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風の王女は幻獣と復讐の夢を見る  作者: かける
第三章 亡国の継子
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朝焼けの王子と王女(2)



「ピユラ殿?」

 突然の呼びかけに、驚いてピユラは立ち上がり、声の方を振り向いた。そこには、同じく思いもかけないという顔つきで、ニールがわずかな供のみ連れて立っていた。上質な毛織物の厚手の外套に身を包み、頬にはかすか赤みが差している。しばらく外を歩いていた風情だった。


「ニール殿」

 なぜここに、と弾みで続けようとして、ピユラはそれを飲み込んだ。なぜもなにも、この城の主は彼だ。時間も場所も構わず、気が向けばどこへでも足を赴けよう。


「可愛らしいですね」

 白くけぶる吐息と共に、ニールが微笑みかける。それがすぐになんのことか分からず、かすか慌てたピユラは、ユリアに整えてもらった髪型のことを指しているのだと気付いて、照れ隠しにその三つ編みをそっとなでた。


「その、ユリアがしてくれたのじゃ。あまり慣れぬのじゃが……」

「お似合いです」

 くっきりとした目元が柔和にほころんで、ピユラはもじもじと小さく謝意を伝えた。彼はどうにも胸をくすぐったくざわつかせる、甘やかな空気を纏っている気がしてならない。伽月(かつき)も似たところがあるので、この国の穏やかな気質の男性は、そういうものなのかもしれないとピユラは思った。


 おそばに行っても、との伺いに是を返す。なんとなくひとりの空間を求めて外に出たところはあったのだが、彼を拒む理由も気持ちもわいてこなかった。


 供を離れて下がらせ、ニールがピユラの隣に腰を下ろす。蒼珠はもちろん、青年へと手を伸ばしかけている透夜(とうや)に比べても、彼はまだ若い。護衛兵や側近に囲まれていると、少年としての小ささや細さが目立っていたが、こうしてピユラとだけ並ぶと目線は高く、ピユラの華奢な体つきよりずっとしっかりとした広い肩や背を持っていた。


「このような早い時間に、どうされたんですか?」

「目が覚めてしまったゆえ、少し朝の空気を吸いに来たのじゃ」

 ぼうっと隣に座った彼を見つめていたことに、顔が合わさって気付いて、ピユラはつとめて自然になるよう庭へと視線を逸らした。ニールが柔らかに笑った気配がした。


「それでは、私と同じですね」

「ニール殿も?」

「ええ、気分転換に。朝の散歩です」


 鼻を赤くしてそう笑う姿は、同じ年の頃の少年そのものだが、その肩にかかる重責は歳に見合ったものではない。同じ王族としてというのも憚れるほど、十分すぎるほど、その重みはピユラにも分かる。彼はただ先王を亡くし、跡を継いだだけではないのだ。王を失い、都を失い、混迷と動揺の中、戴冠など二の次で、いつ瓦解してもおかしくない国政を辛うじて繋いでいる。


 スティルは風羅(ふうら)よりずっと大きな国だ。確か、風羅とスティルの王都が同程度の規模だと、透夜たちと出会いたての頃、蒼珠(そうじゅ)が話していた。かの国に閉じこもっていたピユラには、故国以上に広い国というのは上手く想像ができない。


 長年スティルは、帝国の親交国としてこの地に君臨し、内外ともに表立った争いなく治められてきていた。だがだからといって、内憂も外患も、その芽がないわけではない。国内をいくつかに分割し、そこを領地とする貴族、諸侯を王が統括している。主だった貴族は王都に邸を持ち、領地には名代を置いているが、直接、自身の領地に住まい、統治を行っている者もいる。そうした領主が、これを機に国外勢力と組み、反旗を翻す企みをしないとの保証があるはずもない。あまたいる王都の貴族はもちろん、その名代とて油断はできない。そうでなくても、王都が消えた混乱に民が動揺し、亡国の始まりだと騒乱が起きてもおかしくはないのだ。


 それを、そうした事態が起きぬよう、つぶさに各地の情報を収集させ、耳にし、目を通し、対応を取りながら、一方で日々議論を交わし、献策の奏上を受け、今後の対策や方針の道筋を立てている。

 途方もないと思う。その重圧の苦しさをこの目の前の少年は、賓客として遇するピユラの前では当然のごとく、おくびにも出さないのだ。そこにはただただ純粋に、尊敬の念がわき上がるばかりだった。


「……ニール殿は、すごいの」

 ぽつりと、淡く紫水晶の目元を細めてピユラは呟いた。

「なにも為せていない私とは大違いじゃ……」

 彼のおおらかな空気に緩んでしまったのか、思わずこぼれでた弱音に、ピユラは慌てて口を噤んだ。だが、すぐそば近くに並んで座っているのだ。ニールの耳に届かないはずもなかった。


「そう、見えるでしょうか?」

 瞬かせた瞳をわずか心もとなげに揺らし、ニールは眉尻を下げ、微笑した。

「そうでしたら嬉しく思いますが、私はまだまだ道半ばです。辛うじて現状を維持し、奔走できていますが、王都の地を取り戻すことも、そこに再び都をなすことも、取りかかれてすらいません。ピユラ殿が、ご自身がなにも為せていないとお考えならば、それは私も同じです」

 それは謙遜ではなく、真実そう思っているのだろう。彼ほど優れていても、そうした焦燥を感じているのだ。そこにピユラは妙な親近感と安堵を覚えた。


「同じ、かの?」

 控えめに見つめ上げ、確かめたピユラに、ニールははたと気まずげに頬を赤らめた。

「あ、その、失礼しました。伽月や透夜からピユラ殿についての話を聞き、私と少し似ているなと、勝手ながら思ってしまっていたもので。ご不快でしたらお忘れください」

「いや、そんなことはない!」

 困った風情で詫びるニールへ、ピユラは慌ててふるふると首を横に振るった。咎める意図で、先の問いかけをしたわけではないのだ。


「不快などということは、あるはずもない。それに、その……もし、同じと思い、いまのようにわずかであっても、悩みごとの打ち明け話を出来る相手としてくれるのなら、それは光栄なことじゃ」

 真っ直ぐにニールを瞳に映してピユラは向き合う。そのどこか必死にも見える誠実な真摯さに、ニールは柔らかに微笑んだ。その優しい空気にピユラも思わず、口元が綻ぶ。


 しかし、次にはそれは少し翳りを帯びた。同じ、似ている、と彼が感じてくれた理由は、決して喜んでいいものではないのだ。

「その、ニール殿も、父君を……目の前で、亡くされたのじゃろう?」


 詳しくは聞き及んでいないが、光に飲まれ、消されたという。しかとその死の痕が残らぬのなら、生存の可能性を夢見てもいいのかもしれない。けれど、相手を考えるにそれは望めないだろう。ニールもよく分かっているからこそ、その希望は最初に捨てたに違いない。


 それに、彼は知らないが、昨日ニールから聞いた話として、透夜が先王の最期をハーシュに告げた際。かの魔獣は実に苦々しげな顔をして、小さく、やべぇな、と呟いていた。長の年月を生きているハーシュには、王を葬った魔法がなんであったのか察しがついたようだ。その上でその反応ならば、その死はもはや受け入れるしかない事なのだろう。


「事実としては理解しているのですが……実はまだあまり、実感がないのです。あまりにも、目まぐるしくて」

 ニールは心もとなく苦笑した。ピユラを見ていた視線が、遠く、懐かしむように庭へと移る。


「父は頑迷なところがあって、自他ともに完璧を望み、厳し過ぎるきらいがありました。でも、本質的には純朴な人だったと思うんです。私は、幼少時は基本的に城よりも母方の邸で過ごしていたので、もともと母とあまり相性が良くなかった父とは、少し疎遠になっておりましたが……それでも、私の教育に携わる教師を選任したのは父でしたし、この城にも、狩りで連れてきてもらっていたのですよ」

 成果はいつも散々でしたが、と笑うニールの面差しに、かすかあどけなさが差す。大切な思い出を拾い上げて、内緒で見せてくれているようで、ピユラは温かに胸をくすぐられる心地がした。


「いつも、ということは、よく狩りに赴かれていたのか?」

「春先や夏に、馬の練習もかねて。私はどうも、そちらの方面は不得手なので、そうした機会を与えてもらえるのは助かりました」

 微笑み尋ねるピユラに、面映ゆげにニールは答える。なんでも卒なくこなしそうな彼に、苦手なものがあるのは意外だった。他意なくその感想を伝えれば、伽月や透夜にはまるで及ばないのだと、悔しそうに言う。ピユラとしては比較対象が悪いのでは、という気もして首をひねりたくなるところだが、ニールには、幼馴染ゆえの譲れなさがあるのかもしれない。


「祖父が亡くなり、跡を継いで父が王位に就かれてから、そうしたこともなくなってしまったのですが……」

 ひとしきり、どちらともなく緩やかに会話を繋ぎ、狩りの話や城での過ごし方を語らった後、ぽつりとニールが呟いた。


「王となられてからの父は、なにかと独断的で専横なところが増えてしまい、私ともいささか衝突がありましたので。ただ、いまなら、きっと父を追い立てていたのであろう、己が手でなにかを為せねばという焦りも、理解できる気がします」

 もちろん、していいことと悪いことはありましたが、と苦笑して付け加えた瞳が、切なげに細まった。つい先ほどまで少年の顔をしていたかと思えば、ふと大人の横顔をのぞかせる。


 見つめる中庭は、いままで彼が訪れることのなかった冬の色だ。寂しく凛とした空気の染み渡る景色は、どのようにその目に映っているのだろう。

「父は、王としての偉業というものに、憑かれてしまったようでした……。でもそうして周りを顧みることが減ったためか、私自身がやることも、基本、父の妨げにならぬ事であれば、止められはしませんでした。もしかしたら……父の王太子時代の経験も、影響したのかもしれません。私は幼かったのであまり知らないのですが、父は王太子であった時分、祖父に制されていたことが多かったようなので」


 己が父王に縛られ、抑制され、ようやく自ら決め、その足で立てるかと思いきや、傀儡に落とし込まれる。それが苦しかったのだろう。


「父の無念は分かるのです。それに、例え不仲であったとしても、やはり、こんな形でいなくなられるのは――……堪えます。だから、なんとしてでも、私はこの国に昔日の姿を取り戻したい」

 いずれ光りを抱く暁闇(ぎょうあん)の双眸。そこにしかと映えた強い意志に、ピユラは目を奪われた。だがその輝きは無自覚なのか、ピユラを振り向いた眼差しは、先の険しくもあった眩さを奥底に潜めて、ただ緩やかに彼女に注がれた。


「まだ私は……父のために、泣くことすら出来ていない身ですが」

 静かに、食い入るように、ピユラは見入られるままに、ニールを見つめた。飲み込まれそうなその大きな瞳に、面映ゆげに、身の置き所に困った様子でニールが微笑む。

「すみません。随分とひとりで話し過ぎました。誰かに、少し聞いてもらいたかったのかもしれません」


 なかなか、たとえそれが昔馴染みの伽月や透夜であったとしても、国の者相手ではしづらい話なのだろう。彼は、父を亡くして戸惑う少年ではなく、揺るがぬ王として在らねばならないのだろうから。だからこそ逆に、年も近く、少し似て思えるという理由で胸の内を明かせながら、スティルとは縁遠いピユラが、ちょうどよかったのかもしれない。


 ピユラはそっと、ニールの手に、己の手を重ねた。

「私でよければ、いくらでも。聞いてくれる相手がいる――ただそれだけで、気持ちが安らぐこともある。それはよく、知っている」

 波間の寝室で風羅の話を聞きながら、ふわりと彼女を抱き、背をなでてくれた柔らかな感触を思い出す。ニールにとって、己がわずかなりとも、あの時のユリアのようであれたらいい。出会って間もなくとも、確かに彼に抱いた憧憬混じりの敬意は、ピユラに自然とその思いを起こさせた。


「それに、ニール殿はしっかり為すべきことを為され、前に進まれている。尊敬する。それが――少し……羨ましい。為せることが残され、その力もある。私は、もう、為すべきことはひとつしかないと――……必ず報いをと決めているのに、それすら、その機を得たのに、喉元にも届かなかった……」

 自嘲を溶かして、ピユラは彼を見つめ上げていた目を伏せた。


 なにも出来ていないと己を責めたが、そもそも、ピユラに出来ることなど、ほとんど、なにも残されてはいなかったのだ。父も、民も、国も――……。

「……なにが、違ったのじゃろう……」

 ぽつりと、それは思いもかけず転がり落ちて、ピユラは自身で驚きに大きな瞳を瞬かせた。その弾みなのか、一粒、涙の雫が頬をなでて、消えていく。


 誤魔化さなければと、慌ててピユラは目元を拭った。けれども、あとからあとから、それは抑えが効かずに溢れてくる。

 聡明なニールのことだ、ピユラの呟きがなにを意味したか悟ってしまったに違いない。彼もなにも為せないと自らを厳しく評すが、着実にいつかの故国の姿を取り戻すため、いくつもの手掛かりを作っている。なにより、父と都は奪われたが、民と国は残された。


 同じ国が、同じ男が、国と都の違いはあれ、同じほどの王の住まう地を攻めておきながら、その結末はあまりにも違う。


「すまぬ。話を聞くと言いながら、これでは話づらいにもほどがある」

 止まらぬ涙を必死で拭いながら、なんとか笑顔を取り繕う。それにニールの表情が悲痛に歪んだのにまで、気づく余裕はピユラにはなかった。

「ニール殿は、泣くことも出来ておらぬといったが、私は泣くことしか出来ぬな。もう泣くまいと、つい先ほど思ったばかりだというのに、不甲斐な、」


 そこで、目元をいく度もこすっていた両の手をニールに包み込まれるようにして止められた。握りしめた彼女の手の先へ、額を寄せてニールが詫びる。

「申し訳ありません。お気持ちを汲みきらず、自分の思いだけをお話ししてしまいました。貴女が失われたものの大きさを、聞き及んでいたはずなのに……」

「そんな、こちらこそ、すまない。顔を上げて欲しい。本当にニール殿の話を聞くのは光栄だと思っているのじゃ。このように……突然に泣き出すなど――……」


 おろおろと戸惑いながら、ピユラは眉尻を下げる。握ってもらった手は柔和な空気を裏切って強く、振りほどくのも躊躇われる。その温かさが優しいのに、それゆえさらに涙が止まらない。


 この涙は、ただの悲しみだけでなく、彼がその温かな手で守れるものを持つことへの嫉妬が混じっている。それが留められない自分が、悔しくて憎らしかった。彼の手はこんなにも、柔らかな温もりに溢れているのに――。


「すまない……このような涙、ニール殿に見せるなど。スティルの民が無事なことを恨むようで、なんと醜い……」

 くしゃりと顔を歪めて、ピユラは唇を噛んだ。


「その涙は、貴女が失われたもののために流すもの。当然の悲しみ、当然の憤り――当然の妬みでしょう。それを醜いとは、僕は思わない。けれど――……」

 予期せぬ強い口調で涙を受け入れられ、呆けたピユラの上に、手を離されると同時にふわりと彼の肩にあった外套がかけられた。頭からすっぽりと包みこまれて、濡れた頬に刺すようだった冷たい空気が遮られる。


「見せたくないと思われるなら、見はいたしません。だからどうか、堪えることのないよう」

 聞こえるのはニールの音色だけ。その顔色は見えない。けれど、どれほど切ない労りに満ちているかを知るには、それだけでも充分だった。


「ピユラ殿は泣くことしか出来ないのではないと思います。泣くことが、出来るのです。喪失の痛みをなかったことにせず、ずっと、ずっと抱え持っておられる……。それほどに、いまも愛している――だから流れる涙を、堪えることはないと思います」

 ピユラは、涙ごと覆ってくれている外套の端を握りしめた。冬空の下だ。ニールが寒くないかと思いはしたのに、大丈夫だと礼を言って、それを返すことが出来なかった。視線の落ちている膝元が滲み、ぽつぽつと溢れた涙が服を色濃く染め変えていく。


(ああ、そうじゃ。そうなのじゃ――……)

 ずっとずっと、愛している。それゆえ、どんなにいまが苦しくなろうと、いとおしむことをやめられない。


「手を……」

 震える声で、ピユラは呟いた。身を隠してくれる外套は、その内ではいくらでも泣いていいと抱きしめられているようで――けれど、互いでそうしあうにはまだ距離がある。それが心地よくもあるのに、どこかねだるように、心が体温を求めた。

「手を握らせてもらっても、いいじゃろうか?」


「いくらでも」

 柔らかにしっかりと、外套の下から控えめに差し出されたピユラの手を、ニールは握り返してくれた。静かにとめどなく涙が流れて、嗚咽がもれる。その時間を、じっと手を握りしめたまま、隣でニールは守ってくれた。


「――……ニール殿。すまない。ありがとう……」

 ようやく、涙声が言葉を紡げそうになって、ピユラは目元を拭い、外套の端から彼をのぞき上げた。合わさり絡んだ瞳が、穏やかな笑みにほどけてピユラを包む。

「いいえ、構いません。――お心に適うならば、いつでも、僕の隣を使ってください。共にずっといる人の前では、逆に見せられない嘆きもありましょう。それでもそばに誰かが必要な時は、遠慮なくお呼びください」


 まだつながれたままの手に力がそっと込められて、ピユラは面映ゆげに微笑んだ。夜明け間際の空を切り取った瞳は、変わらず溶けるように優しい。

「本当に、ニール殿は王子様じゃの……」

 感嘆交じりの、独り言のようなピユラの呟き。それにニールが首を傾げれば、彼女はまだ涙に潤んだ瞳を照れくさそうに逸らした。


「その、あの……いま言うようなことではないのじゃが、……憧れていたもので、じゃな」

「憧れていた?」

「お、王子様に……」

 ニールがきょとんと瞳を瞬かせる。ピユラは告げてしまったことに急に羞恥がこみあげてきて、頬を赤らめた。


「こちらの風俗の物語を幼い頃よく読んでいたもので。それで、こちらの姫君や王子様に、憧れてしまっていたのじゃ。あの、あれも、ちょっと驚いたのじゃ。こちらの王子様は、本当にするのじゃな、と」

「あれ、ですか?」

「あ……その、手の甲に、挨拶でちゅっと、やるやつじゃ……」


 もじもじと、ピユラはニールの外套の端を握りしめては、引っ張った。そこで、そうだこのような話をする前に、外套を返さなければと思い至ってピユラは彼を仰いだ。だが、納得いったという様子で甘く微笑むニールと顔が合い、動けなくなってしまった。


「お気に召しましたか?」

「え? その、いや、」

 すっと立ち上がったニールが、ピユラの前で膝を折り、彼女を見つめ上げる。

「どうぞ、ピユラ殿の行く末にこそ、幸多からんことを祈っております」

 戸惑う間にその手を取られ、彼はそこにそっと唇を寄せた。戯れと呼ぶには誠実に、美しく柔らかく願いを込められて、ピユラの頬が火照ったように染まる。


「お、王子様じゃのう……」

 ようやく紡げた一言は、王女らしい気の利いた返礼の言葉ではなく、幼子そのままのような感想だった。なんとも気恥ずかしく感じたが、微笑ましげに仰ぐニールの瞳にそれも掠れて、ピユラもほんのり口元に笑みをたたえた。

 その時だ。


 鎧と下げた剣のぶつかり合う音を響かせて、中庭の向こうから駆けてくる足音が響いた。驚き見れば、もう離れて控えていた供の元まで、護衛兵がひとり走り寄ってきていた。息を急き切り、肩を激しく上下させながら、ニールの側元まで来るのも惜しんで、駆けながら叫ぶ。


「殿下、ご報告です! 飛空船が飛び立ちました! 北東へ向かっており、帝国への帰投とも見えます!」

 立ち上がり、顔つきを変えたニールの隣で、ピユラの面からも浮かべていた笑みがかき消え、失せる。


「――……行かせぬ」

 低く這った声にニールがピユラを振り向いた時にはもう遅く、口早に唱えた呪文と共に風が逆巻き、ピユラを包み込んだ。編みこまれた髪が、猛る尾のように風と共にたなびき、そこに飾られた花の小さな花弁が吹き散らされる。


「ピユラ殿!」

 呼びかけたニールの声は風の轟きに飲まれ、ロマリウスの花の香をかすかに残して、ピユラは王都の空へと飛び立った。








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