第16話 準備
海の向こうで光っていたのは、最初は陽の加減かと思った。だが、ペイジンの胸の奥で小さな警鐘が鳴っていた。あれはただの夕日ではない。魔力の匂いがする。
「ニィ……やっぱり何かあるよ」
ペイジンは食べかけの果物をそっと置き、立ち上がった。風が彼女の髪を揺らし、花畑の青い花弁がさらさらと鳴った。
「うん。私も感じてるニィ。魔力の波……それもかなり古いタイプの」
ニィが言い終わるより早く、海の向こうで一瞬だけ強い光が走った。稲妻のような閃光。しかし音はない。まるで世界の一部が無言で裂けたような感覚だけが、二人の足元の大地に伝わってきた。
ペイジンは息をのんだ。あれは呼んでいる。自分たちを。
「行くしかないみたいだね」
「でも……準備はしたほうがいいニィ。あれはただの自然現象じゃない」
海風が一層強く吹き、花畑をざわめかせた。平和な時間は終わりを告げようとしている。
ペイジンの手が一瞬止まった。頬をなでる海風が、急に冷たさを増した気がした。
「う……また……なにこれ……」
彼女は胸を押さえ、ゆっくりと立ち上がる。頭の奥に突き刺さるような痛み。まるで真夏にかき氷を急いで食べたときに走る、あの鋭い冷たさ。だがこれはもっと深いところから来る。骨の芯まで凍りつくような寒気だった。
「アイスクリームを食べた時の……あの脳しんとうが……一気に……体中に……」
ペイジンの吐息が白くなり、指先から熱が抜けていくのがわかる。花畑の草が凍りついたように、風の音さえ止まったかのような感覚。
ニィが慌てて駆け寄った。
「ペイジン! 魔力の波が……ここまで強くなってるニィ!」
ペイジンの足元の土がうっすらと白く変わっていく。氷の冷気が海の向こうから押し寄せてきているのだ。まるで時間そのものが凍りつくかのように。
ペイジンの肩が小さく震えた。海から吹きつける風が、さっきまでの爽やかさを失い、刺すような冷たさを帯びている。
ニィ「うう……なにこれ……体の奥まで冷たくなっていくニィ……」
ペイジン「ものすごく強いオーラと……それに寒い……ただの冷気じゃない……」
二人の視線は自然と海の向こうに向かう。さっきまで穏やかに光っていた波の表面が、今は鈍い青白い光をまとい、まるで別の世界とつながろうとしているかのようだった。
ニィ「魔力の気配……でも今までのとは違うニィ。これ……氷の属性……?」
ペイジン「ううん、もっと深い……ただの氷じゃない……なにか……時間まで凍らせるような……」
彼女の吐息が白く染まり、花畑の草が次々に霜をまとい始めた。冷気が確実に近づいてきている。
ペイジン「あれ……? 戻った……さっきの寒気が消えた……?」
ニィ「結局、なんだったんだニィ? あの強烈な魔力の波は……」
その時だった。花畑の向こうから軽やかな声が響いた。
ジュン「やあ〜、二人とも……☆」
振り返った瞬間、ペイジンもニィも一歩後ずさった。
ニィ「お、お前は……!」
ジュンはまるで何事もなかったかのように、にこやかに手を振りながら近づいてくる。
ジュン「私もね、変な気配がして偶然ここに来ただけなんだよ。魔法少女さん。あなたとちょっとお話がしたいの……」
ペイジン「……私と、話を……?」
夕日の光がジュンの影を長く伸ばし、花畑の色が静かに深まっていく。ジュンの微笑みは柔らかいが、その瞳の奥に何か隠された思惑があることを、ペイジンは本能的に感じ取っていた。
遠くのどこか――まだ目に見えぬ場所から、ふいに空気が揺れた。
一瞬の静寂。海辺の花畑を包んでいた夕方の光が、ひと呼吸の間だけ色を失ったように見えた。その刹那、鋭い冷気が針のように空を貫き、ペイジンたちの方へまっすぐ突き刺さってきた。
ペイジン「っ……! また……来る……!」
まるで冬そのものがひとつの生き物になって、牙をむき襲いかかってくるかのようだった。
ニィ「う、うう……なにこれ……前よりも強いニィ……!」
体の表面を撫でる風ではない。これは内側に食い込んでくる冷気。アイスクリームを一気に食べたときに脳天を直撃する、あの痛みが何十倍にも増幅されて、心臓の奥まで凍りつかせる。
ペイジン「……冷たい……息が……止まる……!」
彼女の頬が瞬く間に白く染まり、吐息が凍りとなって舞い上がる。ニィの足元の草花も、カチリと音を立てて霜に覆われていった。
ジュン「……これはただの寒波じゃないようね。......物凄い魔力!」
ジュンの声は落ち着いていたが、その瞳の奥に初めて険しさが宿っていた。
そして次の瞬間、波打ち際の向こう――地平線の彼方で、青白い光が再びきらめいた。まるで世界の境界そのものが裂け、そこから冬の化身が姿を現そうとしているかのようだった。
ペイジン「……あれ? 収まった……結局、今のなんだか分からなかったね……」
海風がまた穏やかさを取り戻し、花畑を静かに揺らした。さっきまで霜に覆われていた草花も、嘘みたいに元の色を取り戻していく。
ニィ「まるで全部、夢だったみたいニィ……」
ペイジンが額の汗をぬぐったとき、ジュンは肩をすくめて笑った。
ジュン「ふふ……なんだ、せっかくのピクニックが台無しじゃない。あれの正体は私にもわからないけど――まあ、ちょっと気になるわね」
彼女はイタズラ好きな笑みを浮かべ、スカートの裾をひらりと翻した。怪盗の女の子らしい軽快さで、まるで風そのもののように立ち回る。
ジュン「ねえ、魔法少女さん。あなたと私、少し似ている気がするの。退屈を嫌って、何か面白いことを探し回るところが」
ペイジン「私が……怪盗と似てるって言うの?」
ジュンは答えず、ただ不敵に笑ってみせた。その瞳には、また次のイタズラを企んでいるような光が宿っていた。




