8. まだ付き合ってない
5月になった。
ひかるは大会が多い冬になるまでの間、ずっと練習が続き家を空けることが多かった。
……それは土日にも関わらずだ。その為、夜以外は顔を合わせることが出来なくなっていた。
俺も大学生活は至って順調だった。一度は諦めた……と言うより、未来の希望を失い進学の意義を無くした俺にとって、やりたい事を学べている今この環境は本当に夢のような時間だった。
俺にこの機会も資金もくれたクソジジイには、本当に頭が下がるし上げられない。
しかし、何故だろう。
一年半もの間、あんなにひかると一緒に過ごすことを望んでいた筈だったのに。
その為に勉強して医者を目指し、ジジイにも謙って、やっと手に入れた日常なのに。
何故か、すごく、……苦しい。
理由は分かっている。俺とひかるの関係が未だに曖昧だから、妙な距離感があるのだ。
ただの同居人から恋人という関係値にレベルアップしたい――俺は一緒に住み始めてから、この話を切り出すつもりだった。だがいざ一緒に住み始めてから、何故かひかるが不機嫌……というか、何か不満を隠しているように感じるのだ。
そんな状態で関係を前に進める提案をしたところで、上手くいく訳がないだろう。
正直、しんどい。
本当はひかるに触りたくてしょうがないのに。ハグやキスだけじゃなくて、その先も……考えてしまうのだが。
順序を間違えるな。こういう事は交際の申し込みをして、ちゃんと同意を得てからだ。アイツを傷つける事だけは絶対にしたくない。
だからもうその話をしたいのだが、ひかるに聞いても俺に対する不満の原因を話そうとしない。何故だ……アイツはそういう事はいつも率直に言う筈なのに。
こういうのが面倒だから、色恋なんて俺はしないと昔は思っていたくらいなのに。こんな事で悩むなんて本当に時間の無駄すぎる。
「はぁ〜……」
そんな折、久々にあの二人から連絡が来た。
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ひかるがいない土曜日日中。
俺たちの住むマンションの一室に、玄関チャイムが鳴り響く。
扉を開けると、まさかりさんとエリンギが立っていた。
「よく来たな、お前ら」
「タカー! 2ヶ月ぶリ〜、元気?」
「いいなあ、高俊。彼女と同棲かあ……」
まさかりさんは、部屋の空気を大きく吸った。
「女子の匂い!!」
「やめろ、女子じゃなくてひかるだぞ」
「タカ、ひかるは女子だヨ……」
「お邪魔するぜー!」
まさかりさんとエリンギは、大量のお菓子と飲み物(酒)を持って家に入った。
まさかりさんはまださくら号に住んでいるが、エリンギは今年度から“エレンジャーズ”の日本支社で働くことになり、しばらく都内に滞在することになった。
ちなみにじーさんは、今は島根に住んでるから来れなかった。
「デ? ひかるとの生活はどウ?」
俺たち3人は、菓子をつまみながらテーブルを囲んだ。
俺は2人から目を逸らして言った。
「……まあまあだ」
「アー……」
たぶん、エリンギは察した。
「で、やったのか?」
「は?」
「どうだった?」
「何が」
「まさかりさん」
エリンギはまさかりさんの肩を掴んで、無言で首を振った。
「そうか……、聞いて悪かった」
「何が!?」
「プッ……ご愁傷様……ぷぷ」
「よく分からないがバカにしてないか!?」
「モー、ホント喧嘩が好きだねこの2人ハ。デ、何が上手くいってないノ?」
「上手くいってないとは言ってないが……?」
「タカの『まあまあ』がアマノジャクってことハ、ボクらはよく分かってまス」
「……」
……まあ、ひかるのことをよく知るコイツらなら、話してもいいか……。
「何か……、一緒に住み始めてから、アイツずっとイライラしてる気がする」
「え、あの仏の面のひかるが?」
「仏の顔ネ」
「前に『何で怒ってる?』って聞いたんだが、『別に怒ってない』と不機嫌に返されて……。怒ってるのに怒ってないと言うのは意味不明なんだが? 何か文句があるならハッキリ言えばいいのに」
「高俊お前さ、チューは1日何回してんの?」
「は?」
「まさかりさん、だかラそういうのハ……」
「いや、それが原因じゃね?」
ポカンとする俺に、まさかりさんは笑いを堪えながら言った。
「まさか、ゼロか?」
「……」
「あっはははは! 待てど暮らせどお前が仕掛けないからさ、それでイライラしてんだよ」
「ひかるが……そんな事で?」
「するだろ、女だって性欲はあるんだし。で、何でしねーの?」
俺は目を逸らした。
「……ちょっとトイレ行く」
「逃げんな!!」
ああ……本当に、昔からこういう話は苦手だ。
そもそも、必要最低限の人間関係しか築いて来なかった俺にとって、色恋の話など広大な宇宙の外にあるような存在だった。
合理的に無駄を省いて生きようと思っていた俺には、恋愛なんて一番不要なもので考えたこともなかったのに。分かる訳ないだろ、ひかるの気持ちとか……。自分の気持ちでさえも何だかモヤモヤしてて、はっきり言語化出来ないのに。
「タイミングが分かんないって事だよネ?」
キスしない理由の問いに答えずに逃げようとした俺の代わりに、エリンギが答えた。
俺は小さく三角座りをして俯いて言った。
「違う。今はまだすべきじゃないからだ」
「エ? 何デ?」
「ひかるとはまだそういう関係値じゃない。さくら号から変わらず、同居人というステータスだ」
「ハイ!?」
さくら号でそれが出来たのは、あの時は『何か爪痕を残しておきたい』と、後先考えずに必死だったからだ。
でも今は明日も明後日もひかるに会うから、慎重にならざるを得ない。
「えーっト、付き合ってるから同棲してるんじゃないノ?」
「そんな事言ったら、初対面でさくら号で暮らしてただろ」
「あれは同棲じゃなくてシェアハウスだヨ……?」
「人数の差だろ」
「エエー……。でもタカ、ひかると再会したら関係をハッキリさせようって言ったんじゃなかったノ?」
「あぁ、そうだ。ハッキリさせようとその話をしようとしたら、アイツ不機嫌になるから……。そんな状態で関係を進めたいなんて話、出来ないだろ」
「エ? エ? じゃあ同棲して1ヶ月くらイ、この何とも言えない状態が続いてるってコト?」
「ひかるが忙しくてちゃんと話すどころじゃないんだよ。今は殆ど夜しか会わない生活だし。というか聞いてもアイツはぐらかすんだ、意味がわからない」
「ハァ〜……」
呆れるエリンギと、ずっと腹を抱えて笑っているまさかりさん。
「ひぃー! 腹いてー!」
「おい、笑うな。真剣に悩んでるんだよ」
「聞けばいいじゃねーか。『キスしていい?』って」
「そんな事聞けるか!!」
「じゃ、オレがひかるに直接聞いてやろうか? 『何で怒ってんの?』って」
「やめろ、まさかりさんアンタは一番信用できない。百歩譲ってそれをお願いするならじーさんだ」
「あん? ケンカ売ってんのか高俊。少なくともオレの方が女性経験豊富だぜ?」
「は……? 俺が知り合ってからアンタに彼女が居たなんて話、一度も聞いた事ないが?」
「い、いたんだよ昔は! 星の数程っ!」
「ヤメテ、今ここで2人が喧嘩したら余計に話が拗れるでショ。それでタカは、ひかるが不機嫌な理由に心当たりはないノ?」
「……。強いて言えば、ひかるに『タカは女性に興味ないの?』って言われた」
「ブッ」
2人は口を押さえ笑いを必死に堪えた。……いや、堪えきれず震えている。
「エ……ッ、タカ、本当に女性に興味、ない訳じゃないよネ」
「愚問だぞエリンギ。察しろ」
ある。寧ろ、滅茶苦茶興味ある。あるに決まってるだろ。
大体一番最初に仕掛けた(キスした)のは俺だぞ。興味ない訳ないなんて、ひかるなら分かるだろ。何で聞かれたのか本当に意味不明だ。
「じゃアひかるの事をまだ男子として見てル?」
「それもひかるに聞かれたが、俺はアイツを男として見た事はない。はぁ……何故そんな事聞かれたのかさっぱり分からない」
「ほぉらやっぱりチューが原因じゃねーか」
「はぁ? もう、まさかりさんは黙っててくれるか」
「いヤ、ボクもあながちまさかりさんの言うことハ、間違ってない気がしてきたヨ……」
「は?」
エリンギは自信満々に、俺に指差して言った。
「タカ。分かったヨ。ひかるは、タカが何もしないから怒ってるし傷ついてル」
「何もしないから、傷ついてる……?」
俺はエリンギが何を言ってるのか、さっぱり分からなかった。
傷つけたくないから慎重になっているのに。何故それで怒られなければならないのか、意味がわからない。
「無から負が生まれていると言う事か?」
「理系っぽく解釈しないデ。とにかくタカから何かアクションを起こさないと、ひかるに愛想尽かされちゃうヨ」
「……無理矢理、キスしろと……?」
「そうは言ってないヨ……。取り敢えず、タカから『好きだからちゃんと付き合って』って言うべきだと思うけド」
「……エリンギ。想像してみろ。それを言うのは俺だぞ? お前の知ってる俺が、そんなセリフ吐けると思うか? しかも怒ってるひかるにだぞ? 撃沈したらどうしてくれる?」
「プッ……、想像しただけでウケる」
「まさかりさんアンタには聞いてない」
「アアァァア面倒くさいネ! じゃあいつもの周りくどい言い回しで伝えればいーじゃン!」
「だから俺にはそれが分からないんだよ! 俺と知り合ってもうお前ら3年だろ、いい加減分かれよ! 俺はそういう『他人の気持ちを推し量って対処する』事が一番苦手なんだよ!」
「エー、逆ギレしないでヨ」
「はいはい、オレ分かったぜ」
まさかりさんはスルメを頬張りながら言った。
「よーするに、高俊はひかるを傷つけずにずっと一緒にいたいだけだろ?」
「……」
「じゃあさ、結婚しちまえば?」
俺もエリンギも、飲んでたモノを吹き出した。
「はあ!?」
「ハ、話が飛躍しすぎじゃなイ?」
「んな事ねーよ。それこそ『好き』って言わなくても最大の愛が伝わる、遠回しな告白だろ?」
「……」
「それに籍を入れちまえば、役所の面倒な手続きをしない限り、簡単には離れられなくなるだろ? そしたら多少大胆な事をする自信もつくんじゃねーか?」
俺は顎に手を置いて考え始めた。
確かに……。一理ある……。
「エ……、タカ今、『確かに』って思っタ……?」
「……まさかりさんにしては名案だ」
「だろ〜??」
「いヤ、ボクはまだ時期尚早だと思うナ……。タカ、酔っ払ってる人の事鵜呑みにしちゃダメだヨ……? たぶんこの後まさかりさん、覚えてないって言い出すヨ?」
「うるせーなエリンギ、オレは真面目に考えてるぞ!」
と、酒を喉に流し込みながら言うまさかりさん。
「飲酒運転ダメ絶対! 暴走しちゃダメ!」
「運転どころか動いてねーよ! オレはコイツが走り出す為に、ガソリンを入れてやってんだよ!」
「いや、エリンギ。もしひかるも俺と一緒にいたいと考えてるなら、アイツにとっても悪い話じゃないハズだ」
「タカ? ダークの作戦考えるのとは訳が違うヨ?」
「でもそれが『アクションを起こす』って事になるだろ? 一石二鳥じゃないか。勿論ちゃんとあいつの意思を確認してから実行に移す。そうすれば失敗しない」
「うーン……」
相談してよかった。俄然自信がついてきた。
「ギャハハ! 高俊、結婚式呼べよ」
「……スピーチも頼む」
「いいぜー! なあ居酒屋行こうぜ! 高俊結婚の前祝いで奢る!」
「じゃあ高いところ行くぞ」
まさかりさんは俺の肩を抱き、立ち上がった。
「大丈夫かナ……」
エリンギも渋々俺たちについて行った。