命をつくる魔法(1)
夜空を切って飛び来たピユラたちは、祭殿の中庭に降り立つと、喧騒にざわめく空気の中、急いで祭壇の間へと駆けた。上空から遠目に見た限りだが、街にはいたるところに火の手が上がり、戦闘を通り過ぎ、略奪が始まっているようだった。複雑な街の作りが幸いして、祭殿にはまだ敵の姿はないが、要となるこの場が攻め込まれるのも時間の問題だろう。
「ミザサのばばあ!」
「戻ったか」
祭壇の間の扉を開け放つなり怒鳴って走り寄るカイルを冷静に出迎え、ミザサは一同を振り返った。状況を問う前にテサウが切り出したところによると、術式を施し、魔力をあげて戦えるこの場に、あらかたの精鋭は集められているらしい。市中での戦闘は地の利があっても兵力差の前に無理が大きく、民が逃げる時間を稼ぐ程度にとどめるのが精一杯だったという。
だが、常よりこうした事態を想定して、街の外に隠れた避難場所を用意し、いざというときは家を捨て、そこへ逃げることが人々に徹底されていたのが幸いした。ピユラやカイルが街をなめる炎を前に危惧したほどの被害は出ていないらしい。伽月もそこへ向かう人々を警護の兵とともに守って、すでにセーラとともに退去ずみとのことだった。
しかし、それに安心もしていられない。ここを守り、しのぎ切らねば、次にどう出られるか分からない。避難場所もずっと安全とは限らない。だからミザサやテサウたちは、この祭殿から引くわけにはいかないのだという。
「ユリア殿たちはここを離れられた方がよいかもしれません。避難場所へ赴かれた方がまだ安全です」
「ここの術式を使えば、わしがそこへ転移させることが出来まする。カイル、手伝え」
テサウの勧めにユリアたちが応じる前にミザサが頷き、カイルを振り返る。だが、その時。昇りかけた月明かりを遮って、頭上に大きな影が差した。
天井の硝子が割れる音が響き渡る。破片が星屑のようにきらめいて降り注ぎ、遮るものをなくした空から、翼を広げた黒馬が滑るように舞い降りてきた。
鳥のごとき大きな羽をもつ馬――この世にはいないはずの生き物がいななき、荒々しくその蹄で砂地を踏み荒らす。その首筋をそっとなぜて静める白く細い手に、はっと見上げれば、長い黒髪を腰元まで流した美しい女性が、その背に腰かけていた。
白と黒のみで彩られた服は、戦うために赴いたとは思えない。長い裾を優雅に舞わせて彼女が黒馬の背から降り立てば、幻想の獣は熟れた果実が腐れ落ちるように、どろりと崩れて溶けて消えていった。
「ああ、もたなかったわね」
砂地に染みこんだ、か黒い泥に似た残骸を見下ろして、彼女は微笑んだ。陽を閉じ込めたような瞳が、柔らかに持ち上がり一同を眺め渡す。
「まあ、ここにいてくれたの。助かるわ」
ユリアに目をとめ、紅い唇が優しい弧を描く。ふわりと、まろやかな音色が笑んだ。
「手間が省ける」
ぞくりと背筋に悪寒が走ったのは、ユリアだけではなかったようだ。透夜がその身を庇い前に出て、後ろへ、とだけ叫んで駆けだしたテサウに続き、息を合わせて集っていた兵が動き出す。槍が振るわれ、呪文が響き渡り、砂が蠢いて鋭い矢となって空を滑る。ミザサのしわがれた声音に呼応して、祭壇に施された術式の陣が淡く紫の光を放ち、彼らが紡ぐ魔法を助けているのが分かった。
多勢に無勢と見えた。だが、そっと口元に寄せた白い指先を、彼女は躊躇いなく食い破った。そこから滴る血が砂地に落ちた瞬間、か黒く塗り変わって異形の生き物に姿を変える。二足で立ちながら、姿は人と獣を多様に混ぜ合わせたような歪ななにか。咆えるとも呻くともつかない声が、人でも獣でもない耳障りな響きで耳朶を叩いた。それが、迫る兵たちの槍を薙ぎ払い、そそぐ砂の矢をその身で受けて盾となって彼女を守り、黒馬と同じように、また腐り落ちて溶けて消えた。
それは一瞬のことだったが、魔法を使う部族であるからこそ、誰もが愕然と彼女から身を引き、距離を取ったのが分かった。いま彼女がなしたことは、魔法のはずなのだ。なのに、絶対的になにかがおかしい。ピユラも魔力を感じはした。しかし手触りとでもいおうか、肌触りとでもいおうか、それがいままで感じてきたどの魔力とも違った。
しかも、あれは、砂を矢の形にし、風を刃に変えるように、ただ砂を象って人型にしたようなものではなかった。
(わずかな間では、あったが……)
生き物になっていた。砂が形を与えられたのではなく、砂が血となり、肉となり、歪ながらも息をして鼓動していた。そんな魔法、見たこともなければ聞いたこともない。ピユラは震える拳を握りしめた。
「――もたないわねぇ」
困ったように物思わしげに笑んだ彼女に、鋭いミザサの声が飛んだ。
「そなた、いまなにをした?」
「兵に差があったから、人を、つくろうとしたのだけど?」
なにを怒るのかとなだめるように、柔らかに陽だまりの目が微笑みかけた。
「でも、あまり上手くはいかなかったわ。まだ調整が必要なようね」
「その力、どうやって手に入れた。神にでもなろうというのか」
冷たく、静かに、けれど嫌悪と断罪の気持ちを隠しもせずミザサは言った。先の溶けて消え、醜い残骸となった、翼持つ黒馬も同じなのだろう。彼女の力を魔法と呼んでいいのなら、その魔法は、滴る彼女の血から命をつくるのだ。だが、古の魔獣ですら、魔の力で命を生み出すなどできない。どんな膨大を魔力を持っていても、できてはならないのだ。それは、この世のなにかを逸脱する業だ。
「神? 神様は人をつくりはしないわ」
ミザサの言葉に不可思議そうに首を傾いで、ああ、と紅の唇は納得の声をもらした。
「あなたたちの神話ではそうだったわね。でも、私たちの国の話では、人は神様につくられなかったわ。気づいたら、いたの。大地から生まれ、そこに。芽吹きも知られず気づけば道端に花開く、小さな草花のように」
また白い指先から滴った血が、砂地の上で黒く蠢きだした。武器を身構え、呪文を唱えだす兵に、人ではない、歪なあまたのなにかが地を蹴り駆けだし、襲いかかる。
「まあこれは、ただの古いお話だけれども。でも、始まりも定かでないのに、この世の命はあまりにも美しくある。それは、その通りでしょう? まだ及ばぬ、こんなものとは違って、とても美しい」
まじわる剣戟の音と呻き声。兵の怒声の中で己が生み出し、果てて逝く生き物だった残骸を柔らかに見下し、踏みにじって、なお優しくその笑みは言った。
「命とはどうなっているのか。どうして生き物はいまの姿なのか。どうしたら生み出せるのか。思いを馳せるほど、いろいろと、確かめてみたくなるものですもの。私は、命の果てと原初を見たいの。それだけよ。そのために、この力をつくったの」
「つくった……?」
「ええ、つくったわ」
ミザサに優雅に彼女が答える間に、彼女を守る異形の人垣をかき分け、なぎ倒し、兵のひとりの槍が、その胸をつくように突き出された。その穂先へ、彼女は迷いなく手を翳した。切っ先が、心臓より先にその掌を貫き、赤く血が飛び散った瞬間――その槍は一瞬、黒く泥のように塗り変わり、次にはぱっと崩れ去ったかと思うと、無数の漆黒の蝶となって空へと羽ばたいていった。
「私の血が触れたものを生き物に変えるの。まだ、形が安定しないし、長くはもたないのだけれど。これはそうなるように、私がいくつもの魔を持つ〈宝石〉からつくった魔法」
魔法を使える者が持つ〈宝石〉――そう己の力の話をした男を思い出して、離れた場でピユラを守っていた蒼珠は、思わずミザサと向き合う女を凝視した。頬に添えられた右手の薬指に、身と溶け合うようにはめられた深紅の石の指輪が輝いている。それが、廃墟と化したサシュカの祭壇で見た、昔日のヤサメと重なった。彼の掌に埋め込まれるようにしてあった赤い石は、ディヴァインを操った〈呪珠〉と繋がっていた。
『俺のご主人は君のと違うから安心して』
そうスティルで笑っていた言葉が過って、なるほどと、繋がった。父から聞いた彼の内にあるという魔獣殺しの〈呪珠〉。それと結びついた主が、目の前に現われた彼女というわけだ。
槍を奪われた兵が腰の剣を抜いて地を蹴ったのを目の端にとめたのか、彼女は穿たれ、血の流れたままの手を、舞うようにしなやかに兵へと伸べた。それにあわせて花弁のように散った血が、兵の顔や肩へと滴り落ちる。とたんに、苦悶の声をあげて彼は蹲った。黒い泥のように溶けて、肌が、肉が、脈動して形を変えていく。刃のように、牙のようにとがった形になったかと思ったら、次には腹を蹴破るように不気味な足が突き出てきて、男はのたうった。
「魔力を持つ人間には、少し効きにくいのね」
冷静にその変容の様を観察する穏やかな眼差しの中、歪ななにかになりかけた男の身体は、変わりきるまえに、あらかたが泥のようになって溶けて壊れた。
「人からも人をつくれないのは、血の量よりも、もう少し根本の部分かしら……」
思案して赤く濡れた己の手を見つめる彼女へ、低く、静かにミザサは怒りに声を震わせた。刻まれた皺により深く沈んでみえる鋭いまなこが、しかと彼女を睨み据える。
「そなたは、そのままにとどめるべき興味を、躊躇すらなく突き進めようというわけか。そこは踏み入ってはならぬ領域であろう!」
術式を刻んだ杖が振るわれ、部屋の陣がより鮮やかに光り輝き、夜を大地から浮かび上がらせた。
「帝国うんぬんという前に、人としてそなたは我らラクシュミーヤがここで止める!」
ミザサの援護を受けた魔法の力で、砂の矢が雨と注ぎ、しなる鞭のような無数の砂塵の帯が彼女の動きを封じようと地面を波打った。
「そう。命を神様のもので終わらせているあなたたちには、そうなのかもしれないわね。でも、正直、なにに怒っているのかは、よく分からないわ」
血をふるって砂の矢を蝶に変え、挑みかかる兵を異形のしもべで押し留める――その彼女の懐に、テサウが入り込んだ。空を切った槍を、まだ形もままならぬ泥くずがその身で止め、剣のような腕を振り抜いてテサウの肩に傷を負わせる。だが、その異形を生むため出来た隙で、砂の帯が彼女の腕を捕らえた。手首を締め上げ、流れる血を押さえ、足元から渦巻きのぼった砂の渦が、蛇のように彼女の身体を半ば飲んで絡みつき、空中で固まって動きを封じる。
「ここまでだ」
「そうね。ここまでにしましょう」
己を見上げるテサウに、焦る風もなく紅の口元は、愛しさに似せた笑みをひいた。
「あの子が来る」
瞬間、白銀の光が閃いて、あたりを包んだ。同時に微笑んだ彼女を捕らえていた砂の戒めが瞬時に凍りつき、粉々に砕け散る。それとともに、地面から尖った氷の柱が天を貫くばかりに折り重なって突きあがり、テサウの身体を刺し貫いた。
あふれるテサウの血が、ぼたぼたと真っ赤に砂地を濡らし、声も上がらなかった喉から小さな呻きが辛うじて漏れる。
それをかき消して、不機嫌そうな声が言った。
「おひとりで赴かれるとは聞いてませんよ、紅奈さん」
割れた硝子天井からの月明かりに、同じ色の長い金糸が、身に纏った白衣とともにかすか靡いていた。高い場所から落ちるようになった紅奈を抱きとめ、恭しく腕から下ろす。その耳元に、白銀の耳環が揺れていた。
「あと、そのお力のことも、伺っていなかったんですが」
「聞かれなかったもの」
「そういうところですよ、まったく……。俺、手当は出来ませんからね」
ちょうど目の前で朽ちていった異形の残骸をちらりと見やって、莠は聞こえよがしに盛大な溜息をついた。そのまま己が串刺したテサウに視線を向け、平坦に問う。
「それで、殺しますか?」
「いいわ。命は無駄に摘むものではないもの」
「ならば、お心どおりに」
ぱちんと彼が指を弾けば、氷柱の山は崩れ去り、テサウの大きな体は放り出されるように地面に無造作に落とされた。肩が動いているので辛うじて息はあるようだが、すぐにでも手を施さなければ間に合わない。
だが、駆け寄りも出来ず、ピユラは蒼珠の後ろで唇を噛んだ。ここで動くのは、たとえ遠方からの回復魔法であろうと無謀だ。誰もがそれを理解しているから、動かない。動けない。
金糸の髪、真白の軍衣、蠱惑と謳われただけはある、鋭く冷ややかな氷の花のかんばせ。――砂漠の民が、最たる脅威と捉えていた相手。砂漠を滅ぼしにかかる帝国の、氷の魔法使い。それが、いままさに目の前にいるのだ。それも、その身の魔力を押さえもせず。魔法を操る才ある者ならば、十分にその質量の異様さを感じ取れるだろう。
「ほかはどうしますか?」
自身を包む棘ある警戒は意にも介さず、主の足元に伏す猟犬のように、莠は紅奈に寄り添い、指示を仰いだ。
「幻獣使いを捕らえればよいようでしたら、すぐにでも」
「そうね。その前に少し――遊んであげなさい」
「わかりました。では、お言葉のままに」




