引越しの朝
「詩織、準備はできた?」
母の声が階下から聞こえてくる。私は最後の段ボール箱にガムテープを貼りながら、小さくため息をついた。
どうして急に転校しなければならないのか。父の仕事の都合だと言われたが、詳しい説明は一切なかった。ただ「明日から新しい街に引っ越す」とだけ告げられ、有無を言わさず荷造りをさせられた。
十六年間住み慣れた街を離れることに、言いようのない不安を感じていた。友達との別れも満足にできないまま、まるで夜逃げのような引越し。
「詩織!」
「はーい、今行く」
重い足取りで階段を下りる。玄関にはすでに引越し業者が来ており、次々と荷物を運び出していた。
「さあ、車に乗って」
父が促す。その表情は穏やかだが妙に硬く、わずかに目が揺らいで見える。
車に乗り込み、見慣れた街並みを眺める。もう二度と戻ってこられない気がして、窓ガラスに手を当てた。
「心配しなくていいの。新しい街もきっと気に入るわよ」
母が振り返って微笑む。でも、その笑顔もどこか作り物めいていた。
高速道路を何時間も走り、やがて山間の街に入った。古い建物が立ち並び、どこか時が止まったような雰囲気の場所だった。
そして、ある瞬間——
街の境界線を越えた途端、私の体に異変が起きた。
手足が勝手に動き始める。まるで見えない糸で操られているかのように。
「あ……」
声を上げようとしたが、それすらできない。体の自由が完全に奪われていた。
両親に助けを呼ぼうにも、何も出来ない。
「もうすぐ新しい家よ」
母の声が遠くに聞こえる。私は心の中で叫んだ。
——助けて!体が勝手に動く!
でも、その叫びは誰にも届かない。
車は住宅街を抜け、小さな一軒家の前で止まった。
築数十年はあるだろう、古びた家だった。
「さあ、着いたわよ」
私の体は、まるで何事もないかのように車から降りた。足取りは軽やかで、表情は明るい。でも、それは私の意思ではない。
家の中を見て回る間も、体は勝手に動き続ける。
「わあ、素敵な部屋!」
口が勝手にそう言った。私の本心ではない。この薄暗い、カビ臭い部屋のどこが素敵だというのか。
「気に入ってくれて良かった」
父が安堵の表情を浮かべる。
引っ越し作業が終わり、夜になっても、体の自由は戻らなかった。ベッドに横になっても、決められた姿勢しか取れない。まるで人形のように。
明日から新しい学校。どんな恐怖が待っているのか、想像するだけで震えが止まらない。
でも、体は穏やかな寝息を立て始めた。
私の意思とは関係なく。
そして。
朝の光が窓から差し込む。
体が勝手に起き上がり、カーテンを開けた。口元には爽やかな笑みが浮かんでいる。でも、心の中は絶望で一杯だった。
「おはよう、詩織」
母が朝食を用意していた。
「おはよう、お母さん」
明るい声で返事をする私。もちろん私の意思じゃない。
制服に着替え、鏡の前に立つ。艶やかな黒髪を丁寧にとかす手つきは慣れたもの。まるで何年もこの動作を繰り返してきたかのように。
「行ってきます」
玄関で靴を履き、外に出る。
学校への道のりも、体は迷いなく進んでいく。初めて歩く道のはずなのに。
校門をくぐり、職員室へ向かう。先生たちへの挨拶も完璧だった。
「転校生の佐々木詩織です。よろしくお願いします」
優雅にお辞儀をする私を見て、先生たちは感心したような顔をしている。
「礼儀正しい生徒さんですね。では、教室へ案内しましょう」
担任の先生に連れられて廊下を歩く。心臓が早鐘のように打っている。でも、表情は平静を装っている。
教室の前で立ち止まる。
「では、入ってください」
扉が開かれた瞬間、教室中の視線が私に集まった。
そして——私は「彼」を見た。
窓際の席に座る、ボソボソと独り言を呟いている男子生徒。髪はボサボサで、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべている。正直、近寄りたくないタイプだった。
でも、私の体は違う反応を示した。
頬が熱くなり、心臓がドキドキし始める。まるで恋に落ちたかのように。
——なに!?なんで!?
心の中で叫ぶが、体は言うことを聞かない。
「今日から転入生が来ることになった。入ってきなさい」
私は教室に入り、黒板の前に立った。
「初めまして、佐々木詩織です。よろしくお願いします」
優雅にお辞儀をすると、教室中がざわめいた。
「佐々木さんの席は……そうだな、神宮の後ろにしよう」
——神宮?
その名前を聞いた瞬間、体の反応がさらに強くなった。まるで運命の相手に出会ったかのような、激しい感情が湧き上がる。
でも、それは私の感情ではない。
指定された席へ向かう。「神宮」と呼ばれた男子生徒の横を通り過ぎる時、私の体は勝手に立ち止まった。
(よろしく)
彼がボソボソと呟く。何を言っているのかよく分からないが、なぜか理解できたような気がした。いや、理解できたように体が反応した。
私は驚いたような顔をして、頬を赤く染めた。
「は、はい!よろしくお願いします!」
声が上ずっている。まるで好きな人に話しかけられて舞い上がっている女の子のように。
——違う!私はこんな男が好きじゃない!
でも、体は私の意思を無視して、彼に好意的な態度を取り続ける。
席に着いてからも、前の席の彼ばかりを見つめてしまう。黒板なんて全く見えていない。
彼の一挙一動に心臓が高鳴る。ペンを落として拾う仕草、ノートに何かを書く手つき、時折見せる不気味な笑み。
普通なら気持ち悪いと思うはずなのに、私の体はそれを「魅力的」だと感じている。
——助けて……誰か助けて……
心の中で泣き叫ぶが、表面上は恋する乙女を完璧に演じている。
休み時間になると、女子たちが私の周りに集まってきた。
「詩織ちゃん、どこから来たの?」
「前の学校はどんなところ?」
質問攻めにあいながらも、私の視線は彼から離れない。
「あの……」
気がつくと、私は彼に声をかけていた。
「教科書、まだ全部揃ってなくて。見せてもらってもいい?」
——やめて!なんで自分から話しかけるの!?
(いいよ。はい)
彼が教科書を渡してくれる。手が触れた瞬間、体がビクッと震えた。
——いや!気持ち悪い!
でも、口から出るのは違う言葉。
「あ、ありがとう……優しいんだね」
顔が真っ赤になっていく。周りの女子たちがニヤニヤしながら見ている。
「詩織ちゃん、もしかして……」
「月人くんのこと気になるの?」
——月人?それが彼の名前?
「え!?そ、そんなことないよ!」
慌てて否定する私。でも、その仕草すら「好きな人を意識している女の子」そのものだった。
昼休みになった。
なぜか私の体は、屋上へ向かって歩き始めた。
——どこに行くの!?やめて!
屋上の扉を開けると、そこには月人がいた。一人でお弁当を食べている。
いや、よく見ると他にも女子生徒が数人いた。後輩らしき女の子たちが、彼の周りに群がっている。
「月人先輩!」
「先輩、一緒にお昼食べてもいいですか?」
彼女たちは月人にべったりとくっついている。膝枕をしたり、背中にもたれかかったり。
普通に見れば異常な光景だ。でも、なぜか自然に見える。それくらい動きに違和感がない。
まるで完璧な演技を見ているようで、ふと脳裏に考えがよぎった。
——あの人たちも……私と同じ?
「月人くん……やっぱりここにいたのね」
新たに女子生徒が現れた。美樹と呼ばれていた、とても美人のクラスメイトだ。
「ちょっといい?二人で話したいことがあるの」
後輩たちが去った後、美樹は月人に告白を始めた。
「月人くん、ずっと言いたかったことがあるの」
「私、月人くんのことが好き。付き合ってください」
——え?
私の体に激しい感情が湧き上がる。嫉妬?いや、これも操られている感情だ。
美樹が月人の頬にキスをして去っていく。
その瞬間、私の体が動いた。屋上から出ていく。
午後の授業中、私の体は月人に近づいた。
「神宮くん」
彼が私に気づく。
「教科書、ありがとう。返すね」
(いや、まだ使うだろ?持ってていいよ)
「え?でも……」
(教科書が届くまで貸しとくよ。困ったときはお互い様だ)
彼がボソボソと何か言っている。よく聞き取れないが、なぜか体は高揚し、じーんという感覚が駆け巡る。
涙が溢れてきた。
——なんで泣いてるの!?何を言ったの!?
「どうした?何か変なこと言った?」
月人が心配そうに(?)聞いてくる。相変わらず何を言っているのか分からないが。
「ううん、違うの。ただ……こんなに優しくされたの初めてで」
——嘘よ!こんなことくらいで!
涙を拭いながら、私は彼をじっと見つめた。
心臓の鼓動が高まる。拳を握りしめる。まるで決意を固めるかのように。
口が勝手に開く。
——やめて!お願いだからやめて!
でも、口は私の意思に反して動き始める。
しかし、その時——
「月人くん、待ってたよ」
三年生の先輩たちが現れた。それぞれ個性のある美人だった。
「あの、先輩方も俺に用事が?」
「ええ。大事な話があるの」
「単刀直入に言うわ。私たち三人とも、あなたのことが好きなの」
「「「付き合ってください!」」」
三人同時の告白。
私の体が震える。そして——
「私も!私も言わせて!」
勝手に声が出た。
袖を掴み、震える声で言葉を紡ぐ。
「今日、神宮くんに初めて優しくされて、胸がドキドキして止まらないの。こんな気持ち初めて。私、神宮くんのことが好きです!付き合ってください!」
——違う!好きじゃない!こんな気味の悪い男!
でも、体は恋する乙女そのものだった。頬を赤らめ、潤んだ瞳で彼を見上げている。
月人はボソボソと何か言った後、結論を出した。
(みんなの気持ちは嬉しい。でも、一人を選ぶなんてできない)
「じゃあ……」
「みんなと付き合えばいいじゃない」
先輩の一人がそう提案する。
「現代では珍しくないわよ。それに、あなたを独り占めするのは無理だってみんな分かってる」
「私たちは月人くんと一緒にいられれば、それで幸せだから」
私の体も、勝手に頷いた。
——嫌だ!なんで頷いてるの!?
こうして、私は月人と「付き合う」ことになってしまった。
正確には、彼の「彼女の一人」として。