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風の王女は幻獣と復讐の夢を見る  作者: かける
第二章 紅い魔獣
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五年の空白




 所在なく船の上をうろついていた蒼珠(そうじゅ)の目に、帆柱を挟んで向かいの甲板を、ピユラが勇んで駆けていくのが飛び込んできた。小さな体で働く男たちの間を小鳥のようにすり抜けていく。

(あいつ、どこ行く気だ……?)


 そこでようやく、この船に移ってから、あまり周囲に目をやれていなかったことに気付いて蒼珠は自嘲した。父がいる以上、安全はまたとないほど約束されている。とはいえ、見ず知らずの強面の男ばかりの船で彼女を放置気味にするとは、あまりにも不用意で己らしくない。


(いけねぇなぁ……。しっかりしねぇとだ)

 ひとつ息をついて、ピユラを追って歩き出す。清々しく船上を吹き過ぎる鋭い風にぴりりと耳先が痺れるように冷え、思わず指が、揺れた白銀の耳飾りに伸びた。


(――……やらかしちまったことは、取り戻せねぇし……)

 遠く彼方に追いやり切れない、頭の奥にこびりつく焼け焦げた臭いと閃光。深紅に染まった視界に、確かに心が躍ったざらついた記憶だ。

(いつまでも……逃げてられねぇことも分かってんだけどな……)

 憧れの果てだったのだと言い訳しても虚しい、自身の手で引き起こした事態を、父母相手に告白する覚悟が決まらない。それがなぜなのか、漠然と感じながらも、蒼珠は目をそらし続けているのだ。自身への不甲斐なさや幼い愚かしさへの後悔だけではない。


(……消えねぇ……)

 ため息ひとつ吐いて、ちらつく琥珀色の眼差しを思考の奥に追いやる。外すように指先をかけかけた耳環(じかん)を、やはり結局そのままに耳元に残し、蒼珠はピユラの後を辿った。


 彼女はどうやら小型の砲台の設置された、小さな部屋のようになっている一区画を通り過ぎ、その先の扉を抜けて船首へと向かったらしい。小柄なピユラには通りやすくとも、蒼珠にはなかなかに狭い空間をなんとか抜け、扉に手をかけたところで、彼はぴたりと動きを止めた。


 先にいるのは、ピユラだけではない。話し声がする。その声の主を蒼珠が間違うはずもなかった。彼の父と母だ。船全体を父の気配が薄っすらと包み込んでいるため、近づくまで正確にいる位置が分からなかった。


 扉を開けて姿を見せることも、彼女を追ったことをなかったことにし踵を返すことも出来ず、蒼珠はその場に張り付けられたように固まる。ピユラの声は、かつて彼が聞かせた、両親が姿を消した時の話をしていた。そして――

『なぜ、行ってしまったのじゃ?』


 蒼珠は扉の影で目を見開いた。真っ直ぐに、どこか咎める響きすら隠さずに彼女は問うた。それは、蒼珠もあの日からずっと、いつか尋ねたいと思っていた問いかけだった。それでも、上手く口にできずにいた疑問だった。

 両親が戸惑った空気を感じた。答えはないだろう――そう、すぐさまどこかで諦めて蒼珠が思った時、ぽつりと口を開いた父の声が、低く深く、彼の耳朶に響いた。


 五年前感じた不穏な魔力の気配のこと。それを機に、彼らがなにを決意し、なにを為したのかということ――簡潔にゆっくりと、静かに事実だけを父は語った。

 知らなかったと思った。気づかなかったと理解した。


(ああ……そっか、俺は――)

 不要と見做されたゆえ、捨てて行かれたわけではなかったのだ。


 見れば、扉にかけたままになっていた指先が震えていた。父母が帝国の手を逃れながら生き延びるために、邪魔と判じられても仕方のない弱さだと思っていた。彼には、あの時はなにもなかったのだから。

 だからこそ、置いていかれたことを仕方がないと受け入れきっていた。そう、つい先まで信じていた。けれどどこか心の片隅で、それは少しばかり違ったらしい。


(――驚いたな、こりゃ……)

 目元を掌で隠すように押さえ込んで、蒼珠は苦笑した。自分で気づいていた以上に、少年の頃の彼がずっと、心の奥底で、悲痛に叫んでいたらしい。その幻影がきっといまようやく、救いあげられている。


「ってことだ、蒼珠。悪かったな……結局、なににもなれなかった」

 話終えて、扉の向こうからこちらへ、心から詫びる父の穏やかな低音が届けられた。蒼珠がそこにいることに、とっくのとうに気づいていたのだ。


 どうにも面映ゆく、わずか間を置いて蒼珠はそっと扉を開け、姿を見せる。微笑む母と優しい父の眼差し、そしてなによりどこか嬉しそうに輝くピユラの笑顔が気恥ずかしくて、目が合わせられない。置いていかれたのは確かだ。でもそれは、大切ではないからではなかった。ピユラの表情が、盗み聞いた話以上に雄弁にそれを告げていた。


「詳しい理由も告げずにいなくなれば、あなたが戸惑うことは分かっていたわ。でも、知っていることで繋がってしまう可能性を怖れてしまったの。あなたの瞳がそうなっている以上……もうすべて言い訳にしか聞こえないにしても、あの時私たちは、そう思ったのよ」

 蒼い瞳は微笑みながらもどこか痛ましく苦しげに、蒼珠の金色をじっと見上げる。笑みの向こうに、眼差しの奥に、拭いきれぬ悔恨を湛える両親に、蒼珠は乱暴に頭を掻きむしった。そんな顔をしてもらう訳にはいかないのだ。彼がこの目を得たのは、彼の意志ゆえ起こったことなのだから。


「いや……俺もそん時もう十七だったんだから、十分大人だろ。突然ってのには、まぁ驚いたけどよ。んな謝られるほどのことでもないっつうか……。その、俺の方こそ――そこまでしといてもらって、申し訳がたたねぇよ」

 首を傾ぐ父母へ、蒼珠は言葉を探しあぐねながらも、自身が魔獣の力を得た経緯を、意を決して語り始めた。


 ひとり旅に出てしばらくしてから、帝国の男に出会ったこと。その男の誘いに自ら乗り、自身で望んで魔獣の力を得ようとしたこと。それゆえに――制御できぬ力を手に余らせ、多くの命を奪ってしまったことがあることを――。


「……だから、この目になっちまってるのは、親父や母さんのせいで見つかったからとか、捕まえられたからとかじゃねぇんだ。無理やりされたんでもねぇんだ。むしろ、俺が――自分で招いちまったことだから、詫びてもらう必要なんてないどころか……俺の方こそ、謝らないといけない」

 話しながら、逸らしてしまっていた顔をもう一度上げる。母の海の瞳を見る。父の眩い金色の双眸をとらえる。


「魔獣の血を引きながら……許されない罪を犯し、いまも誇りもない化け物にしかなれない。不甲斐ない。すまない……」

 振り絞るように言って、蒼珠は頭を下げた。父が大きくひとつ、吐息を落とした気配がした。歩み寄る重く確かな足音。制裁を望みすらして拳を握りしめた蒼珠の頭の上に、柔らかに大きな掌が降った。


「その謝罪、受け取った。だが、お前、大人の気でいんのか? そこがまだまだ青臭せぇ。たかが二十三が生意気な口利くな。誇りを語りてぇなら、もっと時間かけて成長しな。十分、時間はあんだからよ。……やっちまったことについては、あえてなにも言わねぇ。だからこの告白で下ろさず、背負ってけ。で、もっとあがいて、どうしても納得いかねぇってことになったなら、また俺の前にそうしに来い。そん時は、希望通り一発かましてやるよ」


 そっと置かれていた掌が遠のく。顔を上げる。蒼珠の目に、同じ色の瞳が、ずっと眩しく、困ったように微笑むのが映り込んだ。

「それにな、蒼珠。どんだけ成長しても、どんだけ頼りになっても……例えなにやらかしちまっても――やっぱ親には、いや……俺たちには、お前がいつまでも大事な存在なのは変わりねぇんだよ。俺たちは、息子のお前を守りたかった。負い目ないただの平穏を願った。だが、どういった理由や経緯にせよ、そいつが出来なかった。だからよ、そこんとこは、親らしく悔やませて、親らしく詫びさせてくれよ。な? それが息子の度量ってもんだぜ」


 呆ける蒼珠を、背の高い彼よりもさらに高い位置で、父は見下ろす。焔の髪が果て無く広がる青い空色を背に、鮮やかに海風に靡いていた。

「蒼珠――すまなかったな」

「ああ……うん」

 気の利いた言葉一つ返せず、幼子のように頷いて、蒼珠は小さく苦笑をこぼした。叶わないと思う。いまだどうしようもなく届かない。でも、届きたいと願う。


(ああ、そうだな……。だからきっと、そのためには――)

 もうひとつ――もうひとつ、蹴りをつけなければならないのだ。父母のこととはまた別に、もっと薄暗く重く、臓腑の内にわだかまり、柔らかく彼を掴んで離さないあの瞳。それを切り離す方法を、彼はまだ見つけられず、蓋をして見ないふりを決め込むしか出来ずにいる。


『君に出会えて、嬉しいんだ』

 他意なく無邪気に告げては笑う、溶けるような夕暮れに似た琥珀色。それに一度伸ばした手を、いまだ振り切りきれずにいる己を知っている。


 無意識に蒼珠の指はまた耳飾りに触れていた。他に彼の耳を彩るのは金色の装飾ばかりの中、ひとつだけ不自然に目立つ、左の白銀色。それに目敏く気づき、ハーシュは訝しげに視線を眇めた。

「そいつ、らしくねぇな」

 独り言に近く呟かれた父の言葉。それに蒼珠は息を飲み――なにかを言いかけ、肩を落とし首を振るった。


「……わりぃ。こいつについては、まだ、上手く話せねぇ……」

 先の時も、彼は己が魔獣の力を手に入れた経緯や、為してしまった取り返しのつかない後悔を父母へと告げたが、どこかぼかして、話さなかったことがある。それは、彼に魔獣の力を与えた男のことだ。それは誰にも――あのあと一番時を長く過ごしたピユラにさえも、語ったことはないことだった。


 気まずげに黙す蒼珠に、心中を汲みとったのか、ハーシュと秋珠は視線を交わし合った。蒼珠の様子に不安げに顔を陰らせたピユラの肩に、秋珠が優しく手を添え、ハーシュが静かに蒼珠を見定める。

「なに抱えてるかは知らねぇが、そいつはてめぇでなんとかするって言うなら、聞きはしねぇ。きっちりてめぇで解決しな。背中は見ててやるよ」


「……ほんと、敵わねぇな。――感謝する、親父、母さん……」

 泣きそうに蒼珠は笑った。ようやく、あの男の元を逃げ出した日から、一歩踏み出せそうな――足がかりを掴めそうな、そんな予感がした。


「ピユラ」

「なんじゃ?」

 親子を見守ってくれていた王女に振り向く。彼女が聞いてくれたから、気づくことすらしてやらなかった、五年前、まだ少年だった蒼珠の悲しみが報われた。

「――……ありがとな」


 蒼珠の声を乗せて海風が吹く。黒い髪をたなびかせ、素直にきらきらと輝く紫水晶の瞳が、嬉しげに細まった。







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