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星のまどろみ

夜は、音を失っていた。


王城の奥、幾重にも廊下を折れ、厚い扉をいくつも越えた先にある一室。そこはかつて、かつて王妃の部屋と呼ばれた。今はもう、その名の響きだけが古い絹のように壁に残っている。香の匂いは薄れ、飾り棚の上の銀は鈍い光を宿し、絨毯は歩く音を深く沈める。時が積もる場所――そういう空気だった。


エルシアは寝台に横たわっていた。


眠っているわけではない。目を閉じてもいない。けれど、起きていると言い切るには意識が柔らかすぎた。灯りの揺れを眺めながら、ひとつ息を吸い、ひとつ吐く。その繰り返しが、奇妙なほど重い。胸の内側が、呼吸のたびにかすかに軋む。それでも痛みはなく、恐れもなかった。


――長く、生きた。


言葉は声にならず、ただ胸の底に落ちた。誇りでも後悔でもない。誰かに聞かせるための感慨でもない。石が水に沈むように、淡々と事実を確かめるだけの感覚だった。


扉の向こうに、人の気配がある。


布の擦れる小さな音。抑えた息遣い。誰かがそっと歩みを止める気配。耳を澄ますほどのことではない。エルシアはもう、それが誰であるか分かっていた。息子たちだろう。その背後には孫たちの気配も混じっているはずだった。


泣き声は聞こえない。


それが少しだけありがたかった。泣かれると、言葉を返さなければならない気がする。慰めるべきか、笑うべきか、何かを遺すべきか。けれど今は、どの役目も必要なかった。王妃であることも、母であることも、祖母であることも――すべてが薄衣のように身体からほどけていく時間だった。


天井の模様を眺める。


金糸で縫い取られた蔓の意匠は、若いころは豪奢に見えた。今はただ、一本の線がどこへ続くのかを追うだけの図に見える。人の目は老いるのではなく、必要のないものを削いでいくのかもしれない。


意識が、ふっと滑る。


夜空だった。


冷たい空気。湿りのない風。王城の高台から見上げた星。幼いころ、眠れない夜に抜け出して、石の冷たさに足の裏をじんとさせながら空を眺めていた。星は多すぎて数えられず、そのくせ一つ一つがきちんとそこにあって、消える気配などなかった。


――ああ。


その夜空の記憶の中に、自然と一つの背中が浮かび上がる。


(……ローザ姉様)


名を呼んだわけではない。けれど、その呼び方だけは、いまも正確に胸に残っている。呼び捨てにできない。できるはずがない。自分がまだ幼いころ、何も分からないまま泣きそうになった時、最初に差し出された手はいつもその人のものだった。


ローザリア。


太陽のような人だった。照らすことを意識せず、導くことを誇らず、それでも周囲の空気を変えてしまう。彼女が歩けば人が動く。彼女が微笑めば迷いが消える。世界が彼女の秩序に従ってしまうような、不思議な力があった。


エルシアは、その背中を見て育った。


その背中は眩しく、同時に遠い。追いかけても届かない光。それでも、見失わない限りは道を間違えないと信じられた。太陽とは、そういうものなのだと、当時のエルシアは思っていた。


記憶は次々に、順番を守らず浮かぶ。


柔らかな月光が差す廊下。足音を殺す影。淡い色の髪を揺らし、言葉少なく姉の後ろに立つ姿。


リリシアン。


月のような人だった。声を張ることはなく、主張を通すことも少ない。それでも、夜に必要な光を絶やさない。誰も気づかない場所で、誰も触れない痛みを抱えて、静かにそこにいる。月がいなければ夜はただの闇になってしまう――そんな存在。


エルシアは、二人の姉の間で育った。


太陽と月の間にいる限り、自分が平凡であることは問題にならなかった。照らせない、導けない、それでもいい。自分には自分の居場所がある。そう信じていた。信じたまま、少女は大人になり、王妃になり、母になり、祖母になった。


そして今、夜の底で、ようやく気づく。



無垢でいられる時間は思っていたよりずっと短く、

その先に続くものを守るには、置いていくしかないものだった。


太陽も月も、永遠ではない。光はいつか、手の届かない場所へ行ってしまう。人はそのとき初めて、自分が何を見上げていたのかを知るのだ。


呼吸が、少しだけ浅くなる。


エルシアは焦らなかった。


窓の外で風が鳴る。どこかで鐘がひとつ、遠くに響いたような気がした。時間を告げる音なのか、ただの幻聴なのか、分からない。分からなくても構わなかった。今はただ、この静けさが続けばいい。


扉の向こうの気配が、少し近づく。


誰かが小さく咳払いをして、また黙る。入ってくる気配はない。きっと、勝手に踏み込まないように、互いに合図を送り合っているのだろう。エルシアはその慎重さに、小さく可笑しみを覚えた。かつて王妃だった自分を、人々はいまだに壊れ物のように扱う。


(……まだ、終わらない)


そう思う。


終わりが近いことは分かっている。けれど、まだだ。まだ、記憶はここにある。星のように小さな光が、胸の奥で消えずに瞬いている。その光を辿れば、どこへでも戻れる気がした。幼い夜空へ。姉の背中へ。月の静けさへ。


エルシアは目を閉じなかった。


閉じれば、記憶が夢に変わってしまう気がしたからだ。今はまだ、夢ではなく、確かなものとして抱いていたかった。夜は長い。星が完全に消えるには、もう少しだけ時間が必要だ。


エルシアはただ、息をする。


ひとつ吸って。

ひとつ吐く。


そして、まどろみの底で、静かに次の記憶の扉が軋むのを待った。


(第1話・了)

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