終わらない日常
朝の光が襖越しに差し込む。
私の見ている景色が変化する。
布団があった場所から、立っている場所へ。景色が下から上へ移動する。襖の前に来る。襖が開く。
「月人お兄ちゃん、起きて!遅刻しちゃうよ!」
音が出る。明るく、元気な音。
私はこれを見ている。もう何回も何回も同じことの繰り返し。
景色が変わる。
音が出る。
顔というものが変化する。
私には何もできない。ただ見ているだけ。
私って何だろう?
この見える景色、この聞こえる音、全部何か別のものが作っている。じゃあ、この「見ている何か」が私?
「ん……もう朝か」
月人が重い瞼を開け、口を動かす。
顔の筋肉が動く。口角が上がる。心臓の音が速くなる。顔の表面温度が上がる。
恋してる女の子の反応。
この景色の持ち主は、月人が好きらしい。
「もう!いつまで寝てるの!」
景色が激しく変化する。布団のところへ移動して、月人の布団という物体が取り除かれる。
大きな胸が慣性で揺れる。
「わかった、わかった。起きるよ」
彼が起き上がる。
首が上下に動く。部屋から出る。
「朝ごはん用意してあるから、早く着替えて」
口を閉じ、空気を頬の内側に送る。膨らんだ頬。
廊下という場所を移動しながら、私は観察する。
もし……もし何?
「動かす」という概念を、他の人は理解しているらしい。でも、それがどういうことか分からない。
景色が変わることと、自分で何かをすることの違いが見えない。
台所で朝ごはんの準備という行為が行われるのを、私は見ている。
手の筋肉が収縮と弛緩を繰り返す。味噌汁をよそい、ご飯を盛る。
十六年間、毎日同じこと。
月人が居間に入ってくる。
「いただきます」
「今日は転校生が来るんだって。楽しみだね」
口の形が変わり、声帯が振動する。
「そうなんだ。どんな人だろうな」
「月人お兄ちゃんのクラスに来るらしいよ。きっとまた……」
声帯の振動が止まる。
「また?」
「ううん、なんでもない!ほら、早く食べないと」
視線が逸れる。話題転換の動作。
私は知っている。月人がすごくモテること。そして、転校生もきっと月人を好きになること。
この街の女の人は、みんな月人が好き。
この景色の持ち主も。
学校への道。
景色が月人の隣をぴったりくっついて移動する。
石段を下りる時、胸部が彼の腕に接触する。
「弓子、そんなにくっつかなくても」
「いいじゃない。誰も見てないし」
いつものやり取り。
でも、月人は嫌がらない。眉が少し下がり、口元が困ったような形になる。
「おはよう、月人くん!」
美樹が現れる。学校で一番きれいな子。
彼女も月人が好き。
「一緒に行ってもいい?」
「もちろん」
美樹が反対側に並ぶ。
腕の筋肉が収縮し、月人の腕を強く掴む動作。
おそらく、所有欲の表れ。
でも私は何も思わない。
ただ、景色がそう変化してるのを見てるだけ。
学校に着く。
後輩たちが群がってくる。
「月人先輩、おはようございます!」
「先輩、これ、お弁当作ってきました!」
みんな同じ。瞳孔が開き、声のトーンが上がる。
月人への好意の表出。
景色は、少し離れた場所から彼を見る位置にある。
眉が少し下がり、口元が緩む。寂しさの表情。
教室に入ると、転校生の話でいっぱいだった。
きれいな人らしい。
また月人を好きになる女の人が増える。
景色は、自分の席で静かに座っている状態。
でも、心拍数が上昇している。不安の生理反応。
転校生が入ってきた。
佐々木詩織。
確かに美しい造形。そして、月人を見た瞬間、頬の毛細血管が拡張した。
予想通り。
詩織は月人の後ろの席になった。
私は離れた席から観察する。
詩織が月人を見る。
顔が赤くなる。
声をかける。
教科書を借りる。
いつもと同じパターン。
でも、一つ違うことがある。
詩織の目。
瞬間的に、眉間に皺が寄った。瞳孔が収縮した。
すぐに消えたけど、確かにあった。
面白い。
彼女は今、二つの感情の間で揺れている。
月人への突然の好意と、それに対する恐怖。
本物の感情が、一瞬だけ表面に出た。
他の女性たちには見たことがない反応。
昼休み。
月人は屋上にいる。
景色は教室でお弁当を食べている状態。
でも、私の注意は詩織に向いている。
彼女は箸を持つ手が微かに震えている。
月人を見るたび、表情筋が複雑な動きをする。
笑顔を作ろうとして、一瞬だけ眉をひそめる。
面白い。
午後の授業中、美樹は口角が上がりっぱなし。
告白が成功したらしい。
でも、詩織は違う。
ノートを取りながら、ほんの一瞬、動きが止まる。
何かと戦っているような、ぎこちない動作。
放課後。
景色は、月人を待っている状態にある。
「月人お兄ちゃん、一緒に帰ろう」
「ああ、ちょっと待って」
私は詩織を見ている。
彼女は月人を見ている。
瞳孔は開いている。好意のサイン。
でも、同時に眉間の筋肉が緊張している。
まるで、自分の感情に驚いているような。
帰り道。
景色は月人に寄り添って移動している。
「聞いたよ。また告白されたんだって?」
「ああ……なんでみんな俺なんかを」
「月人お兄ちゃんは自分の魅力に気づいてないだけだよ」
声帯が優しい振動を作る。
でも、目の周りの筋肉が少し緊張している。
「でも、私はずっとお兄ちゃんの一番近くにいるから」
夕日が顔を照らす。
光の加減で、肌がきれいに見える。
家に帰る。
神社は静か。
「お風呂、先に入る?」
「弓子が先でいいよ」
「じゃあ、お先に」
風呂場で服を脱ぐという現象が起きる。
鏡に映る姿を見る。
大きな胸。細い腰。長い脚。
きれいな体。
月人を誘うための体。
でも、私には関係ない。
これは私の体じゃない。
ただの入れ物。
私は見てるだけ。
お湯に浸かりながら、詩織のことを考える。
彼女は何かが違う。
他の女性たちは、月人への好意を自然なものとして受け入れている。
でも詩織は、その感情に戸惑っている。
まるで、急に植え付けられた感情だと気づいているような。
彼女も、私と同じように「見ている」のかもしれない。
ただし、まだ完全じゃない。
抵抗している。
無駄なのに。
日々が過ぎていく。
月人の「彼女」は増えていく。
美樹。
先輩たち。
後輩たち。
詩織。
葵。
そして、いずれ私も。
みんなで月人を分け合う。
異常な状況だけど、誰も疑問を持たない。
詩織以外は。
土曜日。
月人は朝から晩までデート。
景色は家で待っている状態。
「月人お兄ちゃん、今日は忙しいんだよね」
声が低くなり、唇が少し突き出る。拗ねた表現。
「ごめん。みんなとの約束があって」
「分かってる。でも、たまには私とも……」
声帯の振動が途中で止まる。
眉が下がり、視線が落ちる。
月人が出かけた後、景色は部屋で本を読む状態になる。
恋愛小説。
ページをめくる音だけが聞こえる。
本を読む時間は、私にとって貴重だ。
ただし、目が次の文字を追う前に話を認識しないと、二度と理解する機会は訪れない。
でも、私の意識は本にない。
詩織のことを考えている。
彼女は今、どうしているだろう。
月人とのデートで、またあの違和感を感じているだろうか。
夕方。
月人が帰ってくる。
目の下に薄く隈ができている。表情筋の緊張が解けない。
疲労の兆候。
「お帰り、お兄ちゃん」
景色は玄関で出迎える位置にある。
「みんなとのデート、楽しかった?」
「まあ、それなりに」
「そう……」
口角が下がる。すぐに上がる。
表情の切り替え。
「お風呂沸いてるよ。ご飯もすぐできるから」
「ありがとう、弓子」
月人の手が頭に触れる。
髪を撫でる動作。
景色の目が細くなる。心拍数が上がる。
幸せの生理反応。
でも、私は何も感じない。
夕ご飯の時。
「弓子、明日は一日空いてるから、どこか行こうか」
月人が言う。
景色の筋肉が一斉に反応する。
「え?本当?」
瞳孔が開く。声が高くなる。
「うん。弓子の行きたいところに」
「やった!じゃあ明日はお兄ちゃん独占だね」
腕が伸び、月人の体に巻きつく。
胸部が彼の体に押し付けられる。
「ちょ、弓子」
「いいじゃない。誰も見てないし」
そして、唇が頬に触れる。短い接触。
「おやすみ、お兄ちゃん」
部屋に戻る。
ベッドに横たわり、天井を見る。
明日のデート。
でも、私の興味は別のところにある。
詩織は、私と同じなのだろうか。
そして、どこまで気付いているのだろう。
月人の周囲の異常さに。
自分の抵抗の無意味さに。
彼女だけが、面白い。
夏祭りの日。
神社は朝から騒がしい。
景色は準備を手伝っている状態。
「月人お兄ちゃん、そっち持って」
「ああ」
提灯を吊る作業。二人の動きが同期している。
十六年間の慣れ。
九人の「彼女たち」が集まってくる。
みんな浴衣姿。
みんなきれい。
みんな月人のために着飾っている。
景色も赤い浴衣を着ている状態。
月人の好きな色。
祭りが始まる。
人混みの中を移動する。
月人と、彼の「彼女たち」。
異様な集団だけど、誰も気にしない。
いや、一人だけ違う。
詩織。
彼女の目が時々、この状況を忌避する表情を見せる。
すぐに消えるけど。
「月人くん、これ食べる?」
美樹がたこ焼きを箸で掴み、月人の口元へ運ぶ。
「あーん」
口を開けさせる動作。
景色も焼きそばを差し出す状態になる。
「お兄ちゃん、これも」
競争のような風景。
でも、詩織だけが違う。
彼女も月人に食べ物を差し出すけど、手の動きが僅かにぎこちない。
花火の時間。
月人を中心に、女たちが座る。
儀式のような配置。
花火が上がる。
大きな音と光。
みんなの顔が照らされる。
「月人くん」
美樹が月人の手を握る。
「私たちのこと、重荷に思ってる?」
月人の首が左右に動く。
すると、女たちが月人に寄り添う。
順番にキスをしていく。
詩織の番。
彼女の顔に、一瞬、本物の恐怖が浮かぶ。
でも、体は動く。
唇が月人の唇に触れる。
離れた後、彼女は自分の唇に触れる。
信じられないという表情。
私の番。
立ち上がり、月人の前に立つ。
「お兄ちゃん」
真剣な表情を作る顔の筋肉。
「私、ずっと我慢してた。お兄ちゃんがみんなとキスしてるの見て、苦しかった」
決められた台詞。
「でも、もう我慢できない」
体が月人の胸に飛び込む。
「好き。兄妹としてじゃなくて、一人の女の子として、月人お兄ちゃんのことが好き」
告白の言葉。
月人の腕が体を包む。
「俺も、弓子のことが好きだよ」
キスをする。
長いキス。
他の女たちより長い。
涙腺から液体が流れる。
嬉しさの演出。
花火がたくさん上がる。
でも、私の意識は詩織に向いている。
彼女は呆然としている。
私がしたことが信じられないような顔で。
「月人お兄ちゃん、大好き」
口が言う。
みんなの幸せそうな顔。
月人の困ったような、でも嬉しそうな顔。
その中で、詩織だけが違う顔をしている。
彼女だけが、私の興味を惹いている。
夏が終わり、秋が来る。
月人との関係は、表面上は深まっている。
ある日の夕方。
月人と二人で神社を歩いていた。
「弓子」
「なあに?」
「最近、考えることがある」
眉間に皺が寄る。真剣な表情。
「なんで俺は、こんなにモテるんだろう」
景色の動きが止まる。
心拍数が上昇する。
「それは……月人お兄ちゃんが素敵だからだよ」
「でも、おかしいだろ?俺なんて特別イケメンでもないし、才能があるわけでもない」
月人の視線がこちらを捉える。
「弓子は、どう思う?」
興味深い質問。
真実に近づこうとしている。
でも、口は決められた答えしか出さない。
「私は、月人お兄ちゃんのことが好きだよ。理由なんてない。好きだから好き」
「でも……」
「理屈じゃないの。心がそう感じるの」
体が月人に抱きつく動作をする。
「考えすぎだよ。みんな、本当にお兄ちゃんのことが好きなの」
月人の手が頭を撫でる。
「そうか……そうだよな」
納得したような声。
でも、目にはまだ疑問が残っている。
その頃、詩織の様子がおかしくなっていた。
授業中、月人を見る目の、わずかな揺らぎが少なくなった。
これは、彼女の感情が殺されている?
もしくは、あきらめか。
秋が深まったある日。
詩織が学校を休んだ。
体調不良らしい。
景色は心配そうな表情を作る。
「詩織ちゃん、大丈夫かな」
月人も眉を寄せている。
「後で様子を見に行こうか」
放課後、月人と一緒に詩織の家へ。
詩織は部屋にいた。
ベッドに横たわり、天井を見つめている。
こちらに気付くと、起き上がり笑みを浮かべた。
揺らぎのない、私たちを迎え入れる自然な表情。でも、どこか冷めている。
その目。
ああ、彼女も来たんだ。
私と同じところに。諦観の世界に。
でも、違う。
彼女はまだ「自分」を失っていない。
「詩織ちゃん……」
口が心配そうな声を出す。
詩織がゆっくりこちらを見る。
その時。
詩織のゆらぎが大きくなった。
これまでで一番の変化。
口が震える。
目が赤くなる。
涙が流れ始めた。
本物の涙。
私は、生まれて初めての感覚を覚えた。体ではない、脳内での感情の発露。
これが何なのか知りたい。
これまでで一度もない、強い欲求。
これが、本物の感情?
そう思った瞬間。
月人が、詩織の手を握った。
「大丈夫だよ、詩織」
すると、変化が起きた。
詩織の瞳孔が開く。
頬に赤みが差す。
表情筋が弛緩する。
「月人くん……」
そして、笑顔。
幸せそうな、自然な笑顔。
「ごめんね、心配かけて。もう大丈夫」
治った。
いや、上書きされた。
月人の存在が、彼女の抵抗を消した。
彼女の本当の感情は、また奥に押し込められた。
いや、消えた。
完全に。
もう、あの違和感も恐怖も、どこにもない。
他の女性たちと同じ。
つまらない。
帰り道。
景色は月人の腕に寄り添って移動する。
「詩織ちゃん、元気になって良かったね」
「ああ」
「お兄ちゃんが行ったから、元気になったんだよ」
「そんなことないよ」
「ううん、そうだよ。お兄ちゃんには特別な力があるの」
真実に近い言葉。
でも、月人は首を横に振る。
「弓子の思い込みだよ」
夕暮れの神社に戻る。
石段を上りながら、私は考える。
詩織は、もう終わった。
他の女性たちと同じになった。
あの面白い反応は、もう二度と見られない。
月人の力は絶対的。
誰も逆らえない。
私と彼女の違いは何だったんだろう。
私は最初から空っぽ。
彼女は、空っぽにされた。
結果は同じ。
やっぱり、つまらない。
冬が近づいた。
詩織は毎日学校に来ている。
完璧に月人の彼女を演じている。
もう、あの一瞬の本当の感情は見えない。
他の女性たちと全く同じ。
つまらない。
ある日の放課後。
詩織と二人きりになった。
彼女は月人の写真を見て微笑んでいる。
「弓子さん」
彼女が口を開いた。
「月人くんって、本当に素敵よね」
瞳孔が開き、頬が赤い。
典型的な恋する乙女の表情。
「そうね」
景色が相槌を打つ。
「みんなで彼を好きになれて、幸せよね」
彼女は本気でそう思っている。
もう、疑問も違和感も持っていない。
完全に、この世界の一部になった。
面白くない。
その夜。
部屋で天井を見ながら考える。
詩織に、私は何を期待していたんだろう。
分からない。
彼女が他の人と違う反応をした時、私の中で強い欲求が起きた。
それが何だったのか、説明できない。
期待?希望?興味?
どの言葉も違う気がする。
ただ、何かが違った。
彼女を見ている時だけ、私の中の何かが反応した。
でも、それが何なのか分からない。
そして今、彼女は他の人と同じになった。
私の中の何かも、また静かになった。
私は一体、何を求めていたんだろう。
変化?
仲間?
答え?
どれも違う。
もしかしたら、私は何も求めていなかったのかもしれない。
ただ、彼女の中に見えた「何か」に、私の中の「何か」が反応しただけ。
その「何か」が何なのか、私には分からない。
きっと、これからも分からない。
窓の外を見る。
月が出ている。
いつもと同じ月。
何も変わらない。
詩織も変わらない。
私も変わらない。
でも、一瞬だけ、何かがあった。
それが何だったのか、もう確かめる術はない。
これからも、ずっと同じ日々が続く。
月人を中心に回る、この変な世界。
私は見続ける。
もう二度と、あの「何か」を感じることはないだろう。
それが寂しいのか、安心なのか、それすら分からない。
ただ、空洞の中で、微かな記憶だけが残っている。
詩織が違っていた、あの短い時間の記憶。
それも、いつか忘れるんだろう。
みんな、空っぽ。
私も、空っぽ。
でも、一瞬だけ、空っぽじゃない何かがあったような気がする。
気のせいかもしれない。
きっと、気のせい。
私は、これからも見続ける。
この終わらない日常を。
永遠に。