皇帝
◇
弓弦を張るには少し足りない月が、夕暮れの残り火に薄ぼんやりと輝いている。城のどこよりも高い天井のはるか上部にある、明かり取りの窓。その小さいのに豪奢に飾られた窓からのぞく、弱々しい雲間の月をちらりと見やって、莠は頭を垂れた。
「それでは時も移ろいましたので、俺はこれで失礼いたします。紅奈さん」
並ぶ他の者には目もくれず、彼女にだけ告げ、莠は光とともに謁見の間から掻き消えた。
「やれやれ、お人形ちゃんにも困ったもんだ」
玉座を囲んで幾重にも垂れ込み、その奥の影も窺えぬほど衆目を遮っていた薄布。それらがすべて引き上げられ、壮麗な玉座はおろか、磨き上げられた水晶のような床も、階段へと広がる絢爛たる敷物の細部も、いまははっきりと見て取れる。その皇帝のみが許された場所に座す人物のすぐ隣で、紫陽は大仰に苦笑した。
ひと月ほど前、総軍務卿の囲おうとしていたスティルの娘が、ゼトラから何者かにより奪われた。その簒奪者を辿ったところ、彼が病に伏せている間追えずにいた幻獣使い一行の行方を再び捕捉でき、さらにラクシュミーヤの末の隠れ里も目星がついた――それが莠の報告の趣旨だったのだが、それを聞き出すのに随分と時を要したのだ。
「紅奈が口を挟むまで、あの手この手でのらりくらりと回りくどい報告だ。陛下、あれ、この頃より輪をかけてきやがってませんか?」
「そう言ってやるな、宵鴉。あれは僕の直属とは名ばかりで、紅奈のものだから仕方ないさ」
気安い調子で話を振る紫陽に、座したまま彼を見上げて皇帝は明るく笑った。
「それに僕は、わりと楽しく聞いてるよ」
暗く深い紫の瞳を柔らかな弧に変える。上部の窓からまだかすか差し込む夕陽の名残が、その短い金糸の上に転がり落ちた。纏う青みを帯びた紫の服のところどころには銀色が施され、それに褐色の肌が一層映えている。見た目の頃は青年といって差し支えなく、紫陽たちより若年に見える。近くを許した者たちしかいないためか、随分と打ち解けた風情で彼は椅子に身をもたせていた。
「だがもう少し躾けておいてほしい! 彼は私の五十三番をたぶらかしたんだ!」
思い出したかのように唇を尖らせるジェディアーツに、ははっと皇帝は面白そうに笑い声を立てた。
「レニウムにはそうだろうな。それは気の毒なことだった」
「あら。では少し、お仕置きしておかなければならないかしら?」
じゃらすようにジェディアーツの憤りを転がす皇帝へ、艶のある声が戯れる。逆効果じゃねぇか、と、すかさず紫陽が笑った。
「紅奈のすることなら、結局なんでも喜べちまうんじゃねぇの、あいつ。ま、とはいえ、例えば大事な玩具を取り上げでもすりゃ、それも少しは違うかもしれねぇがな」
「そう? でも、紫陽。それはまだするつもりはないわ」
楽しげに提案する紫陽に、紅い唇に彩る笑みを可笑しそうに深めて、紅奈も笑い声をこぼした。
「いまはそこまで悪いことはしていないもの。なのにそんなことをしてしまっては、それはきっと、可哀そう、と、言うのでしょう?」
「どんな面するのか見てみたくはあるんだがなぁ。しかしまぁ、お前がしないっていうなら、そこまでの興味でもねぇ。それにあの黒いのも、いまのとこはそれだけで無くすにゃ惜しい駒だしな」
穏やかな陽だまりの瞳に快く哄笑して、拘りもなく紫陽は引いた。だが、不服げにジェディアーツが割っている。
「そんなことないさ! 悪いことをしているとも! 私の五十三番をかどわかしたんだから!」
「ええ。それについては、きちんといけないと教えておくわ」
憤懣やるかたないといったジェディアーツを、紅奈が微笑みを混ぜ込めた柔和な声音でそっとなだめる。よろしく頼むよ、と彼女を見上げて、ジェディアーツは念を押した。まるで拗ねた子どもが甘えるようだ。
「レニウム、そう嘆かなくとも、君が為すことを為していれば、自ずとあれはまた君の前に戻るだろうさ」
微笑ましげに彼らのやりとりを見守っていた皇帝が声をかければ、ジェディアーツはぱっと顔を輝かせた。喜色を満たして、その玉座の元まで駆け寄っていく。
「そうかい? 八雨も――あ、いや、すまない。陛下もそう思うのかい? 君がそう思ってくれるなら、私としても安心だ」
「ああ、もちろん、そう思うさ。それにレニウム。別に僕のことは昔のように名前で呼んでくれても一向にかまわないよ?」
「いや、そこは私としては、君に敬意を示したいんだ。まあ、つい興奮してしまうと、また呼んでしまうかもしれないが……」
「そうか。ならばそれを楽しみにしていよう」
珍しい困り顔のジェディアーツに笑いかけ、皇帝――八雨は他のふたりへも気さくにその笑顔を向けた。
「紅奈も宵鴉も、構わないんだよ?」
以前にも繰り返したやりとりなのだろう。慣れた様子で、あらまあ、とだけ笑みをこぼす紅奈に重ねて、そいつは恐れ多いってもんですよ、と言葉とは裏腹な軽い口調で紫陽が返す。
「そこは我々が好意を頂戴するより、陛下には、こちらの畏敬の念をお納めいただきたいとこです」
遊び心で飾られた紫陽の目くばせに、ははっと声を立て、変わらないな、と八雨は鷹揚にそれを受け止めた。
「では残念ながらも、その恭敬はもらっておこう」
そこで一区切りとでもいうように少しばかり居ずまいを直しつつ、愉快げに相好は崩したまま、八雨は一同を見渡した。
「さて、今日はここまでにしておこうか。まだ事を動かすまでには多少時間がかかる。それぞれに、よろしく頼むよ」
「もちろんだとも! 期待していてくれ」
「お力になれるなら光栄ですわ」
意気昂揚とジェディアーツは応じ、紅奈は柔らかに礼を寄越す。そのまま玉座の前を辞して、ふたりはなにかを語らいながら広い部屋を緩やかに歩み、大きな扉の向こうへと消えていった。その後ろ姿を見送って、紫陽が軽く伸びをする。
「やれやれ、楽しそうにどんな犠牲者の話だか。気の毒なもんだ」
「お前も顔が面白がってるぞ、宵鴉」
「いやぁ、あいつらとの会話はわりと好きなもんで、つい緩んじまいましたかね」
からかう八雨に大口を開けて笑い、紫陽は藍色の瞳を深く細めた。
「陛下もよく、ああいう奴らを見つけてこられた。ジェディアーツは多少事情がありますが、紅奈なんかは、出自はなんの変哲もない貴族のご令嬢だ。あの才と性質、よく見抜かれましたね」
「言うほどでもないさ。時間だけはあったからね。つまらぬ噂話に耳を澄ましておけば、たまにそういう掘り出し物に当たることもある。紅奈の場合は、まさにそれさ。彼女の家が多少慎重さに欠いていたおかげだよ。人ならばそうはしなかっただろうが、まだ猫や烏だったからだろうね。そのまま死骸を外へ捨て置くだけでは、数が嵩めば噂にもなるというのに」
「それも無残な有様じゃ、下賤な噂好きには堪らなかったでしょうなぁ。俺も聞いたことはありますよ。血塗られた邸ってね。あの家はちょうど勢いづきかけてた中流貴族だったんで、政敵の嫌がらせだろうと流しちまってたのが、俺もまだ幼かったですね」
まさかその家の己と年も変わらぬ娘が、興味と好奇心で切り裂いていた命とは思いも寄らなかった。まだ少年の時分だったゆえ、情報の精査が未熟だったのだ。当時に顔のひとつでも見ておけば面白かったかもしれないと、少しばかり勿体なく思う。
「それでは――俺もお暇しますかね。ですが、その前に陛下。幻獣使いの確保は本当にまだ良かったんですか? ご命令とあれば、囲っておく籠ぐらいは、すぐにでも編み上げますよ?」
「いや、大丈夫だ。お前の術式の腕を信じない訳でないのだけれどね。懐かしい地を、もう少し味わわせてあげたいのさ」
甘い顔立ちを明るく覆う笑みに、なるほど、と紫陽は頷いた。
「そいつは確かに大切なことです。あの手の思い出は、噛み締めれば噛み締めるほど――辛くなる」
「だろう? お前なら、分かってくれると思ったよ」
引き上がる紫陽の口元に思わずこぼれた不穏な悦楽は、獲物に這いよる蛇のような不気味さだ。それを取り繕いもしない、随分と気を置かない様子の右腕を、八雨は満足そうに眺めやった。
「陛下にお仕えできるのは、やっぱ楽しいですね。俺みたいなのを好きにさせる」
「なに、お互い様だろう。シヨウの血筋の末に、お前みたいなのに出会えて嬉しいよ」
底知れぬ暗い紫はにこやかに細まった。裏も表もなにひとつないのに、その飾らない鮮やかな笑みは、掴みがたい不安を去来させる。だからこそ紫陽にとって、彼のそばにあることは、たまらなく胸を躍らせるのだ。
「光栄ですよ。しっかり、俺のためにも働かせていただきます」
「ああ。期待している」
不敵な笑みとともに辞す紫陽を、言葉通りの信で八雨は見送る。そのままひとり玉座に残った八雨の上に、やがて薄っすらと伸びる月光が淡い影を落とした。遠く離れた古の故郷の地と比べれば、随分とか細い月明かりだ。だが、足元に揺れる儚い金色のさざめきから、懐かしい記憶を拾い上げて、八雨は優しく微笑した。
「また会えるのが楽しみだよ。僕の魔獣――ラクシュミー」
愛しげな音色はまた、声を潜めて朗らかに笑った。




