4. 後悔先に立たず
喜一郎が病室を出て行くと、すぐに俺は将棋を片付け鍵を持って車椅子に乗った。
あのジジイに上手く乗せられてる気もしないでもないが、好奇心の方が優った。
消灯時間まで後30分だったが、気にせず出た。
資料室の扉を開けると、大量の本棚がーー恐らく全て医学書だろうーーそこにあった。
元々、活字の本が好きだ。ほんのりとカビ臭い空気に、胸が躍る。
携帯で調べることもできたが、何となく“本物”に触ってみたかった。
目当ての本を探すのと、車椅子でそれを取るのには難儀したが。
俺は夜が更けても、それらを読み漁った。
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バシン
朝。
資料室の机でうたた寝していた俺の頭を、喜一郎が突然遠慮なく叩く。
「痛……っ」
「このバカ孫! 誰が消灯時間を無視して読んでいいと言った!? 看護師さんがお前を夜間探し回ってたぞ!」
「……それは、悪かった……」
喜一郎は、まだ寝ぼけ眼の俺から視線を逸らせる。
机の上に並べられた本の山を見て、喜一郎は言った。
「……で。分かったのか」
「……」
俺は本の山から、該当の書籍を手繰り寄せた。
「『羊水塞栓症』とはーー、
妊婦の分娩時あるいは陣痛時に、胎児の細胞を含んだ羊水が母体の血液内に入り込み、心停止や呼吸困難、また合併症を引き起こし大量出血をもたらす疾患だ。
発症すれば死亡率は2割程。ただし発症自体がおおよそ分娩の10万件中5件程で、極めて稀な疾患だ」
「……」
「母体が高齢であったり、帝王切開や羊水過多等でリスクが高まるが、そのリスクを持つ極小数の妊婦だけが何故発症するのか、まだはっきりとわかっていない。
つまり、有効な予防法はない」
俺は、机の下の拳を握った。
「だから……、母さんの死は、誰のせいでもなく、誰も責めることができない。無論、慶音のせいでもない。
こういう言い方はしたくないが……、ただ、運が悪かったんだろう」
この事をもし8歳の俺に言って説得したとしても。
きっと当時の俺は、それでも慶音を許す事はできなかっただろう。
だが今は、本当に母の死の原因が慶音に非はないと知れて良かったと思っている。
喜一郎は、ただ腕組みをして聞いていた。
「医者であるアンタは、どう思った?」
「何をだ」
「母さんを執刀した医者達は、最善を尽くしたと思ってるか?」
喜一郎は、少しだけ押し黙った。
「……ああ」
「自分がその場にいたら結果は違ったんじゃないかと……、そうは思わなかったか?」
「思わない」
その言葉が本心かどうかは、分からなかった。
「……そうか」
何故こんなことを聞いたか。
船のダークでひかるが撃たれたことを思い出したからだ。
信用できるはずもない、闇医者にひかるを託すしかなかった。あの時ほど、自分の無知・無力を嘆いたことはない。……ジジイも、同じ気持ちになったのかと思ったのだ。
俺は本を片付け始めた。
「で、他には何を調べていた? 羊水塞栓症のことだけにしては、色んな本が出してあるが」
「分からない単語が芋蔓式に出てきたからこうなった。調べないと気が済まないタチだからな」
「医学に、興味は出たか?」
「……」
喜一郎の策にまんまとハマってしまったと、悔しく思ったが。
「暇なんだよ、入院生活は。ここの部屋の鍵、暫く借りていいか」
「……消灯時間は守れよ」
そうして喜一郎は出て行った。
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それからまたひと月程経過するまで、俺は資料室に通い続けた。
たまに喜一郎が顔を出すようになり、医学の話をした。
人としては本当に捻くれた糞みたいな男だが、医者としては……まあ、尊敬できる人であった。院長なのだから当たり前なのだが。
そして秋が深まる頃には、歩行のリハビリが始まった。
ふた月以上歩く事を忘れた俺の足は、筋力を失い生まれたての子鹿のようになっていた。痛みもあり、まさに血反吐を吐く想いだった。
撃たれた右脚は筋繊維を損傷しており、少し麻痺が残った。歩けたとしても、今後走ることは難しいとの事だ。
しかし、不思議と悲壮感はなかった。
ダークで得たものの対価がこれくらいで済んで良かった……とも思った。
冬が近づき、車椅子が無くても歩けるようになった頃、ついに喜一郎はこう告げた。
「高俊。来週には退院しろ。
少子高齢化が加速する今、病床数は有限で貴重だ。
それに病院にだって経営がある。お前が寝ているこの部屋だって、何人かの命や生活が救われる為にある」
……まあ、当然だとは思うが。
ついに追い出される時が来たかと、思った。
「分かった。世話になった」
「出て行った後、どうする気だ」
俺は目線を逸らした。
「……友人の家に世話になる」
「嘘をつくな。ワシの家に来い」
「どうせそのまま養子になれとか言うんだろ」
「病院程ではないが、家にも医学書はある。勉強を続けろ高俊。お前には、それ以外にないだろ」
痛いところを突くものだと、唇を噛んだ。
「それに、幼少期明香音が育った家だ。興味あるだろう?」
「……」
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翌週。
喜一郎の車に揺られ、病院からおよそ15分。都内の閑静な住宅街の一角に、築40年程の木谷家はあった。
祖母は早くに亡くなり、今は喜一郎が1人で住んでいる。
仄かに線香の香りがする家の中へ、俺は足を踏み入れた。
木造の和室の感じが、少しだけさくら号を彷彿とさせた。
「明香音の部屋だ。ここを使え」
「分かった」
「で、その向かいが美登里の部屋だ。
まだ私物が置いてあるから、勝手に入ったら殺されると肝に銘じておけ」
「…………分かった」
「じゃあワシは病院へ戻る。帰りは夜だ。1人で大丈夫か?」
「俺を小学生か何かだと思ってるのか」
「足の事を言ったんだ、バカ孫」
喜一郎が去っていくと、俺は童心に帰って家の中を探索した。
母さんの部屋は、机と布団と箪笥以外ほとんど物がなかった。俺が来ることが分かって、喜一郎が片付けたのかもしれない。
パワフルの部屋は……見ないでおこう。
キッチンや風呂は、何だか分からないが懐かしい匂いがした。
楽しみにしていた書斎には、喜一郎が読み漁ったであろう古びた本が沢山あった。付箋が貼ってあるページを開くと、擦れてしまったメモ書きが沢山あり、俺はしばらくそれを見ていた。
そしてリビングに入って目に飛び込んできたのは、沢山の家族写真だった。
それはリビングの一番目立つところに、沢山あった。喜一郎や病院のスタッフの写真、俺や慶音の赤ん坊の写真もあった。そして一番多いのが、母さんやパワフルの写真だ。
中央に木谷家4人の写真があった。4人の写真は、母さんの高校の卒業式の写真だろうか。証書を持っている。俺と同年代くらいの写真で、皆仲睦まじく写っていた。
ジジイもパワフルもさすがに若いな……当たり前か。
それはさておき。
母さんと縁を切るほどの喧嘩をしたと言うのに、喜一郎はこんなにも写真を飾ったままにしている。本当に嫌いな相手ならば、そうはしないだろう。
となれば、仲直りしないまま死別してしまったのだろうか……。
「……」
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喜一郎が帰る頃、俺は餃子を焼いて待っていた。
「まさか、自作か?」
「まさか。冷凍だ」
「……自炊はするのか」
「スクランブルエッグなら作れる」
「ぐちゃぐちゃ卵を自炊と呼べるのか?」
「朝食の主役だぞ。馬鹿にするな」
「お前もいずれ生涯の伴侶を得るなら、自分でも料理が出来るようになった方がいい。たまに作ってやるとすごく喜ばれる」
「……」
「……まさか、もうそういう人がいるのか」
「ほっといてくれ」
喜一郎は微かに笑ったが、それ以上は聞いてこなかった。
俺は餃子を口に運びながら尋ねた。
「……母さんが死んでから、墓参りには行ったのか?」
「いや」
「何故行かなかった?」
「特に用事がないからだ」
「……今度、俺が無事に事を成したことを、親父の墓前に報告に行こうと思ってる」
「そうか」
「母さんも、一緒な墓だ」
「……誘ってるのか?」
「いや。長距離移動に自信がないから、介助して欲しい」
「自分勝手だな……。いつ行く」
本当は介助なんて要らないのだが。……そしてそれもこのジジイなら分かるはずだが。
喜一郎は断らなかった。
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