侘びと黄金
天正十九年、二月。暦の上では春を迎えたが、京の空気はなお冷たく、聚楽第の庭にほころぶ梅や椿の花も、どこか寒々しい。
その華やぎとは裏腹に、豊臣秀吉の胸中は荒野のように凍りついていた。大陸へと広がる夢は日に日に熱を帯びる一方、弟・秀長の不在という現実が、その熱を冷やす氷の刃となって突き刺さっていた。
千利休は、その空白を埋めようとするかのように動いていた。秀長の死は、彼の胸から政治的な逡巡を奪い去った。
「この国を、破滅の淵から救わねばならぬ」
その思いを胸に、彼は茶室をただの侘びの場ではなく、静かなる諫言の砦へと変えていった。黒田官兵衛、細川忠興、古田織部…。かつて秀長の温和な裁きを支えた大名たちが、利休の点てる一碗の中に、言葉なき結束を求めて集い始めていた。
やがて、その静かな奔流は、ついに最後の扉へと至る。
江戸城下、徳川家康の屋敷。簡素な茶室に迎え入れられたのは、利休ただ一人であった。
「内府様」
利休は一礼し、静かに口を開いた。
「殿下のお心は、もはや明国にございます。されど彼の国はあまりに広く、この戦は勝ち目がありませぬ。日の本が疲弊する前に、誰かがお止めせねば…」
家康は、天目茶碗を手に取り、その静かな光をじっと見つめていた。やがて、淡々と口を開く。
「見事なお点前にございますな、宗易殿。この静寂こそ宝。……されど、太閤殿下はこの国のただ一人の船頭。我ら乗組の者は、その舵に従うほかありませぬ」
言葉は柔らかくとも、目は笑っていなかった。
家康は利休の誘いが、死地への同行に他ならぬことを悟っていた。彼は巧みに受け流し、決して舟には乗らなかった。
利休もまた、その返答にすべてを察した。この国で秀吉を止められる者は、もはや誰もいないのだ。
数日後。京・大徳寺に新たな山門が完成した。その楼上には、草履を履いた利休の木像が、静かに京の町を見下ろしていた。
「―――前代未聞の不敬にございます! これでは殿下も、利休の足下をくぐることになりましょうぞ!」
石田三成の報告は、秀吉の怒りを呼び覚ました。
呼びつけられた利休の前で、秀吉は冷ややかに告げる。
「宗易。申すべきことがあるなら申せ」
利休は臆することなく応えた。
「山門とは、俗世と仏道とを分かつ門。そこをくぐる者は、関白であろうと一介の茶人であろうと、すべての位を捨て、仏の前にただの人として立つべき。私は殿下に、そして己に、そのことを忘れぬよう、あの像を置き申したまで」
それは、あまりに危うい諫言であった。
「黙れ!」
秀吉の怒声が響き、火鉢が蹴り倒され、赤い灰が畳に散った。
「このわしに説教するか! 仏の道だと!? 謙虚になれと!? その口で裏では家康と通じ、わしを欺こうとしたか!」
秀吉の激情は嵐のごとく荒れ狂ったが、やがてその声は刃のように冷たく変わった。
「……弟はわしの夢を理解したうえで諫めた。だが、お前は違う。わしの夢そのものを穢れと断じ、天下を巻き込む。もはや許せぬ」
炎のような眼差しで利休を睨みつけたのち、秀吉は燃え尽きたように静まり返った。
「宗易を、聚楽第より追放せよ。堺にて謹慎を命ずる」
利休は一礼し、何も言わず立ち去った。
残された秀吉は、散らばる灰を見つめていた。利休を排したところで、心の空洞は埋まらなかった。秀長の不在という穴は、なお深まり、やがて国全土を呑み込むほどの暗い虚無へと広がっていくのだった。
「……秀長であったなら儂をここまでに怒らせず引き下がって従ってくれたであろうに。」
その後、利休は頑なに意見を曲げることはなくついに切腹となった。
秀吉を諌められるものはもういない。