ、と直感した。恐れを知らないように見えた。
――羨ましい。
自分にはないものを、彼は持っている。そう思った瞬間、胸の奥がざわつく。けれど、その感情はすぐに別の形へ変わった。
男は、周囲を見ていなかった。
大臣も、騎士も、集まった人々も。称賛も、期待も、彼の視線を止めない。まるで、この場とは別の場所に向かって歩いているようだった。
エルシアは、理由の分からない違和感を覚えた。
――この人は、何を見ているのだろう。
答えは、その場にはなかった。
けれど、男の視線の向きは、はっきりしていた。
それは、ここにいない誰か。
すでに心の中に在る光。
(……焦がれている)
その言葉が、遅れて胸に落ちる。
勇敢さだと思ったものの正体は、正義でも使命でもない。
手に入れずにはいられないと、身体が訴える衝動。
焼かれると分かっていても、近づかずにはいられない光。
太陽を見上げる者は多い。
だが、太陽に近づこうとする者は少ない。
男は、その少ない側の人間だった。
ローザリアは、その場にいなかった。
それでも、エルシアには分かった。
この男は、
世界ではなく、
称号でもなく、
ただ一つの光を見ている。
太陽のような姉と、
月のような姉。
そして、その光に引き寄せられるように、前へ進まずにはいられない者がいる。世界は、そうやって回っているのだと、エルシアは信じた。
自分はその輪の外にいる。
けれど、外にいるからこそ見えるものもある。
それでいいと、当時は思っていた。
――このときまでは。
無垢でいられる時間が、どれほど短いのか。
太陽も月も、いつか夜の向こうへ消えてしまうことを。
そして、自分がその後に残るとは、思いもしなかった。
このときのエルシアにとって、星はまだ、ただの星だった。
寄り添い、消えずに瞬く存在になるなど、知るはずもなく。
(第2話・了)




