告解(1)
冷えた空気に震える窓硝子から、凍ったように静かな夜空を見上げる。蒼珠蒼珠が通された部屋はすでに暖炉に火がともり、温まっていたが、時ともに随分とその勢いも弱まってきた。忍び込む外からの冷気に侵食され、窓辺ともなれば首筋から寒さに襲われる。月はもうとうに沈んだ刻限。もし辛うじて残っていたとしても、東側のこの部屋からはのぞみも出来ない。ただ無数に広がる星ばかりが、遠く冴え冴えと瞬いていた。
運んでもらった夕食も、どうにも手を付ける気が起きず、冷たくなっている。ちらりとそれを横目に捉え、耳元の飾りに伸ばしかけた指をとどめて、蒼珠は頭を抱えた。重く吐息がこぼれ落ちる。それに重なるように、扉の開く音がした。
「暗いな……もう少し、明るくしたらどうだ?」
ここしばらくですっかり耳に馴染んだ、低めの少年の声。旅の間はだいたい彼と同じ部屋で眠っていたが、此度もそうなのだ。親しんだ空気がひとりきりの空間をかすか変容させてくれたことに落ち着いた。
顔を上げて見てみれば、ちろちろと蛇の舌のように燃え残りを舐めるばかりだった火へ、薪を数本放り込んでくれている。そして、その手に握られていた思いもかけない代物に、蒼珠は驚きに目を開いた。
「酒? どうしたんだ、それ?」
「飲める口か?」
流された瞳が柔らかに細まり、手にした瓶をかかげる。呆けたまま蒼珠が頷けば、冷えた夕食とともに机に置かれていたグラスへ、透夜は開けた瓶の中身を注いだ。透んだ赤紫の液体が、踊るように波打ち揺れる。
「ここは元は狩りの滞在用の城だからな。こういう備えが、ある程度はある」
「にしたって、これいい酒じゃねぇの? 香りやべぇな」
近寄る前から芳醇な香りが甘く鼻をくすぐる。きつすぎず、深く心地よい匂いだけで、質の高いひと瓶だとうかがえた。
促されて向かい合わせの椅子につく。少しずつ大きくなってきた火灯りに、持ち上げたグラスの中身が艶やかに照り映えた。
「お前、酒、いける方だったのか?」
「嗜む程度だ。顔にすぐ出るしな。だから種類なんかも、あまり詳しくない。でも、こいつはわりと美味いな」
「やっぱ、舌肥えてんのなぁ。わりとっつうか、これ、相当美味いぞ」
口をつければ、飲んだことのない上品な甘みと渋みが混じりあった、濃い味わいが舌の上に広がった。さすがは王侯貴族の酒ということだろうか。それにスティルは、風羅と比べればずっと気候が温暖で作物の育ちもいい。かの国ではあまり見かけることのなかった果実酒が、充実しているのも頷けた。
「で、なんでここで急に酒?」
揺らしていたグラスから、金色の瞳が透夜を見つめて問う。いつなにが起きてもいいように、旅の間に酒を酌み交わしたことはなかった。いまならば、護衛兵も多く、魔獣の父もいる。酩酊するほどでなければ、飲むこと自体に問題はないだろう。だが、どちらかというと遊びの少ない透夜の方から、それを誘いかけるとは考えもしなかった。ただ杯を傾くことだけが目的ではないだろう。
「まあ、お前と飲んでみたいというのもあったが――口を軽くするのに、愚痴にいい……そういうもんなんだろ?」
グラスから離れた口端が、ほのかにそう引かれて彼を見つめ返す。蒼珠は苦笑した。
「それ間違った使い方だぜ~。誰に教えられたんだよ」
「俺の入れ知恵のあてなんて、だいたい分かるだろ。で、なにか話す気になったりするか?」
笑って流そうとするのを許さず、穏やかながらも彼の声音は静かに話題を引き戻した。
「――無理にとは、言わないがな」
「……お前ら兄弟にも、心配かけちまったな」
見上げる紫の混じった眼差しと付け加えられた気遣いに、観念して蒼珠はため息交じりに微笑んだ。たれ目がちな目元が、より所在なげに下がって見える。
「さすがに、あれはなかったよなぁ……。親父にも、ちょっといつにない調子で苦言を呈されたけど、まあ、当然だ」
力の使い方ひとつすらなっておらず、飛びかかってあの失態だ。思い返すだけでも嫌気がさし、蒼珠は肩を落とし、一口、グラスを煽った。
「親父には、とりあえずのところ、力の使い方ってのを学ばせてもらうことにはなったんだが……あれだな、本当はそれより、俺の中身の方が問題だ。そいつは、分かっちゃいる」
杯の脚をゆるゆると回せば、豊かな香りを散らしながら深い紅玉の波が中で踊る。もう一口、澄んだ果実の芳香ごと流し込むと、喉の奥にちりりとかすか熱が走った。
「なぁ……透夜、騎士ってどんなもんなんだ?」
「は?」
唐突な質問に透夜が怪訝に眉を寄せれば、蒼珠は曖昧な笑みで笑った。
「いや実はさ、俺、騎士って言ってはいるが、実は風羅には本来そういうのはなかったんだよ。ピユラの護衛が、騎士ってことになったってだけで。あいつがこっちの物語に憧れてた話はしたろ? あれ、自分の名前だけで終わんなかったんだよ」
「階級までこさえさせたのか、あいつ……」
「ま、名称変わったぐらいだけどな。王女付きの護衛を騎士と呼ぶ、みたいなさ」
呆れ顔の透夜に、蒼珠は軽快を気取って笑って見せた。それに透夜が柔らかに肩をすくめる。その気はなくともこぼれる強がりを、咎めはしないとでもいうように。
それが甘やかされたようで気恥ずかしく、蒼珠はさりげなく視線を彼の外に泳がせた。
「だから、なんだ……こう、こういうもんなんだろうなってのはあんだけどさ、本当のところは知らないんだよ。ちゃんとした騎士は、透夜の方が詳しいだろ?」
「まあ、うちの国には、騎士号の叙任はあるからな。基本的に騎士ってのは、国と王に忠誠を誓い、勇気と武勇を誇り、慈愛と礼節をもって人に接し、滅私でその身を主君へ捧げる――という建前になっている。だが、まあ、騎士号は武功ある者への栄誉だ。必ずしも、いま言ったすべてを満たしていなくても、功績があれば与えられもする。おそらく、ピユラが物語で憧れた騎士ってのは、本物よりお前がやってるやつの方が近いだろうさ」
「でもまあ、紛い物だからなぁ」
グラスを離し、組んだ腕を頭の後ろに、蒼珠は天井を見上げる。凭れた彼の重みに、椅子の背が少し軋んだ音を立てた。
紛い物――。思えば、全部、そうではないだろうか。騎士という立場も、魔獣の力も、全部後付けだ。初めから持っていたものなんて、何ひとつないではないか。
「なんつうか……それらしく見せるのは、わりと上手く出来ちまったんだよなぁ」
黙って聞いてくれている、向かいの涼やかな瞳に苦笑する。
どうすれば頼もしく見えるのか。心強く思われるのか。小さな頃から手本のような父を見ていたから、真似をするのは容易かった。そしてその小賢しい物真似で、確かに小器用に取り繕えていられたのだ。余裕のある風に笑って見せて、しかたねぇなと頭をなでて、守ってみせると嘯いた。
「……憧れて、手を伸ばしたんだ」
ぽつりと、透夜に向けるでもなく蒼珠は呟いた。
物心ついた時には、もう憧れていた。人ならざる、けれど温かな力に魅せられていた。それは単に力だけに憧れたわけはない。あの力強い背のようになりたかった。小さい頃は、純粋に焦がれ、いつかなろうと奮起していた。けなげに、迷いなく――。
けれど大きくなるにつれて知ったのだ。あれにはきっと届かない。いいや、もう、絶望的に遠い。存在自体が違い過ぎる。
憧れた分だけ、目指した道程の分だけ、落胆と絶望が深くなった。なりたい自分になれなどしないと突きつけられた。
それを、認めたくなかった。がんばれば、足掻けば、近づけないだろうかと。どんなささいなことでも、よく出来たねと褒められていた幼子が、成長とともに、実は出来なかったことが多かった己を怖れ、呪うような焦燥感。それがいつからか、いつも蒼珠に付きまとっていた。
杯を煽る。ふわりと甘い香りが鼻に抜けていき、滑らかで飲みやすい。もう一口流し込んで、少し強い酒だと思った。
「……ジェディアーツっていうんだけどな、俺に魔獣の力を与えた奴」
誰にも――父にもピユラにも告げたことのない名が、口から滑り落ちた。
「俺さ、ずっとガキの頃から、親父みたいになりたかったんだよ。どうやったって無理だって、そもそも資質がねぇって分かってからも、諦めきれなかったんだ。そこに来て、置いてけぼりだろ? ちょっと精神的に参ってたんだよなぁ、たぶん。んで、そいつが魔獣にしてくれるっつうから、ついてっちまったの」
「それで、以前聞いた話に繋がるわけか。帝国の研究所で、魔獣の血に眠る力を無理やり目覚めさせたっていう……」
「そうそう。だから、なんだ……前も言ったかもしれないが、自分で招き寄せちまったんだ、この体質は。それに、こういう身体なったことに後悔はねぇんだよ。――憧れてた……本当に、憧れてたんだ」
もう届かないものへの憧憬をふと金色の瞳の底に揺らして、蒼珠は残った酒を一気に煽った。もう一杯もらえるか、とねだれば、否も唱えず無言で透夜は瓶を手にまたグラスを満たしてくれた。呆れた風もなく、逆に促す素振りもない。彼の方はまだ半分も減ってはいない。ただつきあってそこにいてくれるのが、有り難かった。思えば、幼い頃は人気のない場所を転々とする生活であったし、風羅ではピユラとその父王以外とは、そこまで付き合いを深めようとはせずにいた。だから多少年下とはいえ、透夜のように、密に時間を過ごすこととなった比較的齢の近い相手というのは、初めてかもしれない。
ふと寄せた感謝の念を注がれた酒への礼に紛れさせて、それをまた喉へと通し、蒼珠は続ける。
「ジェディアーツに魔獣の力を与えてもらえるってなった時、それだけで十分、嬉しかったし浮かれてた。そのうえ、そいつ本当になにも自分で出来ない奴でさ。色々、世話焼いて、面倒見てってのやってたら、すっげぇ喜んで、頼りにされて。なんつうか、万能感じゃねぇけど、そんなん。俺がガキの頃、なんでもできてすげぇなって親父を見てたのと、同じように見られてて、親父になりたかった俺には、それが随分と心地よかったんだ」
そう、彼の琥珀の眼差しは心地よかった。蒼珠を頼ってくれた。憧れてくれた。そして分かりやすい力をくれた。だから、幼い日の憧れになれたように、錯覚した。
(ああ、そうだな……それが、どうしようもなく――)
どうしようもなく、いまなお心の奥を掴んで離さないのだ。
憧れに溺れて飲み込まれていては世話がない。けれど、彼の態度は、まるでそこで呼吸が出来ているかのように錯覚させられた。一度味わった自身への失望に、沁み込んだその快感が、消えないのだ。
「子どもみたいな奴でさ……。ずっと俺より年上なんだぜ? でも本当に、ただ慕ってきて、もっと、利用するような感じがあったなら、違ったのかもしれねぇんだけど……。なんつうか、俺の方があいつの好意とか知識とかを利用して、そのくせ逃げてきたような気持ちが抜けねぇんだ。あいつのせいで、相当ひでぇことしでかしたのにな……」
暮れなずむ夕陽に沈んだ、凄惨な村の姿。あの村で、つい数瞬前までただ普通に一日を終えようとしていただけの人々が、いったい何人いたのかを蒼珠は知らない。齢も、顔も、男女の別も、なにひとつ、記憶の片鱗にすらないのだ。殺めておきながら。すべて、奪っておきながら――
「……覚えてねぇんだよ」
ぽつりとこぼした悔恨に、かすか首を傾いで応じくれた透夜へ、蒼珠はまだ随分残っていた酒を煽った。酩酊には程遠い。けれど、酔い惑わせる独特の冷たい熱に侵されたことにして、いま、許されているなら、彼に吐き出してしまいたい気がした。懺悔ひとつすら、素面で真っ直ぐにできない己に、たいそう呆れる。
「前話した時は、魔獣の力に飲まれて、人を殺しちまったことがあるって、そんな言い方した気がすっけど……それ、一人や二人じゃねぇんだよ。もっと、いた。でも、全然、覚えてねぇんだよ……」
揺れて歪んだ瞳で不格好に微笑む。なぜここでまた取り繕おうとしたのか――。蒼珠自身も無意識であったし、それはひどい出来栄えの失敗作だった。結局、静謐にただ見つめてくれる透夜の眼差しに耐え切れず、机に肘をついた両の手で顔を覆う。声が震えている気がした。
「俺がやったってことは、正気に戻った時の状況で分かっちゃいるんだ。でも、その時の意識がない。その上、どうしても、あいつが喜んでたっていう、それが消えなくて――」
ジェディアーツと過ごしていた時間。自分がなにかすることで、彼が喜ぶ姿に満たされていた。繰り返し、繰り返し。それはジェディアーツと過ごすうちにじわじわと染み込んでいった快楽で、あんな事態になった時でさえ、理性と拒絶の片端で、甘い棘となって疼いていた。
「どっかで確かに、なにかが囁くんだよ。こいつが喜んでるなら、いいんじゃねぇかって。俺がしたくてしたわけじゃない。俺は覚えてねぇんだからって。――……最低だろ?」
垂れ下がった目元が自嘲に歪む。
ピユラに語れるはずもなかった。父に告げられるわけがなかった。でも彼ならと思えたのは、どうしてかは分からない。酔っていないつもりで、もう酒気に飲まれているのかもしれなかった。
「あいつのそばにずっといたら、きっとそう思いきっちまう。苦しい罪悪感は見ないふりで、望まれて、頼りにされる俺を演じて、喜ばれるならそれでいいって……都合の悪い部分を放り投げて、憧れの真似事に縋っちまう。それが怖くて、終わりにして逃げた――……つもりだったんだけどな。結局、終わりにも出来てなきゃ、逃げられもしてねぇし、ずっとずっと引きずりっぱなしだ」
彼に与えられた陶酔しそうな満足感が、あの琥珀の瞳と共に消えない。君にあげるとつけられた銀の印が、だからなぜか、外せない。そんな状態で、止めなど刺しきれるはずもなかった。
「――正直、いま、ピユラもそういう風に見てないかって言われたら、少し、怖い……」
長く深い吐息とともに、振り絞るように蒼珠はこぼした。
彼女の背を支えているふりで、その実、その復讐を止めもしていない。そのことに、どこか己の罪までともに断罪されることを望んでいるような後ろ暗さを、見ないふりをする瞬間が、確かにあった。そこへきて、薄緑の目を持つ男のあの嘲笑だ。
『彼女を守るというその言葉が、彼の元に戻らないための言い訳じゃないか、よく見つめ直しておくことだね』
慕ってくれる真っ直ぐな瞳に、頼ってくれる素直な態度に、己の欲を映していないか。その存在をジェディアーツの身代わりにして過ごし、彼が生きているとなったいまは、なんとかその元に戻らない理由に仕立て上げていないか――。それを、そうではないと、自信をもって思いきれなかった。
『絶対守る。そばにいさせろよ』
そう月夜に誓ったのは、皮肉にもあの白衣の男が最初に彼らを襲った日のことだ。騎士の素振りで跪いて、ピユラの手を取り誓詞を真似た。あの時自分はなんと言っていただろうか。
『そういうとこは、馬鹿親父に似ちまった。お前を死なせたくない。だから、俺はお前のそばについている』
それは父が母へと向けていた言葉、まるでそのままだ。ずっと聞いていた、父の誓いだ。
母とピユラの気質が似ていると、透夜でさえすぐに見抜いていた。どちらとも彼以上の時を過ごしていた蒼珠が、それを思わぬ訳がない。母に似た少女を相手に、父を演じていなかったか。本当にあの夜の誓いは、偶然に父と同じだっただけなのか。愚かに自分ですら気づきもせず、憧れのままごとをしていただけではなかったか。
「あいつのそばにいるって、迷いなく、約束したはずだったんだ……」
うなだれて呟く蒼珠を見つめる向かいの瞳は、ピユラを思い出させる。そこに差す紫の光だけでなく、その凛と際立つ強さが、よく似ていた。
「約束、したはずだったのに、ジェディアーツが生きてるって分かったとたん、なんなんだろうな、あれ……」
力ない苦笑がこぼれる。
そばにいると、躊躇いなく答えられなかった。父を真似た紛い物の誓いなど、その程度の薄っぺらいものだと言い渡された心地だ。
「なりたかった自分の幻を見るために、あの日の罪悪感を誤魔化すために、ピユラのそばにいて、支えようとしていたわけじゃねぇんだよ。そのはずなんだよ……」
それなのに、ジェディアーツの存命が分かったとたん、自ら逃げ出したはずなのに、ひどく揺らいだ。あのあらゆる真っ当な感覚に、甘い靄がかかっていたような日々に戻れると、後ろ髪を引かれたようだった。
「きっと俺は、十七の……仕出かししたくせにそれを認められなくて、憧れを諦めきれないガキのまま、取り繕うばっかで進めてねぇんだな。だからずっと、止まった瞬間の場所と相手が忘れられない」
力ない自嘲が口端に上れば、かすか耳元で白銀の飾りが揺れた。意図せず伸びかけた手の先を、そっと蒼珠は握りしめる。今さすがにそれはないだろうと、苦笑しかこぼれない。
「そのせいで――騎士の真似事すら中途半端なまま、肝心なところであの様だ。ほんと、どうしようもねぇなぁ……」
弱々しい声は、その横顔を照らす朱色の火明かりの中へと溶けて消えた。




